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Vol.192 被災地での執筆活動

医療ガバナンス学会 (2013年8月5日 06:00)


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南相馬市立総合病院・神経内科
小鷹 昌明
2013年8月5日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

私はこの地に来てからも相変わらずエッセイ執筆を続けているのだが、もちろんその理由に、南相馬市における「原発からもっとも近い病院周辺で展開される医 療情報を届ける」という大義名分(と、私が勝手に思っているだけかもしれないが・・・・・・)はあるが、本当のところは、何のために書いているのかよくわ からない部分もある。
それはつまり内容に関しても、世の中を動かすような重大なテーマを取り上げているわけではないし、特別な提言が潜んでいるわけでもない。福島での生の暮ら しを綴っているとはいえ、この私の文章が、何らかの形で本当にこの地に貢献しているのかどうか、実はそれすらも怪しいからである。
読者からは、「先生の執筆内容は、医療の枠を完全に超えていますよね?」とか、(これでも十分抑えているとは思うのだが)「もっと慎重に発言しないと、そ のうち痛い目見るわよ」というようなコメントをいただくことがあり、そう言われてみると確かに私の最近のエッセイは、医療関係というよりは社会活動的な内 容が多い。そういうものを書いていると、その活動に対して”賛否両論”あるのは当然だろうし、歯に衣着せぬ発言から被災地の微妙な部分に触れる場合もあろ う。
そんな状況のなかで、私はいったい何のために、誰のために、飽きもせずに執筆を続けているのだろうか。南相馬市に赴任してから1年以上が経過し、この地に おけるエッセイ(『原発に一番近い病院から』:中外医学社)を出版させていただいた後だからこそ、いま一度じっくり考えておきたい。

私の執筆は、やはりなんと言っても、この地に赴任する前の大学組織で培われた「医学論文を書く」というところからはじまった。その内容は、過去の論文を読 み込み、新事実の発見のために「作業仮設を立て、得られたデータをただひたすら論考する」という操作であり、その果てのない営みは、――知見性の有無はと もかくとして――私に”書く”という行為を血肉化させた。
学術論文を書く原動力として、当時は医学界のため、共同研究者のため、延いては患者のためという意識もないことはなかったのだが、ある時期から医療情勢の 認知のためには、「データを駆使して論陣をはって」というタイプの文章を書くよりは、「リアルなドキュメントをそのまま描いた方がいいのではないか」とい う考えに移行してきた。ただ、現場のことをノン・フィクション形式に書いていくということは、当時の組織に対して、おそらくは大きな軋轢を生むことになる であろうという、微かだが確かな想像を抱くことができた。
だから、私は書くことを、”個人の思想内に留める”というエッセイ形式の執筆法を選択したのである。そして、学術を述べない代償として、あくまで、「私自身の内省のために文章を書く」という記述法に切り替えたのである。
そういう意識の表われか、当時の私のエッセイの冒頭には、「本書に記す内容はすべて著者個人の見解であって、所属する組織の見解とは何ら関係を持たない。 したがって、一切の責任は著者個人にある」という弁解というか、所属する組織への影響を最小限にするための言い訳がなされていたし、いまもそれは変わって いない。

それでも最初は、医者がわざわざエッセイを書くのだから、普通のエッセイストとはひと味違った「学術的側面を伏線に置かなくては」とか、「人間的内面を考 察しなくては」という、私なりの意識や自負が心の隅にあったし、「書くからには人の役に立つ文章を書かなくては」という妙な慢心があった。
その後、いくつかの変遷を経て、私はこの地に来た(その理由は、もう既に何度も論じているので、ここでは述べない)。そして、ここでも日々の暮らしを文字 に落とし込む作業を繰り返しているのだが、文章の意義として最近になって何となく確信めいてわかってきたことは、その言葉通り”確信性”であった。日頃 思っていることや、会話にしてしまえば一瞬で終わってしまうような内容を、「よいしょ、よいしょ」と言語化するのである。文字に置き換えるという作業は、 鈍臭く時間のかかる行為だが、それだけに細かいところをしっかり整理し、”記録”できるという醍醐味がある。そして、自分が何を考え何をしたいのか、どこ まで見えてどこへ行きたいのかを再検討でき、さらにそれを実行へと移すための、言ってみれば”台本”になる。文字は、私自身における「行動への確信性」の 役割を果たしているのである。
私のような医師でエッセイストの役目は、街に溢れるひとつひとつの考えを表出化することで、それらの意見を生み出す環境や基盤や背景を考察し、少しでも正 確に把握することである。さらに、情報のエッセンスをミニマムな範囲に集約し、意義や批評を交えて誰はばからず、そして、他人の迷惑にならずに発信するこ とである。

ときどき、周りからは、「せっかくやっているのだから小説でも書いたら」とか、「もう少しエンターテイメント的な内容で面白く書いたら」などのアドバイスを受けることがあるが、なかなかそう簡単に執筆法を変えることはできない。
私の敬愛する村上春樹のエッセイのなかで、「ノン・フィクションというのは原理的に現実をフィクショナイズすることであり、フィクションというのは虚構を 現実化することなのだ」というようなことが述べられていたが、確かに、ノン・フィクションというのは多面的なリアルを、ある一定方向から、やや歪曲的に提 示していくことであり、フィクションは、より実情を追求して非現実を捉えていくことである。どちらも、現実があろうとなかろうと、リアリティを描いていく ことに違いはない。
私の文章は、もちろんこの街で展開される現実を基に書いているので、ノン・フィクションに分類されるのだろうけど、いろいろな事実を一部の切り口から開拓 し、そして最終的には”物語り”に近いような理想を供覧している。そういう意味ではノン・フィクションに近いような部分もある。

最近いただいた私の文章の評価に、「小鷹先生は、すっかり南相馬市に馴染まれたようです。地域で多くの発見をなされ、さらに文章を残すことによって、先生自身も随分変わられていっている感じがします」というものがあった。
そんな意見をいただいてから私は、いまの”書きたい”というスタイルに忠実に従っていけば、それはそれである程度意味のある文章が書けるのではないかとい う気がしてきた。「現実に近いフィクション」と、「いかにも非現実的なノン・フィクション」とのどちらが、よりパワフルかの議論に意味がないように、「何 かのために書く」のではなく、書いていくなかで何かが生まれ、何かが変われば、それでいいのではないかという気持ちになってきた。
ここの暮らしで綴る私のエッセイに、余計な味付けはいらなかった。自分の色合いをなるべく表に出さないように、モノトーンを極める。生活の一コマや活動の 一角を淡々と語る。いまの気持ちに寄り添って書くということであり、一種の暗示である。そういう行為を繰り返していくことで、結果として、最終的な突き当 たりの時点で、ひと味というか、ひとつの結論が意図せず出てくるのではないか。少なくとも私はそうだった。

最後にもう一言加える。
いずれにして、私はこの街で自分の見聞きした知見をベースに執筆を重ねている。この地域の人は、3.11によって社会の構造や人のあり方がドラスティック に変わったという認識が当然ある。だから私は、そういう感覚を捉えていきたいのだが、その執筆内容から、まるで医師としての本業よりも、――すなわち、そ れは「診療」を示すことが多いのだが――復興支援に重点を置いているように受け取られることもあるかもしれない。
しかし、そうではない。単に医療よりも、暮らしをエッセイにしたいだけである。価値があろうとなかろうと、こうした社会活動の詳細を書き留めておきたいの である。書くことによって自分の思考や目的を整理していきたいのである。言うならばそれは、”記録”であり”台本”であり”物語り”である。”フィクショ ン”であり”ノン・フィクション”である。この街における私の歴史である。

今回もまた、かなり取り留めのないことを述べてきてしまった。結局何が言いたいのか、よくわからなかったかもしれない。
執筆を続ける意味を探した結果が、この拙い文章だった。結局私は、いつでもどこでも、自分の思いを整理するために、もっと端的に言うなら自分のために文章 を書いているだけだった。そして、もう少し前向きに述べるなら、(医学論文のために始めた執筆ではあったが)自分に与えられたそれぞれの環境のなかでの立 ち回りのために、すなわちそれは、自分で自分を現地で機能させるために編み出された、一種の”己の本能”なのかもしれない。

 

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