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Vol.22095 加治木島津家若殿の鉄馬参勤交代記

医療ガバナンス学会 (2022年5月12日 06:00)


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精矛神社禰宜
島津久崇

2022年5月12日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

私は加治木島津家14代にあたり、現在鹿児島県姶良市加治木町に鎮座する精矛神社の禰宜をしている。
現在13代である父義秀が加治木島津家当主、また精矛神社宮司を務めている。

精矛神社は昨年、九州初のオートバイ神社に認定された。
オートバイ神社は、一般社団法人日本二輪車文化協会の認定するものだ。日本バイクオブザイヤーなどを行っている団体でもある。

認定された背景には、御祭神である島津義弘公が馬の名手だった逸話に紐付く。
島津義弘公は関ケ原合戦の折、敵中突破を果たしたことなどで有名だ。
例えば、義弘公は80歳を過ぎても馬を悠々と乗りこなし、山を駆け下りていたという話だ。
そんな後ろを追う若い家来衆は、次々と落馬したという。
他にも、こんな話がある。義弘は太鼓踊りの衆を2列に並べ、この間を馬で駆け抜けてみよ、と家臣に命じてみる。
だが、誰もそれを行おうとしなかったので義弘公が手本を示した、という逸話がある。
それを踏まえた上で今回、オートバイ神社の認定を受けるに至った。

私自身も、二輪の免許は高校卒業時に取得し、大学時代はバイク通学していた。
引っ越し先に駐輪場が無かったことからバイクは手放す事になったが、オートバイ神社認定をキッカケに自分自身も乗らなければ、と思いリターンライダーとなった。

今回、精矛神社にて安全祈願の上参勤交代を経験してみようと考えた。
島津家の参勤交代は1607年まで遡る。関ケ原の後徳川家は何かと島津家を警戒し、定期的に査察団を送り込む話があった。薩摩としては戦後戒厳令を敷き武装している状況を徳川に悟られたくない為、それならばこちらから2年に1回程度御機嫌伺いに江戸へ上がりますよという話になった、という裏話が伝わっている。

今回、4日かけて地元の加治木から上京することにした。初日は山口県まで入ることが目標だった。最初に通った街道は薩摩街道だ。薩摩街道は参勤交代の際、主要街道のひとつであった。私は今回大口の方から進んでいったが、有名なのは出水筋である。鹿児島城からのルートはこちらを通ることになる。大口筋は神秘さを感じさせる山の中を通り、水俣にでる道だった。通ったのは当然初めてで、今まで見たことのない故郷の景色に胸を躍らせた。
そこから熊本城まで進むと、それまでの景色とは一変して大混雑に遭遇した。気分はまるで下山した仙人だった。
さらに進んで、関門トンネルに入る。外は少し肌寒かったが、トンネル内はとても暖かく進みやすかった。ここは原付2種の場合20円で通れる。
その後宇部市まで進み、24時間スーパー銭湯のようなところで初日の参勤交代は終了。
翌日は姫路を目標に進み始めた。
広島県に入ってから、抜けるまでの距離に驚いた。いくら進んでも広島県内をなかなか抜けず、進んでいる感覚が現れなかったのは印象的だった。精神修養にとても良い道のりだったと思う。
福山市で友人が店をやっていると聞いていたので訪ねたところ、当日がリニューアルオープン日だったところに遭遇した。友人はまだ開店準備が終わっておらず、急遽手伝う事に。開店してから集まるお客さんたちとの会話から、地元に愛される店主として頑張っていることを強く感じた。
夜8時頃にはお暇して、先に進む。この日は進んでいる道の温度計が8度を記録していた。寒さのあまり、合羽を着て進むも防ぎきれず、寒さを感じなくなること2時間くらいかけて岡山のブルーライン出口近辺まで進んだ。
コンビニに止まったら震えが30分ほど止まらず、缶コーヒーやスープを飲んで暖を試みた。この時が今回の旅で一番過酷だったのは言うまでもない。
こんな事もありながら、当初の目的地だった姫路についたのは夜11時過ぎ。この日はスパランドのような場所ではなく、しっかりホテルで休んだ。

3日目は神戸で2か所ほど寺社仏閣に足を運んだ。1か所目は須磨寺だ。ここは薩摩琵琶歌「小敦盛」の舞台になっている。この歌自体は聞いたことがあったが、とても広い仏閣だった。敦盛は笛の名手であり、敵味方の心を掴んだ若武者だったという。自分の息子程の、しかも敵味方の心を掴むような素晴らしい笛の名手を斬らねばならなかった熊谷直実の心中たるや、想像に難くなかった。ここにきて境内を見て回る中で、感じるものがあったのは今後の糧になると思っている。
2ヶ所目は湊川神社だ。ここは大楠公、楠木正成を祀っている。薩摩琵琶歌に「桜井の駅」というものが残っている。これは楠木正成が自身の死を覚悟し、桜井の駅で子の楠木正行公に後を託す話が記されている。境内は賑わっており、初宮詣している家族が多く目立った。次の代へ託す姿勢、忠義の尽くし方を示すこの歌からも、日新公が伝えたかった教えが垣間見えた。
今まで行ったことのない場所、知らなかった話に触れ、あふれる思いを胸に先へ進む。
この日は浜松市まで進み、友人の家で1泊させてもらった。

最終日は友人と東京まで進んだ。富士山を見て、桜島とはやはり尖り方が違うなぁ、という感想を抱きながら進んでいった。途中箱根の関所に寄り、記念館を見ることにした。鹿児島には野間の関跡というものが出水市の方にある。今や石碑があるのみなのだ。しかし箱根は建物などもあり、記念館や当時の様子を人形等置くことで想像しやすくし、検分を体験しているかのような感覚を得られる空間になっていることに驚いた。
記念館の参勤交代一行の人形を見て、鹿児島出発前に15代沈壽官と話した内容が頭を過った。それは、参勤交代のキャストを現地調達していたのではないか、という話だ。確かに、これだけの人数を1か月以上飲み食いさせるのはとても大変な事だ。ましてや、薩摩は石高に見合う量を手に入れられなかったはず。コスト削減のためにやっていたのかもしれないなぁ、という内容だ。実際のところ分からないが、関所慣れしている人が居たのかと思うと、なんだか可笑しかった。

その後、旧東海道を進み東京を目指す。この道はヘアピンカーブが多く、九州では見なかったレベルで過酷なカーブを沢山経験した。その後1号線をひたすら進んだ。今までで一番距離が短いはずなのに、混みすぎて体感的には今回の旅でトップクラスの県跨ぎに時間を要した。
品川に着いたのは22時頃。高輪藩邸跡地である品川グースを経て、家まで帰った。
今回、初めてした道で鹿児島→東京の移動を経験した。
走りながら、日本の景色の美しさを一番感じていたのは参勤交代をしていた者たちではなかったのか、と考えていた。
私は以前、日本人は日本を知らなすぎることに懸念を示していたことがある。
日本に目を向け、その中にいる自分と向き合い、自分はどういう流れの中の点であるのか、を意識するキッカケになったのは言うまでもない。

今、日本ではなく海外で過ごしたいと考える人は多いだろう。
しかし、その目的は海外ではなく国内でも目的によっては達成できるのではないだろうか。
知ることで増える選択肢はある。しかし、体験しなければその選択肢にはなり得ない。

島津義弘公の祖父である日新公のいろは歌にもある。
「いにしへの道を聞きても唱えても 我が行いにせずば甲斐なし」
自分で経験しなければ、意味を持つ事は無い。

次は関ケ原→大阪城の道のりを走ってみたいと思う。
時代は違うが、途中治水神社にも寄りたい。
加治木島津家14代が、島津家の足跡を鉄馬で辿る旅が、今年始まった。

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