臨時 vol 205 「医療における業務上過失致死罪が適用される範囲」
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「重大な過失」あるいは「標準的な医療から
著しく逸脱した事例」に代わる具体案
埼玉医科大学総合医療センター
高度救命救急センター
堤 晴彦
08/10/31 第15回「診療行為に関連した死亡に係る死因究明等の在り方に関す
る検討会」
『明白な過失』
ある現役の検事が、刑事訴追する場合に考慮する要件の1つとして、「過失の
明白さ(医学会で議論の余地のないほどの明確さ)」を挙げておられた。医療側
にとって非常に明解であり、日本救急医学会の特別委員会において、それをもと
に、「重大な過失」あるいは「標準的な医療から著しく逸脱した事例」に代わり
うる具体案として、検討したものである(ただし、救急医学会としては未承認事
項である)。
もちろん、私共法律については全くの素人の考えであるから、法的には多くの
問題点が指摘されるものと推察される。しかしながら、法曹界ならびに医療界に
おいて、協議する時の叩き台くらいにはなるのではと考えている。
日本救急医学会が求めるものは、このように、医療の何が、業務上過失になる
のか、その範囲を明らかにして欲しいという要望に尽きる。
そして、この案は、今回の医療安全調査委員会から警察・検察に通知する基準
として示したものではなく、その設置の有無に関係なく、要望するものである。
1.『明白な過失』の定義
明白な過失とは、一般的な医学書(教科書レベル)に、「~しなければならな
い」、あるいは、「~してはいけない」ということが明記されているような、医
学的に誰もが知っている(知っていなければいけない)明らかな医療水準に反す
る場合を指す。
《道路交通法との対比》
同じ業務上過失致死(傷害)で刑事責任を問われる交通事故の場合、道路交通
法で、その判断基準が明確に、かつ、厳格に決められている。
「飲酒運転をしてはいけない」
「制限速度を守って、走行しなければならない」
「一時停止の交差点では、停車しなければならない」、など。
以上のように、交通事故の場合には、明確な基準を設けて、処罰している。こ
れらの判断基準は、非常に明瞭で、紛れがない。
しかるに、医療事故を刑事訴追する場合の明瞭な基準が示されているようには
思えない。これは、罪刑法定主義に反するのではないか。また、このような状況
では、医療側の不安は募るばかりであり、防衛医療・萎縮医療が加速し、医療の
進歩や向上は望むべくもない。
《コメント》罪刑法定主義
前田座長の教科書には、「罪刑法定主義とは、『法律無くば刑罰無く、法律無
くば犯罪なし』と一般に定義される。濫用されがちな刑罰権を制御する原理とし
て、現代の刑法解釈を最も強く規定するものであり、近代以降の西欧型刑法の大
原則である」と書かれている。
すなわち、罪刑法定主義は、ある行為を犯罪として処罰するためには、立法府
が制定する法令(議会制定法を中心とする法体系)において、犯罪とされる行為
の内容、及びそれに対して科される刑罰を予め、明確に規定しておかなければな
らないとする原則のことをいう。公権力が恣意的な刑罰を科すことを防止して、
国民の権利と自由を保障することを目的とする。事前に法令で罪となる行為と刑
罰が規定されていなければ処罰されない、という原則であり、遡及処罰の禁止な
どの原則が派生的に導かれる。刑罰に限らず行政罰や、損害賠償等の民事罰にも
適用されると一般的に解される。
また、道路交通法のこれらのルールは、法律によって明記されているものであ
り、かつ、運転免許証の試験に出題される水準でもあり、誰もが知っている(知
らなければいけない)ルールでもある。
以上のことを考慮すると、「?することが望ましい」「?することが考慮される」
というレベルの医療行為については、刑事責任を問うべきではない。
(参考)治療の推奨の強さの分類と表示
医学的エビデンスに基づいて、治療の推奨レベルは、現在、おおよそ下記のよ
うに分類されている。
グレードA: 行うよう強く勧められる
グレードB: 行うよう勧められる
グレードC1:行うことを考慮してもよいが、十分な科学的根拠がない
グレードC2:科学的根拠がないので、勧められない
グレードD: 行わないよう勧められる
ここで述べる『明白な過失』の定義は、上記に含まれないレベルでの内容であ
る。何故なら、各治療法に対する上記グレード分類に基づく評価は、臨床研究の
集積によって得られる医学的エビデンスによって、将来変わりうる可能性がある
からである。刑事罰を科す医療レベルは、医学的に確定し、今後も変わらない普
遍性のあるレベルにすべきではないかと考える。
「過失」という用語は、もちろん医学用語ではなく、法的概念であり、厚生労
働省の1委員会、あるいは、医療側の人間が”軽々しく”使うべきでないという
反論が、法曹界から指摘される可能性はあるが、そもそも厚生省の第三次試案で
すでに「重大な過失」と記載されていることから、過失という用語を用いても問
題ないと考えている。
また、はじめに述べたように、ある現役の検事が、刑事訴追する場合に考慮す
る要件の1つとして、「過失の明白さ(医学会で議論の余地のないほどの明確さ)」
を挙げていることから、検察側も異論はないと推察される。
〈上記の原則に合致する例〉
1「輸血する時には、血液型を確認しなければならない」
→これを間違えたら、やはり、刑事責任の対象であろう。
2「手術する時には、患者の氏名を確認しなければならない」
→◯◯大学附属病院の事件→これも刑事責任の対象である。
3「薬剤を投与する時は、薬剤の名称・投与量を確認しなければならない」
→◯◯病院事件、◯◯医大の抗癌剤の事件は、刑事責任の対象である。
ただし、上記の場合においても、「チーム医療としての確認体制に不備がみら
れる場合」には、刑事罰を科すことには疑問が残る。個人の刑事罰を問えないシ
ステム上の問題がある場合には、行政処分(個人に対して、というより医療機関
に対して)に留めることも考慮されるべきであろう。
〈上記の原則に合致しない例〉
1「頭痛の患者をみたら、頭部CTを行わなければならない」とは教科書に書かれ
ていない。
CT検査を行うか否かは、医師の裁量(患者を診察して、その観察結果に基づい
ての判断)による。
→◯◯総合病院のクモ膜下出血の事例:これは、刑事責任の対象ではないと考
えている(実際に、不起訴になっている)。
もし、このような事例が刑事訴追されるようなことになれば、「頭痛の患者は、
すべて頭部CTを施行しなければいけない」という基準が、医学的にではなく、法
的に決められることになる。
2.専門診療の場合と救急診療の場合の医療水準の区別
日常診療においては、1.時間的に余裕がある(何回か外来を受診してもらい、
繰り返し診察が可能である。また、必要に応じて、検査を追加できる)、2.文献
を調べることができる、3.不明な点があれば、他の医師にコンサルトできる、4.
自分の専門外の患者と判断したら、専門医に紹介できる、など、医療事故を防ぐ
ための手段・方法は、それなりに準備されている。
一方、日本の多くの救急病院においては、当直医は一人である。どんな患者が
救急で来るかは、全く分からない。もちろん、自分の専門領域以外の患者の診察
をすることがほとんどである。さらに、時間的余裕もないし、文献を調べる時間
もない。相談する上席医もいない。医療事故が起きる危険性は、日常診療の比で
はない。
したがって、両者で、求められる医療水準が異なるのは当然であろう。
(1)救急診療の場合
自らの専門領域の患者の診療を行うわけではないので、その判断基準は、専門
医が自らの専門の患者の診療を行う場合より低い水準にしなければ、救急医療自
体が成り立たない。もし、専門医なみの水準を求められるなら、ほとんどの医師
は、「専門外」あるいは「処置困難」という理由で、救急患者の受入れを断るで
あろう。これでは、救急医療は確実に崩壊してしまう。
普通運転免許証を持った人間に、F1レーサーなみの注意義務を課すのは、無
理というものであろう。
(2)専門診療の場合
一方、専門医の資格は、任意団体である各学会が自らの努力で、その診療レベ
ルの向上を図っているものであり、麻酔科の標榜医(この資格は厚生労働省が認
定している資格である)を除いては、国(厚生労働省)は、全く関与していない。
ちなみに、法曹界においては、国が司法試験を行って法曹資格を与えているだけ
で、医療における専門医試験に相当する試験を法曹界が自発的に行っている訳で
はない。その意味において、臨床系の各医学会は、組織として、法曹界より、は
るかにその水準の向上と維持と普及に努力を行っているといえる。
医療の進歩と向上のために、医療界が自ら努力していることを、刑事訴追の水
準にするのは、他の国家資格との間の整合性を考える時に、根拠がない。
したがって、今後、これらの専門医の資格を、厚生労働省(すなわち、国)が
与えるように制度を変更するか否かで、刑事訴追の医療水準は決まるであろう。
もし、厚生労働省が、麻酔標榜医と同様に各学会の専門医を国家資格として認定
するのであれば、その時には、専門医の水準が過失の判断の水準になることには
同意するものである。
現実には各専門医の資格については、厚生労働省(国)は全く関与していない
のであるから、専門医の水準を刑事訴追の対象とすることには疑問がある。
そうはいうものの、専門医のプライドとして、ある学会の専門医が自らの専門
領域の患者の診療を行う時には、学会等で作成された診療のガイドラインなどを
医療水準にすべきであろうことには、敢えて否定しない。そのようなハードルが
なければ、医療水準の向上・維持が望めないからである。それは、医師として、
あるいは、専門医としての、良い意味での責任であろう。しかしながら、現時点
における処分としては行政処分を行うことも相応しくなく、単に各専門学会が独
自に、専門医資格の停止を行うに留まらざるを得ないのではないか。
《参考意見》
国が、医療において、業務上過失致死罪に問える医療水準は、どのレベルであ
ろうか。法律の素人にすれば、厚生労働省が医師免許を与える水準は国家試験で
規定されているのであるから、国が医師に責任を負わせるレベルはこのレベルと
言えるのではないかと考えるが如何か。そうでなければ、他の国家資格との整合
性がなくなるのではないか。
すなわち、この場合の医療の水準は、いわゆる教科書的なレベル(医師国家試
験レベル)で過失の有無を判断するのが妥当ではないか。少なくとも、これは、
同じ業務上過失致死罪が適用される運転免許証の場合の論理と同じである。
このレベルに達していない事例は、さすがに、刑事罰になってもやむを得ない
のではないか。
〈上記の原則に合致する例〉
1「抗生物質を投与する時には、アレルギーについて問診しなければならない」
→もし、問診せずに抗生物質を投与して、ショックを起こしたら、それは責任ありとせざるを得ない。
2「頭蓋内圧亢進状態を示す場合には、腰椎穿刺をしてはいけない」
→これを無視して、腰椎穿刺をして、脳ヘルニアを来したら、それも無理であろう。
〈上記の原則に合致しない例〉
1上腹部痛の患者を消化器外科医がみる機会は少なくないが、結果的に上腹部痛
の原因が心筋梗塞であった場合、消化器外科医に心筋梗塞に対する診療のガイド
ラインの水準を求めることは無理である。
2脳神経外科医に、心タンポナーデに対する心嚢穿刺を求めることも、もちろん、
無理である。
3.侵襲を伴う手術・手技に伴う合併症について
侵襲を伴う手術・手技については、ある一定の割合で、合併症を生じることは、
既知である。すなわち、常に100%の成功が期待できる領域ではない。したがっ
て、これらの行為について、刑事責任を追求するのは無理ではないか。
例
1鎖骨下中心静脈穿刺
気胸を合併したり、動脈損傷を合併したりする危険性は常にある。
上記の原則に沿って述べるなら、医学書に「気胸を作ってはいけない」あるい
は、「動脈を損傷してはいけない」とは書かれていない。もちろん、書ける訳が
ない(一定の割合で生じる以上、書いても意味がないからである)。「法は不能
を強いない」という原則は、文字通り解釈すべきである。
したがって、これらの医療行為によって、気胸を作ったり、動脈損傷を起こし
たこと自体については、刑事責任を負わせることはできないと考える。
一方、これに対し、これらの手技を行った後、気胸などの合併症の有無を確認
することは「?を確認しなければならない」レベルであると考えられる。施行し
た後、気胸の有無を確認せずに患者が死亡したら、それは、やはり責任は追求さ
れても仕方がないと考えている。一方、確認はしたものの救命できなかった場合
には、刑事罰の対象にすべきではないと考える。
2外科手術
同様である。手術中に動脈を傷つけることは稀ならず起こりうるが、医学書に、
「動脈を傷つけてはいけない」とは書かれていない。一定の確率で起こる以上、
書くことができないのである。
これらの医療行為に対して刑事責任を問うのであれば、外科系の医療の進歩は
望むべくもない。癌という病変に対しては、全摘を目指すのが外科医というプロ
の仕事であり、合併症をおそれるあまり部分摘出に留める萎縮医療・防衛医療へ
の流れは、医療の進歩を阻害し、結果的に患者のためにならない。
さらに、救急診療の場合には、これらの説明と同意を行う時間的余裕すらなく、
また、行ったとしても、診療録に記載する時間さえないことが、ほとんどである。
このような救急医療の現場の実情を、加味すべきであろう。すなわち、危険性に
ついて説明していない場合には、道義的には問題はあるが、救急医療の場合には、
それでも、刑事訴追の対象ではないであろう。
4.その他
診療体制そのものの限界に基づく場合は、刑事訴訟の対象にすべきではない。
せいぜいが、行政処分に留めるべきである。しかも、その処分も、当事者に対し
てではなく、医療機関という組織に対してなされるべき性質のものである。
例
1患者がベッドから転落し、頭部外傷を受傷し、死亡した。
おそらく、看護師のテキストには、「患者の転落防止に努める」というような
記載になっているのではないか。「患者が転落しないように、24時間、看護師が
付いていないといけない」とは書かれていないと思われる。
もし、「付いていないといけない」と書かれているとしたら、現在の病棟の患
者数と看護師の数から、実現不可能であり、そのように書くこと自体が問題であ
る。法は不能を強いることはないはずである。
2患者が食事中に窒息し、死亡した。
現在の医療制度における病棟の看護師のマンパワーから考えて、全入院患者の
食事を、常に監視できる状況にはないことは明らかである。
また、自宅で介護していて転倒骨折ないしは誤嚥窒息した場合には家族が刑事
責任を問われることがなく、医療者・介護者については刑事責任を問われること
の理由が、医療従事者には理解できない。
3入院患者が自殺した。
これも、予防することは困難である。まず、1)自殺防止のために患者を抑制
することはできない、2)患者の家族に付き添いをお願いすることもできない、
3)薬剤によって眠らせれば自殺の防止は可能かもしれないが、現実的な対応で
はない、など、刑事責任の対象にすることは、著しく難しいと考える。
これらの場合、医療機関や介護施設におけるマンパワーや予算面での限界を十
分考慮して、せいぜい行政処分に留めるべきではないかと考えている。
5.まとめ
(1)医療における業務上過失致死罪の適用範囲は、『明白な過失』がある場合とする。
(2)『明白な過失』の定義は、一般的な医学書(教科書レベル)に、「~しな
ければならない」、あるいは、「~してはいけない」ということが明記されてい
るような、医学的に誰もが知っている(知っていなければいけない)明らかな医
療水準に反する場合を指す。
(参考)刑事罰を判断する時の医療水準は、麻酔科の標榜医を除いては、医師国
家試験レベルの水準とする。
ただし、今後、各学会の専門医を麻酔科標榜医と同様に国(厚生労働省)が認
定するようになるなら、各専門領域に求められる医療水準は、各学会が作成した
ガイドラインなどのレベルになることには同意するものである。
(3)侵襲を伴う手技・手術による直接の合併症については、業務上過失致死罪
の対象ではない。ただし、その合併症に対するチェックがなされていない場合に
は、業務上過失致死罪の対象となりうる。
(4)診療体制そのものの限界に基づく医療事故の場合は、業務上過失致死罪の
対象にすべきではない。せいぜい、行政処分(しかも、個人に対してではなく医
療機関など)に留めるべきである。