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Vol.63 『ボストン便り』(第22回) 「健康への権利・健康への義務」

医療ガバナンス学会 (2011年3月13日 06:00)


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「健康への権利・健康への義務」

細田 満和子(ほそだ みわこ)
2011年3月13日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


紹介:ボストンはアメリカ東北部マサチューセッツ州の州都で、建国の地としての伝統を感じさせるとともに、革新的でラディカルな側面を持ち合わせている独 特な街です。また、近郊も含めると単科・総合大学が100校くらいあり、世界中から研究者が集まってきています。そんなボストンから、保健医療や生活に関 する話題をお届けします。
(ブログはこちら→http://blog.goo.ne.jp/miwakohosoda/)

略歴:細田満和子(ほそだ みわこ)
ハーバード公衆衛生大学院リサーチ・フェロー。博士(社会学)。1992年東京大学文学部社会学科卒業。同大学大学院修士・博士課程を経て、02年から 05年まで日本学術振興会特別研究員。05年から08年までコロンビア大学メイルマン公衆衛生校アソシエイト。08年9月より現職。主著に『「チーム医 療」の理念と現実』(日本看護協会出版会、オンデマンド版)、『脳卒中を生きる意味―病いと障害の社会学』(青海社)。

健康のリスク・ファクターとしての喫煙

健康に有害なタバコに関することは公衆衛生の大きなテーマです。ハーバード公衆衛生大学院でもタバコ・コントロールの研究者が何人もいますし、社会疫 学、公衆衛生の倫理、医療政策などさまざまな授業科目で、タバコによる健康被害、世界の喫煙状況、禁煙政策などについて触れられています。

2011年1月に提出された全米研究会議(NRC)の報告書では、アメリカ人の平均余命が他国より短いのは、数十年前の高い喫煙率が主な原因であること が示されています。アメリカはGDPに対する医療費支出が16パーセントと世界一でありながら、平均余命の伸びは鈍く、常にほかの高所得の国より低い値で あるという問題を抱えています。翻って日本はGDPに対する総医療費はアメリカの2分の1の8パーセントですが、平均余命ではアメリカよりも5歳近くも長 くなっています(アメリカ77.9歳、日本82.6歳)。
アメリカでは、この差を縮めようと様々な原因究明がなされてきており、そのひとつとしてNRCは、今から30年から50年前に、アメリカではヨーロッパ や日本と比べて喫煙の習慣が広範囲にわたっていたことを示し、このことが今日の平均余命の伸びの鈍さに影響していると結論付けました。デンマークとオラン ダでも、禁煙によって平均余命が長くなる傾向が認められたといいます。

タバコが健康に有害であることは、実はそれほど当たり前のことではなくて、ここ数十年の間に共通認識になりつつあることです。そのきっかけを作ったの は、フラミンガム心臓研究Framingham Heart Studyの研究成果です(実際の発音通りに表記するとフラミングハムが正しい)。フラミンガム研究は、NIHの資金でボストン大学公衆衛生大学院が中心 となって行っている、3世代で合計15,000人を対象とした60年間にわたるコホート研究です。従来、病気に罹るのは事故と同じようなもので、運が悪 かったからと考えられていました。しかしフラミンガム研究で、喫煙や食生活や運動といったライフ・スタイルが、心臓病や高血圧と関係があることが明らかに されてきたのです。
また、喫煙は本人の健康を害するだけでなく、周りの人が煙を吸って健康を害するという、副流煙による二次的な害があることも、近年の研究で明らかになってきました。特に喘息を持つ人などにとってはその被害が深刻です。

タバコ・コントロール

このような研究を根拠に、アメリカでは禁煙運動が盛んになり、大々的な禁煙キャンペーンが行われてきました。タバコ・コントロールの基本は4つです。煙 草に対してマイナスのイメージを植え付けること、喫煙できる場所を制限すること、価格を高くして購入の壁を高くすること、ニコチン・パッチなどを使用し禁 煙するための医療的な介入をすること。
マイナス・イメージ戦略は、いろいろなところで見かけます。タバコの箱には、喫煙するといかに健康を害するかということが明示されることになっていま す。また、かつてタバコをかっこいいものと描いてきたハリウッド映画はそのことを反省したのか、多くのDVDの冒頭に禁煙を訴える広告が流されます。まず は西部劇のヒーロー、美人女優、アクション・スター、ロック・ミュージシャン、スポーツ選手がかっこよくタバコを吸っている映像が音楽と共に次々と流さ れ、最後に、その結果がこれ、というように病院で車椅子に座った顔色というか全身の色が悪くなった老人が登場するというものです。この広告がどの程度の影 響を与えているかわかりませんが、かなり生々しい映像で訴える力があると思いました。

ボストン市の試み

喫煙場所の制限もアメリカ全土で行われています。すでにニューヨーク、ロサンジェルス、サンフランシスコなど大都市も含めて500の地域が、公共の場で の喫煙を禁止しています。ニューヨークが禁煙になったのは今年に入ってからですが、タイムズ・スクエアも公共の場所として禁煙地区となりました。マサ チューセッツ内でも約12の自治体が公園や浜辺などでの喫煙を禁止しています。
これほど全米で公共の場での禁煙が定められていても、驚くべきことにボストンでは未だ、公園や浜辺でタバコを吸うのが許されたままです。ただし、ボスト ンでもタバコ削減キャンペーンは数十年にわたって展開されてきて、現在、二人の市議会議員councilorsが公共の公園や浜辺での喫煙を禁止する条項 を提出しています。ちなみに二人とも喘息の持病があります。ボストン市長のトマス・メニーノ氏も、レストランやバーでの禁煙や薬局でのタバコ販売廃止を支 持しています。ただしメニーノ氏は、この二人の市議会議員の提案に対しては、期待を表明してはいるものの、特に関与しない方針であるといいます。

個人の責任

すんなりと公共の場での禁煙が決められない論理は、人々の健康を守るためにいつから個人の権利を制限すべきか、という問題があるといいます。
ただ、この問題設定を見ると、どうしてもおかしいと思わざるを得ません。ある個人が自分の意志でタバコを吸って健康被害を受けた場合、それは個人がタバ コを吸う権利を行使した結果であり、本人に責任があることになります。しかし、副流煙で健康被害にあう羽目になる場合、それは完全な被害者です。副流煙を 出してもいいという個人の権利はないと言っていいと思います。人を殺す権利がないのと同様に。

禁煙の効果

アメリカでも女性より男性の喫煙率の方が高いのですが、喫煙率がピークを迎えた時期は男性の方が早く、女性は遅れてピークを迎え、現在では両者とも減少 傾向です。喫煙のピークと喫煙が死亡率に与える影響のピークには20年から30年のタイムラグがあることが知られています。このことから、今後、米国男性 の平均余命は比較的急速に改善するという予測がされています。一方で、男性よりも喫煙行動のピークが遅かった米国女性では、死亡率の減少はゆっくりだと予 測されています。
ただしNRCの報告書では、アメリカの平均余命の改善を阻む要因として喫煙だけでなく肥満も挙げています。肥満傾向がこのまま続く場合は、いくら喫煙率が低下しても、平均余命が長くなることにはつながらない可能性も指摘されています。

命の計算

ハーバード法科大学院教授のヴィスクーシ氏は、タバコがひと箱売れるたび、政府は財政支出を抑えられていることを発表しました。すなわち、タバコを吸う 人は短命なので、政府はその人のための医療費や年金を支払わなくて済むからです。国は儲かっているタバコ企業からの税金も入れば、個人が購入する際のタバ コ税も入る、しかも医療や福祉の支出を抑えられて、こんなにいいことはないというのです。これは公衆衛生では良く知られた話で、日本でも有名なハーバード の哲学の教授、マイケル・サンデル氏も講義や著書の中で紹介しています。
わたしがこの話を聞いたのは、ハーバード公衆衛生の倫理学教授で、かつてWHOで初めての倫理部門で上級研究員になったダニエル・ウィクラー氏からでし た。そこで彼に、日本では、世界で2番目に大きいたばこ企業である日本たばこ(JT)の51パーセントの株を持っている大株主は財務大臣だという話をした ところ、それでは財務省に、日本では命の計算をしているから財務省が国民にタバコを売るようにしているのか、聞いてみるよう勧められました。そこで、財務 省のホームページの質問の項を通してメイルで聞いてみたところ、10日後くらいに「当方ではそのような計算はしておりません」という、そっけない返事が来 ました。

日本での喫煙状況

日本は現在、平均余命がほぼ世界で一番長く、長寿の国ということになっています。しかし近年の日本の喫煙率は、先進国の中では群を抜いて高いまま横ばい 状態です。喫煙の影響は20年から30年後に出るということは、日本の平均余命は、今後短くなるのかもしれません。このことは、今後高齢化が予想されその ための医療費が高騰するという危機感を持つ人々にとって、もしかしたら好都合なことなのかもしれません。
昨年2010年10月に、日本ではタバコが値上げされたといいます。しかしそれでもタバコひと箱400円程度で、イギリスで1000円、アメリカで800円と比べると安いと言わざるを得ません。値上げしても、喫煙者の数は減らず、本数が多少減少したくらいだといいます。

今年の1月末に日本に一時帰国した際、レストランで二人の子ども連れの女性がタバコを吸っていました。一本だけだったらしょうがないとも思えますが、そ の二人の女性は、一本目が終わっても、次々に吸い続けていました。ちょうど煙が来るので、子どもたちは気持ちが悪いと訴え、本当に困りました。お店の人は 申し訳なさそうにしていましたが、タバコを吸う二人組女性に何も言えない状態でした。アメリカで、レストランは基本的にどこも禁煙なのが当たり前と思うよ うになっていたので、このような状況に遭遇して改めて驚きました。

疫学調査によって、喫煙率が高いのは、低所得、低学歴であることが明らかになり、今日それは一般にも知られるようになってきました。アメリカではタバコ を吸うことは低い社会的地位を示し、人として低く評価される傾向にあります。それゆえに、タバコを吸う人たちが「差別」されている、スティグマ付けされて いることをテーマにする研究者さえ現れている状況です。翻って日本では、喫煙に関してなんとおおらかなのだろうと衝撃的でさえありました。

かつては日本の喫煙率を上回るほどのタバコ大国であった韓国は、近年急激に喫煙率が減り、日本を下回るようになりました。女性の喫煙も劇的に減り、今で も女性の喫煙率が上がっている日本とは対照的です。この韓国の現象は、健康増進法や禁煙キャンペーンの効果でしょうが、もう一つの原因は、かつてかっこい いと思われていたタバコがいまやマイナスのイメージになってきたことが挙げられています。また、世界一の喫煙率を誇り、GDPに対するタバコの消費も世界 一であったギリシアも、近年国が主導となって、ギリシア国内の各大学とハーバード公衆衛生が協力し、大々的なタバコ・コントロールを展開し、公共の場での 喫煙は一切禁止となりました。その結果、喫煙率は劇的に減少しています。
日本は今後、どうなってゆくのか。他人の健康を脅かすことが明白にもかかわらず、タバコを吸う権利があるなどと言い続けるのでしょうか。

<参考資料>
・The National Academies, Past Smoking Rates Are a Major Reason For Shorter Lifespans in U.S. Compared to Other High-Income Countries; Obesity Also Appears to be Significant Factor
・The Lancet, Volume 377, Issue 9765, Page 528, 12 February 2011
doi:10.1016/S0140-6736(11)60181-5 Cite or Link Using DOI
Published Online: 10 February 2011
・Boston Globe, Smoking ban in parks proposed, Hub councilors’ plan echoes trend across country, By Stephen Smith, Globe Staff / February 9, 2011

http://www.boston.com/lifestyle/health/articles/2011/02/09/smoking_ban_proposed_for_boston_parks_beaches/

・David Glenn, Calculated Risks, May 31, 2002,

http://chronicle.com/free/v48/i38/38a01401.htm

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