医療ガバナンス学会 (2010年12月23日 06:00)
東京大学医科学研究所 先端医療社会コミュニケーションシステム
上 昌広
※今回の記事は村上龍氏が主宰する Japan Mail MediaJMMで配信した文面を加筆修正しました。
2010年12月23日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
【茨城県の医師数はメキシコ以下】
茨城県の医師数は人口1000人あたり1.5人(2006年現在)です。全国で、埼玉県についで下から二番目で、全国平均(2.1人、以下、医師数は人 口1000人あたり)の3分の2です。これは、OECD加盟国中最低のトルコ(1.5人)と同レベルで、メキシコ(1.8人)に及びません。
更に、団塊の世代が高齢化するため、医療需要は増加します。政策投資銀行が発表した推定では、高齢化がピークに達する2025年の茨城県の患者当たりの医師数は、鳥取、和歌山、徳島県などの半分程度になります。
【水戸市に医者がいない】
茨城県の医師不足の特徴は、県庁所在地である水戸市の医師数が不足していることです。水戸を含む二次医療圏の人口は48万ですが、医師数は820名程度 です(1.7人)。周辺の日立・常陸太田・鹿嶋まで含めると、人口は143万人で医師密度は1.2人まで下がります。これは、ほぼブラジルの平均です。
県庁所在地の医師が少ないのは、あとは埼玉県、静岡県、鳥取県、島根県くらいです。過疎のイメージが強い青森県でも2.6人、岩手県でも2.7人もいま す。ちなみに、徳島市は3.2人、鹿児島市は3.5人です。徳島県、鹿児島県で水戸市周辺なみの医師密度なのは西之表だけです。徳島では医師が最も少ない 美波町でも1.5人です。いかに、水戸周辺の医師不足が深刻かお分かりでしょう。
【茨城大学と旧制水戸高校】
なぜ、水戸市には医師がいないのでしょうか?それは、地元に医学部がないからです。私は、水戸のような大都市に医学部がないことこそ、近代日本の宿痾と感じています。
茨城県では、筑波大学が誘致されるまで、理系を持つ総合大学は茨城大学だけでした。同大学は、1949年、戦後の学制改革で地元の水戸高校、茨城師範、茨城青年師範、多賀工業専門学校を包括して設置されたものです。この中で、核となったのは水戸高校です。
同校は1920年(大正9年)に設立された旧制高校です。明治政府は1886年(明治19年)の東京に始まり、1908年(明治41年)の名古屋まで全 国に8つの旧制高校(ナンバースクール)を作りました。その後、各県に一つずつ官立高校を整備しました。その一つが水戸高校です。このような高校は地域の 名前を冠して呼ばれたため、ネームスクールと言われています。
旧制高校の誘致は地元の悲願だったようです。水戸は宇都宮と熾烈な競争を繰り広げ、最終的には、茨城出身の船成金 内田信也が100万円(現在価値で 100億円以上)を寄附し、全国13番目の官立高校として開設されました。貧しかった明治時代、日本人は教育に夢を託したのでしょう。明治人の気概に感服 します。
水戸高校は各界に多くの人材を輩出しました。例えば、後藤田正晴・赤城宗徳氏らの官房長官経験者から、『武士道残酷物語』で有名な今井正監督まで多岐に 渡ります。ただ、残念なことに、医療やライフ・サイエンス部門では、めぼしい人材がいません。それは、水戸高校には医学部がなかったからです。
この状況は、ナンバースクールとは対照的です。例えば、一高は千葉に医学部があり、後に千葉医学専門学校となりました。三高の医学部は岡山にあり、岡山医学専門学校に移行しました。
【内紛に明け暮れた水戸藩】
水戸高校は水戸藩校の弘道館の蔵書を引き継いだことで有名です。弘道館とは1841年(天保12年)水戸藩主 徳川斉昭によって作られた藩校で、大日本 史で有名な水戸学の舞台です。武道は元より、医学・薬学・天文学・蘭学などの自然科学も研究されたといいます。平成の現在、水戸市には医師養成機関はあり ませんが、江戸時代には存在したのです。どうして、弘道館が茨城医学部へと発展しなかったのでしょうか。
それは、幕末、水戸藩が迷走したからです。改革派の天狗党と保守派の諸生党が熾烈な内部抗争を繰り返しました。天狗党には徳川斉昭が抜擢した人材が多く、諸生党には弘道館の諸生(書生)が多かったと言います。
戊辰戦争までは諸生党が優勢でした。例えば、1864年(元治元年)に藤田小四郎らが筑波山で挙兵した天狗党の乱は鎮圧されました。また、1858年 (安政5年)に改革派が朝廷に働きかけた戊午の密勅騒動は幕府に潰され、弾圧された改革派たちは桜田門外の変、坂下門外の変へと突き進みます。
しかしながら、両者の関係は戊辰戦争で逆転しました。朝敵となった諸生党は会津・北越戦争に合流し、会津藩降伏後は水戸に舞い戻りました。そして、弘道 館を舞台に天狗党と戦い、敗れ去ります。この時、弘道館は焼失します(弘道館戦争)。諸生党は敗走を続け、最終的には松山(下総)で壊滅します。
この後、弘道館は再建されず、藩校の伝統は断絶しました。これは、山口・鹿児島・岡山などの旧制高校が明倫館、造士館、岡山医学館などの旧藩校・藩医学校を引き継ぎ、地域の中核大学へと発展したのとは対照的です。
【燃え尽きた水戸藩】
明治時代、医師は希少であり、育成には膨大な資金が必要だったでしょう。幕末からの伝統を持つ藩校が医学校に発展することはあっても、各地に新設したネームスクールに医学部を新設するのは困難だったことは想像に難くありません。
また、明治の日本は貧しく、有限の資源を奪い合うため、激しい政治闘争を繰り返しました。そして、この時期に現在の日本の骨格が形作られました。この過 程で、資源は薩長土肥を中心とした西日本に優先的に分配され、新政府に反攻した会津など雄藩、姫路など譜代、宮崎県など幕府直轄地は徹底的に干し上げまし た。明治になっても、新政府は不安定で、旧幕サイドへの恐怖心を抱き続けたでしょうから、このような地域に医学校を作り、敵に塩を送るとは考えられなかっ たのでしょう。
水戸藩の不幸は、維新以降、急に元気がなくなったことです。天狗党は明治維新の貢献者ですが、明治政府では栄達した人は殆どいません。この理由は、誰に も分からないようで、司馬遼太郎の言葉を借りれば、「(幕末の内紛で)摩滅してしまった」そうです。このあたり、水戸気質を見る気がします。
【水戸市に医学部を】
茨城県に医学部が出来るのは、1973年に筑波大学が出来るまで待たなければなりませんでした。弘道館戦争から実に105年です。
現在、茨城県内で、医師数が全国平均を上回っているのは、つくば市周辺だけです。90%以上の地域はメキシコ以下です。茨城県の医師不足は筑波大学の定 員を少し増やしたくらいでは解決しません。もっと、抜本的な改革が必要です。私は、出来るだけ早期に、水戸周辺に医学部を新設すべきですだと考えていま す。
幸い、茨城県には財政的に豊かな神栖市があります。その財政力は、市に限定すれば、全国トップ10に入ります。国に頼らずとも、医学部の創設は可能です。
茨城に必要なのは、企画・調整・行動出来る人材です。幸い、茨城には、梶山静六 元官房長官や山口武平 元茨城県県議会会長、さらには血盟団事件で団琢磨を暗殺し、出獄後に県議会議長を務めた菱沼五郎のような豪傑を輩出してきた土壌があります。最近では、原 中勝征 日本医師会会長を生み出しました。彼は、日本の医療のリーダーであると同時に、茨城県のリーダーです。医療崩壊に直面し、第二、第三の「原中」が登場し、 地域を巻き込んだ運動となっていくことを期待しています。