医療ガバナンス学会 (2012年1月21日 06:00)
このコラムはグローバルメディア日本ビジネスプレス(JBpress)に掲載されたものを転載したものです。
http://jbpress.ismedia.jp/
武蔵浦和メディカルセンター
ただともひろ胃腸科肛門科
多田 智裕
2012年1月21日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
●医療の実態を無視した提言型政策仕分け
2011年11月22日に、診療報酬に対する「提言型政策仕分け」が開かれました。議論では、「デフレの影響で物価が下がり、民間給与の動向や公務員給与 が削減されている…(診療報酬の)引き下げはやむを得ない」という政府の主張を受けて、評価者全員が診療報酬本体について「据え置き、または抑制すべき」 との決定を下しました。これは、現在の日本の医療の実態を踏まえた評価だとは、とても思えません。なぜなら、30年前の診療報酬よりも、今の診療報酬の方 が安いのです。1981年から2010年までの間に賃金指数は1.37倍に、物価指数は1.23倍に上昇しています(参考「 賃金・物価指数を大きく下回ってきた診療報酬改定指数」 http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001wj9o-att/2r9852000001wkcl.pdf 中央社会保険医療協議会)。「デフレだから下げるべき」というのはこれまでの経緯を無視した議論です。
また、医療従事者の給料は、国家公務員の663万円、地方公務員の729万円に比べると半分くらいしかありません。民間の平均給料420万をも下回る 389万にしか過ぎません(参考「公務員と民間との平均年収の比較について http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001tuft-att/2r9852000001tune.pdf 中央社会保険医療協議会)。政策仕分けでとりわけ議論の争点になったのは「病院勤務医の年収1448万円と法人開業医の年収2755万円は1.9倍の開 きがある」という、勤務医と開業医の給料差でした。これに対しても、評価者9人中8人が「勤務医と開業医の収入をバランスさせて、平準化を進める」決議を 下しました。この決議は、「国債の利回りに比べて株式の配当が倍以上あるのは問題であるから、将来的に同じになるようにしろ」と決定したことと実質的に同 じです。
そもそもこの論点は、すでに2年前に「神学論争にならざるを得ない」と決着がついています(参考「開業医の給与は高すぎる?」 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/1159 )。勤務医と開業医の収入は”中身が違いすぎる”ため、比較でき ないものなのです。(参考「『勤務医の給料』と『開業医の収支差額』について」 http://www.mhlw.go.jp/bunya/iryouhoken/iryouhoken12/iryouhoushu.html 厚生労 働省)
●経済界の社会保障負担比率は適正なのか?
財務省の安住淳大臣は、「医療費を負担している経済界、労働組合、市町村、中小企業は『引き下げるべきだ』と言っている」と診療報酬全体でマイナス 2.3%の改訂を要求していました。しかし、実際のところ、日本企業の社会保障負担はGDP比率で先進国最低の7.6%、フランスの14%の約半分です。
確かに、2009年に経営破綻したアメリカの自動車メーカー、ゼネラル・モーターズ(GM)の経営不振の大きな原因は従業員の医療費負担だったと されています。GMが負担していた医療費は自動車1台あたり実に17万円でした。一方、トヨタの自動車1台当たりの医療費負担は1万円程度です。経済界か らすれば、医療費は「安ければ安いほど良い」のは当たり前でしょう。でも、社会保障費の負担を企業が背負わないのは、給料を削減している のとほぼ同じことです。「日本は先進国として適正な社会補償費負担がなされているのかどうか」が問題とならなかったのは、とても残念なことです。
●最大の争点のはずの定額負担は早々に見送り
そして、今回の改訂で最大の争点であろうと思われた、受診時定額負担(外来受診時1回当たり100円の負担金徴収)は、反対の署名活動や集会が行われる前 の11月中に見送りが決定しました。1回当たり100円の受診時定額負担では、もちろん増え続ける医療費の抜本的解決にはなりません(参考「『定額負担』 制度の導入は性急すぎる」 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/10368 )。この制度の本質は「フリーアク セスの部分的な制限」です。
「診療報酬値下げ」以外の医療費削減の方策として、安易な受診の制限はその定義と問題点も含めて、もっとギリギリまで真剣に議論されてもよかったはずでした。
●「引き下げる」だけの議論を越えた改革を
先の「勤務医年収1448万円、法人開業医年収2755万円」についてですが、元の資料(「第18回 医療経済実態調査-平成23年6月実施-」 http://www.mhlw.go.jp/topics/2011/10/dl/tp1019-1-17.pdf 中央社会保険医療協議会)を見ると、個人開業医の平均年収は1300万円、医療法人診療所の3分の1は赤字です。一般病院は全体平均でマイナス0.1%の損益率であり、赤字です。また、 比較的経営が良好な法人診療所も、通常企業の安全域80~85%を大幅に 上回る95%が損益分岐点です。1日20人の予約のうち1人がキャンセルになれば赤字に転落してしまうという、不安定な経営を強いる価格設定だということです。
電気料金のように10%、20%とは決して言いません。診療報酬が3%でも5%でもプラスになっていれば、どれほど現場は楽になり、医療に専念できただろうかと個人的には思います。
今回の「現状維持」の診療報酬改訂に対して、「引き下げるべきであった」という評価が多いことは十分承知しています。でも、診療報酬の引き下げは、医療機 関を破綻させてまでも医療費削減を達成するというハードランディング的な解決策です。国民の命に関わる問題で あることはもちろんですし、長期間の専門的修練を積んだスタッフの連携で成り立つ医療は、いったん破綻させてしまうと再生不能なのです。
厳しい財政状態なのは間違いないのでしょうが、財源を確保する改革、医療機関の適正利用を促す改革など、診療報酬を「引き下げる」だけの議論を越えた改革案が今後議論されていくことを切に望みます。