医療ガバナンス学会 (2012年11月15日 06:00)
(1)医療倫理から見た日本医師会の良くなった点
それは、ドイツ・ナチス政権下で行われた「非人道的な人体実験」と同様の人体実験が日本の軍事政権下で行われたこと、すなわち「満州における731石井部隊事件」を「非人道的な人体実験」であったと認めたことです。それが以下の文章です。
「わが国でも日中戦争から1945年の終戦まで人道に反する医療実験が行われていた。満州における731石井部隊事件である。」(折田雄一・滋賀県医師会前参与、「医の倫理の基礎知識」の基本的事項No.1:『医の倫理~その考え方の変遷』)。
さらに良い点は、それらに対する認識・反省がこれまで不十分であったことを認めたことです。それが以下の文章です。
「日本とドイツは1951年に自国の医学犯罪を謝罪してWMA(世界医師会)に加入を許された。ところが日本では国内の犯罪的な医学実験に対する認識・反省は米ソ対立の冷戦状況の中であったとは言え深まることがなかった」(同上)。
日本医師会はここまでよくなったのです。つぎにすることはそれらの検証と公表でしょう。日本医師会の設立目的の第一は「医道の高揚」です。日本医師会の中 に日本医学会は置かれています。医学・医療の暴走を「医道の高揚」でコントロールすることが日本医師会の第一の存在理由でしょう。日本医師会会長は日本医 学会会長に対して、「日中戦争から1945年の終戦まで行われていた人道に反する医療実験」の検証を行わせればよいのです。その結果を日本医学会は総会な りで公表すればよいのです。
自らが行った「犯罪的な医学実験」に対する認識・反省をこれまで深めることをしてこなかった日本医学会、医学・医療の暴走を「医道の高揚」でコントロール しようとしてこなかった日本医師会、このような日本の医学界、医療界を社会が信用するはずはないでしょう。現在の医療不信の源流がここにあるのではないで しょうか。日本医学会の各分科会では、ヘルシンキ宣言に基づいた「医学に必要な合理的な医学実験」を行っていることでしょう。しかし、十分な反省をしてい ない医学界の行う「医学実験」は「犯罪的な医学実験」ではないかと疑われやすいのです。そのため、先端医学・医術に必要な「治験」が進まないのでしょう。
いまやっと日本医師会は、軍事政権下であったとはいえ「非人道的な人体実験」を犯したこと、そして、その認識・反省が不十分であったことを認めました。日 本医師会は医療不信を払拭するための第一歩を踏みだしたことになります。つぎは日本医学会が学問的にそれらを検証し公表する番でしょう。
(2)いまだ悪い点
それはジュネーブ宣言についての誤った認識が続いていることです。誤った認識とはジュネーブ宣言を単に「ヒポクラテスの誓いの再確認」や「ヒポクラテスの 誓いを現代的なことばで表したもの」とする認識です。誤っている点はジュネーブ宣言のもっとも重要な、最後の二つの誓いを切り捨てている点です。最後の二 つの誓いとはジュネーブ宣言(WMAのホームページより)の第9番目と第10番目の誓いのことです。それは次の二つです。カッコ内はわたしの訳です。
WMA Declaration of Geneva(ジュネーブ宣言)
第9番目の誓い;I will maintain the utmost respect for human life. (私は、人命に対し最大限の尊敬の念を持ち続ける。)
第10番目の誓い;I will not use my medical knowledge to violate human rights and civil liberties, even under threat. (私は、たとえ脅迫があろうとも、人権や国民の自由を犯すために、自分の医学的知識を利用することはしない。)
江本秀斗・東京都医師会前理事は「ヒポクラテスの誓いを現代的なことばで表したのがWMAのジュネーブ宣言(1948年)である」と述べ、つづけてジュ ネーブ宣言の内容を以下のように記載しています。この内容はジュネーブ宣言の第1番目から第8番目の誓いを記したものに過ぎません。第9番目、第10番目 の誓いが含まれていないのです。
「ジュネーブ宣言:医師として、生涯かけて、人類への奉仕の為にささげる、師に対して尊厳と感謝の気持ちを持ち続ける、良心と尊厳をもって医療に従事す る、患者の健康を最優先のこととする、患者の秘密を厳守する、同僚の医師を兄弟とみなす、そして力の及ぶ限り、医師という職業の名誉と高潔な伝統を守り続 けることを誓う」(「医の倫理の基礎知識」の基本的事項No.3:『ヒポクラテスと医の倫理』)。
ジュネーブ宣言の第1番目から第8番目の誓いは「ヒポクラテスの誓いの再確認」や「ヒポクラテスの誓いを現代的なことばで表したもの」と表現しても良いで しょう。しかし、第9,10番目の誓いはヒポクラテスの誓には含まれていない内容です。なぜなら、それはドイツ・ナチス政権下で行われた「非人道的な人体 実験」に多くの医師が関与していた反省から生まれた誓いだからです。
第9,10番目の誓いについて解説します。まず、この二つの誓いは対をなしています。『WMA Medical Ethics Manual』の中に示されたジュネーブ宣言ではこの二つが「and」で結ばれた一つの文章になっていることからも、対になっていることは明らかです。第 9番にある「human life」は単なる「人の生命」ではありません。この「human life」は第10番の「human rights and civil liberties」を担った「人命」ということです。そのような「人命に対し最大限の尊敬の念を持ち続ける」からこそ「自分の医学的知識を利用すること はしない」と誓えるのです。第9番が「患者の人権を守る」という意志を、第10番がその意志の具体的行動を示しているのです。第9番と第10番が対になっ て、ナチスの医師が行った「非人道的な人体実験」に対する反省から出た誓いの言葉となっているのです。
つぎに「even under threat」について解説します。「even under threat(たとえ脅迫があろうとも)」とは何を意味しているのでしょうか。ドイツ・ナチス政権下で行われた「非人道的な人体実験」は前もって決められ た法や命令によって行われました。「合法的な、しかし非人道的な人体実験」だったのです。「悪法も法である、だから守らなければ」と考えた、あるいは考え させられた多くの医師がこれに関与していたのです。その反省に立って、ジュネーブ宣言は「悪法も法である、しかし、それが患者の人権を侵害する時には守っ てはいけない」ことを医師に誓わせています。これが「even under threat」に込められた意味です。患者の人権を守ろうとすると必要なことです。これは次のようにも言われています。『医の倫理は、法と密接に関係して います。(中略)しかし、倫理と法は同一のものではありません。多くの場合、倫理は法よりも高い基準の行為を要求し、時には、医師に非倫理的行為を求める 法には従わないことを要求します』(『WMA 医の倫理マニュアル』、p.14)。医師は「遵法」とともに時には「法への非服従」が求められているのです。
「医の倫理の基礎知識」の中でジュネーブ宣言に言及されているのはお二人です。お一人は上で述べた江本秀斗・東京都医師会全理事です。「ヒポクラテスの誓 いを現代的なことばで表したのがWMAのジュネーブ宣言(1948年)である」と述べられています。他のお一人は折田雄一・滋賀県医師会前参与です。 「WMAは翌1948年のジュネーブ宣言でヒポクラテスの誓いの再確認を行い、1964年にはヘルシンキ宣言でヒポクラテスの誓いでは触れられなかった臨 床研究に携わる医師に対する勧告を行った」(「医の倫理~その考え方の変遷」)と述べておられます。二人の認識の共通点は「ジュネーブ宣言にヒポクラテス の誓いには無い、重要な内容が含まれている」ことに言及していないことです。お二人はジュネーブ宣言の原文を読んだうえで第9、第10番目の誓いを無視し ているのでしょうか。原文を読まずにこのような認識を述べているのであれば、無責任、あるいは非倫理的といわれても仕方がないでしょう。いずれにしろ、お 二人ともに共通した認識を持っているということは、これが日本医師会の認識ということになるでしょう。そして日本の医療界全体の認識にもなっているのでは ないでしょうか。ちなみに日本語版、英語版Wikipediaでの「ジュネーブ宣言」の解説を比較するとその差は明確です。
なぜ、第9,10 番目の誓いを含まないジュネーブ宣言が日本医師会の認識になったのでしょうか。それは、ドイツ・ナチス政権下で行われた「非人道的な人 体実験」と同様の人体実験が日本の軍事政権下で行われたことを、これまで日本医師会は認めてこなかったからでしょう。上で述べたように、日本医師会はやっ と「満州における731石井部隊事件」を認めました。今後はWMAの「医の倫理」を「日本医師会員のみなさまへ」正しく広報することが日本医師会のなすべ きことです。
なお、日本医師会がジュネーブ宣言についての誤った認識をもったのは、日本医師会が「医の倫理」を法律家(弁護士)に任せきりにしていたからでしょう。正 しくは、日本医師会がそのような誤った認識を広めるように法律家(弁護士)にお願いしたからなのでしょう。詳しくはMRIC vol. 496, 497 「日本医師会は医の倫理を法律家(弁護士)に任せてはいけない(その一、その二)」(2012.5.24、2012.5.25掲載)を参照ください。また 基本的事項No.2 「倫理と法」で樋口範雄・東京大学大学院法学政治学研究科教授が懸念されている「医療の法化」も、日本医師会がジュネーブ宣言の誤った認識を広めてきたた めに、そして日本医師会の医の倫理が時代に会っていないために生じていると思われます。日本医師会の医の倫理が十分に働かないから、現場の医師は法を頼り にせざるを得なくなっているのでしょう。「(医の)倫理が働かない時には法の出番」ということが医療界に起きているのです。