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Vol.210 言語に関する一私見:複数の言語を話すということ(2)

医療ガバナンス学会 (2017年10月13日 06:00)


山本一道

2017年10月13日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

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Vol.209 言語に関する一私見:複数の言語を話すということ(1)

医療ガバナンス学会 (2017年10月12日 06:00)


山本一道

2017年10月12日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
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日本にいるとほとんど何の役にも立たないが、筆者は7年ほどヨーロッパに居住し臨床医として現地で仕事をしていたため、5ヶ国語をビジネスレベルで話せる、あるいは話していた。
具体的には仕事を始め2年の臨床研修を終えた27歳の時から、英語、スペイン語、フランス語、ドイツ語の順に学び、最後のドイツ語は43歳で勉強を始めGoethe InstituteのC1のcertificateを持っているが、言語としての運用レベルはフランス語の方が数段上にある。
日本人には複数の言語を話す人間が少ないのであまり感じることがないであろうが、海外で日本人の全くいない環境で長いこと仕事をしていた身としては今の日本人があまりに外国語を苦手としていると感じるので、日本人としては稀な例として自分の経験上の感覚についてシェアしたいと思う。 言語学としての知識は筆者にはないので学問的に間違いがあれば指摘していただければ幸いである。
1:複数の言語を話すということ

ヨーロッパ言語にはアングロ系の英語、ロマンス系のスペイン語、フランス語(イタリア語、ポルトガル語)、ゲルマン系のドイツ語などの系統があるが、基本的には後天的に学ぶ言語はネイティブ言語と別の脳の分野に格納されると言われている。対してネイティブはネイティブ言語用の格納分野があるらしく全く別系統で動いているとのことである。 複数言語を話しているとこの格納される引き出しという発想を強く認識するようになる。この引き出しは最近よく使う言語が前面に置かれている感覚があり、しばらく使わない言語は向こう側に押しやられるので引き出しがうまく開けられないという感覚になるのだが、これは系統が違う言語ではあまり顕著にならないという不思議な感覚がある。

日本に帰ってくると全ての言語の使用頻度が減るために、むしろあまり使わないスペイン語などが何もしていなくても話しやすくなるのだが、例えば筆者がスイスのローザンヌにいた頃は毎日毎日十時間以上フランス語で仕事をしていたので、どんなに頑張ってもスペイン語の引き出しが見つからない、あるいはスペイン語を開けようとするとフランス語の引き出しが開く、という不思議な感覚に陥っていた。とにかく頭の中にフランス語しか出てこなくなるのだ。しかしこれは不思議なことに系統の違う言語だとその程度が極めて弱くなる。
例えば英語とドイツ語は似ているという人がいる(実際系統的には近い)が、個人的には英語はむしろフランス語に近い。で、英語とドイツ語はあまり関係なくフランス語と並列できるのである。これはまた引き出しの存在の仕方がルーツが同じものと違うもので異なる可能性を示している。ちなみに自分でも面白く感じたのは、ローザンヌにいた時に夏休みに一週間スペインのかつての病院を訪ね昔の上司たちとスペイン語で話したりしたのだが、夏休み明けの初日はフランス語にスペイン語が混じってうまく話しにくかった経験がある。これは初日の夕方には治る程度の一時的なものであったが、引き出し的な発想では興味ある現象であった。

複数言語をやっていて贅沢に感じるのは誰がしゃべっていても言っていることがわかることが普通になることである。ネットでチェゲバラの国連での演説を聞いた後にシャルルドゴールの亡命政府での宣言を聞き、オバマの演説を聞いた後メルケルの話を聞く。ヨーロッパの首脳は英語だけでなく複数言語喋れる人間が多いので、首脳同士がそれぞれの言語で話し実際に友達のようになっているのがわかるが、これは言語が苦手な日本人の著名な教授などが海外の学会で孤立していたり日本人同士とつるんでいるのを度々見かけるのと対照的であると感じることが多かった。個人的にはお互いが外国語としての英語で話す間は真の友情というのは生まれにくいのではないかと思っている。自分が帰国しても語学を維持しようと努力しているのは親友となった同僚達と話せなくなるのがあまりに残念だという面も大きい。

ヨーロッパ最後の職場であったスイスのベルンはフランス語圏とドイツ語圏の交わる町であるため最低でもドイツ語、フランス語、英語が話せないと仕事にならないような環境であった。このような環境では上司と話している時に途中でドイツ語からフランス語に変わったりそれがいつ変わったのかわからなくなったり自分が今何語でしゃべっているのかが本当にわからなくなる時が度々あった。 これは日本人としては稀なことだが向こうの人にとっては日常茶飯事であり、このような脳の使い方を小さい頃からしている民族に正直まともに競争して勝てるようなものではない、というのが実感である
2:複数の言語を読むということ

複数言語ができることによって人生の幅が広がったと感じるのは、読める書物・観られる映像が格段に増えたことである。

筆者は若い頃医学はほとんど英語の教科書を読んだが、英語は文法構造がシンプルなため表現よりも内容に重点を置きやすく日本語の教科書よりも頭に入りやすいし、今でも論文を書く時は英語の方が書きやすい。以前は自国語で教科書が作れるのは日本くらいだ、などと喜んでいる言説をよく聞いたが、内容の薄っぺらさでは比較にならず今やそれが日本人の弱点になっていると考えている。ただし、一点だけ日本の医学書が海外に比して優れているところがある。それは画像の多さである。昔スイスで頸部エコーの研修に行った時に日本で買ったアトラスを持って行ったところ、スイス人たちが入れ替わり立ち替わり興味をもち、英語版はないのかと聞かれたことがあるが、アトラス系のものは英訳すると結構売れるのではないかと思っている。

しかし学問という意味で圧倒的に情報量が増えたのはやはりドイツ語である。特に人文系はドイツ語の一人勝ちではないだろうか。ニーチェやフロイト、ユング、マックスウェーバー、マルクスなど近代人文系の巨人の多くがドイツ語圏出身であり、実際その原著が読めるだけでなく(原著はドイツ語が結構難しいものが多くて苦労するが)、その分野の学問がマスコミやドキュメンタリーレベルまでかなり充実しており、一般人でもその分野に慣れ親しんでいるというところである。これは極めて国民の能力向上という意味では大きいし、ドイツ系の新聞などのメディアの秀逸さはこれと関連していると思う。

対してフランス語はやはり学問系ではドイツ語の後塵を拝すと言わざるを得ない。ルソーの原文は比較的読みやすいが、他になにかないかなと思ってもメジャーなところではパスカルくらいしか思いつかない(こちらが無学なだけかもしれないが)。しかしテレビのドキュメンタリーや新聞のルポルタージュなどはとにかくフランスのものが面白い。世界中に植民地を持っていたことも関連しているのかもしれないが、中東やアフリカなどのドキュメンタリーやルポを観れるのは本当にラッキーなことであり、日本にいるとこの辺りの情報は得るのはほぼ不可能であると感じている。

スペイン語に関しては現代の学問レベルで大変役に立つとは残念ながら言えず正直少し遅れをとっているといわざるを得ない。知り合いのスペイン人と話していても、スペイン人全体としても英語の普及率も他のヨーロッパ諸国に比べて低く、EUの会合でもスペインの首脳は孤立していることが多い、とどこかで聞いたような話を聞くこともある。
どちらにしても、最近では医学においてもEBMの重要性がつよく強調されているのと同様、社会全般の事象についても日本の中で日本語だけで議論することがいかに一面的で危険なことかというのが、数カ国のメディアを並行して見ているとよくわかる。逆に言えば医学にしても一般的な話題においてもすでに日本語に翻訳されたものを見るという段階で加工された情報でありまたセレクションバイアスのかかったものであるわけで、当事者は当面居心地はいいかもしれないが、結局は日本語環境という中で煮詰まっているのみならず外からも何が起こっているのかわからないという状況であり、極めて危険な状況であると憂慮している。

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