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Vol.069 私と母校白陵中学校白陵高等学校と三木園長先生

医療ガバナンス学会 (2015年4月9日 06:00)


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白陵中学校5期生・白陵高等学校8期生
兵庫県加古川市志方町成井190
渡辺歯科医院 院長 渡辺啓二

2015年4月9日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

我が母校の白陵中学校高等学校と創設者の三木省吾園長先生を語る前に、私が、中学受験を控えた頃、昭和40年頃の私の住む地域からの学校の進路についてお話をします。
私の住む地域は、兵庫県加古川市志方町と言いまして、昭和54年に印南郡から加古川市に合併されましたが、去年NHKの大河ドラマで有名となりました黒田官兵衛の正室、光姫の父櫛橋伊定が志方城主として治めていた城下町であり、40年頃は明治時代からの歴史のある地場産業の靴下製造業が盛んな時代でした。

私は、(親父は後に加古川市の市会議員になりましたが)、元々は靴下屋の倅です。私の通う志方西小学校高学年になりますと、親父の靴下屋仲間達が、自分の息子達を競って姫路市の淳心学院を目指させました。その頃、淳心学院と言えば、昭和29年にベルギーのカトリック系の中学高等学校一貫校として設立され、根底にキリスト教があり人間性、自主性、将来性をバランスよく養うという教育理念で、生徒は長髪、上下スーツネクタイという如何にも自由な坊ちゃん学校でありました。後年、私の愚息は淳心中学校高等学校を選びましたが。

私が、小学6年生になりますと週一回姫路の学習塾に行かされ、受験勉強に入りました。進路相談の先生に淳心合格可能性大と太鼓判を押され、滑り止めにその頃まだ設立も浅くマイナーだった白陵中学を奨められました。この播州地区の大半は、灘中、甲陽は遥か及びもせず、志望校の上位に淳心学院中学校が位置していました。

私は意気揚々と淳心を受験しましたが、見事に不合格。人生初めての挫折を味わいましたが、白陵中学校の二次試験で受かりました。そして、やむなく昭和42年4月に第5期生として白陵中学に入学致しました

ここで、白陵中学校高等学校の沿革について簡単に述べさせていただきます。
昭和38年3月30日 学校法人三木学園設立許可白陵高等学校、中学校設置認可
昭和38年3月31日 仮校舎パイプハウス3棟竣工(うち2棟は高砂市貸与分)
昭和38年12月30日 第一校舎完成
昭和40年7月 第二校舎完成
昭和51年2月10日 岡山白陵中学校・高等学校設置認可
昭和51年3月31日 校舎完成
昭和51年4月8日 開校   現在に至る

私の入学した時はまだあまり実績のない白陵の揺籃期でした。プレハブ校舎に代わり第一、第二校舎の新館が完成して間もない頃でした。

そこで人生に於いて絶対に忘れる事の出来ない我が恩師に出会うわけです。恩師である創設者 三木省吾 学園長のご略歴についてお話します。

昭和5年12月8日 現在の姫路市豊富町に三木準一氏の次男戸して生誕。
昭和5年に生まれたから省吾(しょうご)だとよく言われておられました。  生家は大地主で、農地改革でそのほとんどを失われたそうですが、戦前は自宅から現在のJR姫路駅まで自分の土地だけで歩いていけたほどだといいます。

姫路は三河以来の徳川譜代の酒井氏15万石の城下町で、地主の指定に相応しい中学時時代より教養をつけるべく、中学校より外国語に関心を示し、語学的才能もあって、旧制姫路高校の文科に学ばれたそうです。その後、お父様のご意向もあり、京都帝国大学(現京都大学)法学部に進学されました。その間、外国語学、外国文学への興味を失われず、人を教える事への執心は益々高まり、お父様との話し合いの結果、近くの実姉宅の一部屋を改造し語学塾を開校されました。
その後、お父様の援助で900平方米の土地を購入、昭和33年4月から姫路学院の名称で熟経営を始められました。寝食を忘れ、教育に打ち込まれている情熱が、当時の高砂市長中須義男氏の知るところとなり、弱冠32歳の若さで、高砂市の全面的な協力を得て「人本主義の精神に則り、研究と訓練・独立不羈・正明闊達を校是として将来深遠なる洞察力と、高い学識を持ち,事に当たって責任感と勇猛心ある人材たる基礎を培う」事を創設の本旨として白陵中学校高等学校が設立されました。

教育方針は、「中高一貫教育で少数定員による指導の徹底。英語・数学・国語に重点を置く。躾を重視し責任を重んじ節度ある行動をとるよう指導。全人教育の徹底」です。
特に入試説明会などでの先生のお言葉が数多く在りますが、その中に凝集されて居ると思いますので、いくつかご紹介させて頂きます
・進学校であるが節度ある折り目正しい粘り強い子を育てる
・生徒の事は全部私が知っている。出来ない生徒は日曜日でも家に呼んで出来るまでやらせます。
・学業面のみならずきっちりと節度と良識のある躾を行います
・楽をして若い頃を楽しもうという子は来なくてよい。頭の柔らかい、覚えやすい時に勉強しょうという子だけ来ればよい。なりふり構わずやる子は伸びる
・白陵のラベルを貼って卒業させる以上、いい加減な子は出せない
・中高の六年間は修業の期間。ある程度の窮屈さは当たり前。息する間もなく勉強すれば校内暴力など起こるはずがない
・心を学校の方針にピタッと合わせることが大切
・子供には自分の力で勉強させて欲しい
・白陵の生徒は町を歩いていても後姿で分かります
・最後まで見捨てず根気よく徹底して面倒を見る

まさに、そのお言葉通り自ら教壇に立ちすべての生徒の名前を把握され一週間で一時間の空きも無い時間帯で、後年岡山白陵を設立されてからも同じペースで続けられ、放課後は無論、休日にもご自宅に呼んで講義をされておりました。正に教育者として努力と情熱の人であり、厳しくも生徒を愛する情あふれた得がたい人でした。

さあ、それではこれから今申し上げました事を前提に本題に入らせて頂きます。但し、あくまでも私の主観の域を出ない所が大半かとも思われますが、ご容赦願います。

入学してみますと、自分の理想としていた淳心学院中学校の自由な明るい雰囲気とは全く正反対で、白陵中学校は時として親でも文句の言えない体罰、スパルタ教育の徹底。公立の中学と同じ丸坊主、学生服。校則甚だ厳しく下校時に立ち寄りが許されるのは本屋のみ。休日で例え父兄同伴でも喫茶、レストランは入店不可、百貨店のレストランのみ。映画は許可映画のみ。ゲーセン、単車はもってのほか。中学は男子校で、高校から女子が入学してくるのですが、男女交際が発覚すると、中止命令。違反者は則停学か場合により退学。タバコなどはおそらく見つかれば死刑に等しい厳罰だったでしょう。

たとえ停学中でも自宅待機ではなく、授業の時間割、その頃は90分授業でしたので、午前午後2限ずつ計4限、休憩15分ずつあるもの、真夏の炎天下でも一日6時間の野外授業と称しての運動場、校庭の草引き、土木仕事でおそらく勉強しているほうが如何に楽か体を以って思いい知らされたことでしょう。

外出時には必ず制服、制帽着用。高校卒業するまでこの生活が永遠と続きました。夏休みは半分しかなく、中一の冬休みは、学校が終わった後は、元旦を除いて毎日園長先生のご自宅の学習塾のあった教室へ毎日英語の補講を受けに召集されました。園長が最前席に乗られたスクールバスが横を通り過ぎようとする時は必ず立ち止まり脱帽して深深と頭を下げる。今から思うとまるでどこかの国の専制政治による統制生活のような気がします。

晴れて大都会名古屋の大学に入った時には、あくまでも私個人的なことですが、まだ頭は坊主で、喫茶店へ入った事も女の子とデートした事もなく、大学の同級生からは時代錯誤の変な男が入ってきたと思われたことでしょう。私の場合はそれが大学時代6年間続き、卒業してからも社会復帰するまで時間がかかりました。

さて、授業の面では、当時中学一年生では他校はニューホライズンという教科書を使っておりましたが、学園長先生(以下、敬愛の情をこめて園長と呼ばせて頂きますが)は、ご自分の旧制中学時代に使用された英語の教科書をそれも全く当時のままの教科書を増版されて中2まで使われました。毎回徹底して文法を叩き込まれ、その日に進んだ文章の暗記を宿題とされました。

レベルが上がるにつけ益々ページ数が多くなり、暗記も大変になりました。次回先ず単語テスト。ここで初めて平手で頬っぺたを張る体罰(愛の罰)を受けるわけです。すぐに採点をして、80点以下なら何発,70点以下なら何発と決められるわけです。40点以下ならその日の他の人の得点によって違いますが、まあ20~30発は下らないでしょう。
それと「暗唱」と園長が叫ぶと誰かに指名するわけですが、園長と目を合わせては、指名されるのでまるで戦時下防空壕のなかで身を潜めるように、頭を垂れてじっと身を屈めているわけです。園長の厚底の皮のスリッパの音が、コツコツと高らかに机と机の間の通路を移動していくわけですが、段々と自分の机の傍に近づいて来て、そこで止まってしまえば自分が指名される。通り過ぎてほっと一息と思いきや、通り過ぎてからくるっと振り返って指名されることもある。不幸にして指名されれば、その緊張感で昨夜必死で文章を暗記して来たのもすっかり飛んでしまって、また平手の集中砲火を浴びる。
その数もその日の園長のご機嫌によって変化するという厄介なもの。他の生徒に指名されれば、あとは終業チャイムが鳴るのを本当に心待ちにして待つのみ。教育計画では中2までに文法をはじめ読解力を高校生のレベルに引き上げる。そして中3からは、園長の持論通り教養を身に着けなければならないという事で、英文学、ジョージエリオットのミドルマーチという原書を教科書として高2まで使用しました。そして同じく中3から大学受験の時に有利という事で、第二外国語のドイツ語が高1までの二年間、英語に加えて採用されました。自ずと中学から入った生徒は英語、国語が顕著に上達するが、それ以外に時間がなくて数学、理系の科目が弱くなるという特徴が出来てしまいました。

しかし英語に関しては中3の夏休みの補講では、高校から入った高2の先輩達と同じ教材で一緒に大学入試の読解問題の特訓を受けました。僕らが高校生を負かすと、園長は満足そうな顔をされていたのが印象的です。
しかし、ここまで来るまでに勉強以外に躾において生徒たちも大変な苦労をしました。連帯責任と言う概念も叩き込まれました。中1の時、入学して1週間目位だったと思いますが、週に2時限園長の授業があり、その厳しい緊張の後気持ちが緩んだのでしょうね、新任の女性の授業の時にワイワイ,ガヤガヤ騒いでいました。
突然園長が廊下からドアを開けて、「お前ら、今日残れ」とだけ一括して去って行かれました。それから私達は顔から赤みが消えていく恐怖を覚えました。授業が済むと、高校二年生の方が補講をされている新館の大教室のとなりの部屋に全員集められ、一列に並べられて一人何十発もの平手打ち。そして黒板の上に置いてあった黒板消しのベニヤ板の方で頭を叩く、拳固で小突く。さらにはたまたま椅子の一枚板が外れてたので、それで旧海軍のしごき棒のように尻を何発もたたかれました。それだけで終わらず補講を受けている後に、硬い床の上に正座させられ腕を真上に上げ、しんどくなって曲げればまた叩かれるというものでした。学校の方に心配された親から九時になっても帰らないと問い合わせが有ったそうです。

その日、自転車で家についたのは十時回っていたと思われます。親父は何の心配もしていない様子で出迎えてくれました。入試説明会の時に園長から父兄に予め勉強を怠けたり、甘く見たときには徹底して躾けます。体罰も辞さないと宣言されていたそうです。

入学時には80人程度入学したのですが、夏休みまでの約四ケ月間で10数名の生徒が毎週親に伴われ園長室へ入っていき、翌日から来なくなるのです。結局中学卒業し高校に入ったのは最終的に20名欠け60名だったのです。僕も一時自身がなくなって、というか平手打ちにされることにストレスが溜まって、親父に学校やめたいと言い出しました。親父は何も言わずに「わしを、園長やと思って好きなだけ叩け」というのですね。私は、無我夢中で親父を平手打ちしました。親父の頬は真っ赤になっていました。「どうや、気が済んだか?」と言われますと、今までの僕のストレスもすっかり晴れ、「もう一回がんばるわ」と宣言したのを五十年経った今でも鮮明に覚えています。一つの親の子供への愛情の示し方だったと今でも親父に感謝しています・

それからは、全然恐くなくなり、頬っぺたに平手を受けるときは、受ける方の頬っぺたにプっと空気を入れて緩衝する術を覚えました。
だけど何といつても怖くないが痛いのはお尻への板打ちでしたね。
中学卒業まで生き残った生徒は、根性の入った少々ではビビらない粘り強い生徒ばかりになっていました。人生のこの年齢の時に不屈の精神を作るのも園長流の情熱であり、教育方針であったと思います。今は体罰は罪悪のように言われますが、その時代の私には合っていたと思います。

それともう一つ園長には素晴らしい才能がありました。すべての生徒の名前と顔を覚えておられるという事と、その中で生徒の特長を的確にとらえ、ニックネームをつけるという事です。まさに当意即妙という感じです。私は今も自分の生き方として誇りにしている名前を頂きました。中一の時にはまだ子供子供していたのでしょう。その時にNHKの「ひょっこりひょうたん島」が風靡していまして、ある日私に「お前うるさいな」「ひょうたん島の首相のドン・ガバチョ」と言われるのですね。「皆さ~ん」というフレーズでひょうたん島の島民をハチャメチャで纏めようとするのですね。なにか私もぴったしのような満悦を覚えました。
そしてそれが短縮されて「おい、ガバ」になりまして今でも毎年行っております同窓会の新年会でも、誰も渡辺などと呼ばず、皆口を揃えてガバと呼びます。現阪神タイガースの南信男社長も中学からの同級生で、ノブオ、ガバと呼び合う仲間です。そう呼ばれるたびにドン・ガバチョのように少しおっちょこちょいだけど、優しく人の面倒を見て前向きに生きていく生き方に憧れ、それに近づこうとやってきた私の人生を改めて思うのです。

しかし、卒業して大学生活に入っても、おろか結婚して10年以上経っても、よく授業中の園長のスリッパの音が近づいてきて、指名されるかも知れない緊張状態の夢にうなされました。50代になってやっとその憑依が消えたような気がします。
ところで、話は少し戻りますが中学から高校へ上がるときの僕らの時代の組編成ですが、中学入学時の成績で良いほうを一組、残りを二組。そのまま持ち上がりして高校入学時に中学からの一組をそのまま高一の一組にし、高校から入った成績順に良い者と中学の二組の良い者を合わせて高1の二組とし、残りを混成して文系、理系にわけて3組、4組としました。高校から入った者は、男女共学でといっても女子は10名程度しか居りませんでしたが、中には優秀な生徒もいて理系にも強いという特徴を持ち、高3になるにつけ一組と比肩するような生徒が多く出現してきました。僕らはお尻に火が着くのを覚えながら最後の追い込みをしたのを覚えています。

恥ずかしながら私は、親父が突然「靴下屋が近い将来韓国や中国に追われて存続できなくなるので、医者か歯医者になれ」と言い出し、物理は採っていませんでしたので、生物、化学で受けれる大学は、国立一期では北大の歯学部、二期では弘前大学医学部しかありませんでした。当時私立の医学部は子弟以外はなかなか難しく、寄付金、授業料も莫大で到底親に無理を言えませんでしたので、他大学と比べても諸費用の安い愛知学院大学歯学部を滑り止めに選びました。園長からは「お前は京大かどこかの農学部へ行って、林野庁に入って熊と相撲をとって来い」と言われていましたので、大きな反抗でした。大学受験直前まで隠していたと思います。

滑り止めの愛知学院の試験が最も早く二月にありまして、合勝通知が来た途端に、受験に行ったときの初めて眼にする大都市名古屋が気に入りまして、寒い北海道や暗い弘前よりも、明るい自由な雰囲気の名古屋にどうしても6年間住みたくなりました。今まで6年間厳しく抑圧されていた自由、都会への憧れが一気に噴出したのでしょう。もう、北海道へも弘前へも受験に赴く気力がなくなってしまい、受験せずに愛知に決定してしまいました。今思うとあの時受験してればなあと思うこともありますが、学生時代に三重県出身の家内と知り合い、30年前に歯科医院を開業して今日まで至ったのも、私の人性行路だったかなと思います。

園長のお考えでは、医学部、理系に何人進学という事よりも、新設校として英語、国語を牽引役に文系で東大、京大、阪大、何人合格という業績を求められたのだと思われます。高校になると灘,甲陽高校は別格で、常に模試で姫路西高校、淳心学院、加古川東高校と比較され、絶対負けないようにと発破をかけられました。結局園長の厳しい叱咤激励で、私らの学年は、東大は無いものの、京大3、阪大2、神大2、御茶ノ水女子大1、北大2、岡大、徳大3、医学部は鳥取大1、信州大1、私立では慶大4、早大2、関大,関学、立命館など開校して歴史が浅いにも拘わらず、いい成績を収めたと思います。

それが最近では、国公立大の医学部合格者も増加し、文型、理系に偏らずバランスよく進展し、旧帝大の東大、京大、阪大の合格者数を見ますと、灘校の東大105,京大41,阪大14に次いで白陵は、平成24年には東大25,京大14,阪大15,平成25年には、東大18,京大21,阪大20と東大に関しては六甲,甲陽,姫路西、淳心を凌ぐ県下で第二の合格者数を出しました。昭和58年7月15日に園長がご逝去されてからも、悲しみを超え教職員の先生方や生徒達が一丸となって頑張られた功績だと確信しております。

この度、この原稿を書いているうちに、園長の「生徒を何としてでも人間的にも厳しく躾け、向上させてやろう」という優しさと情熱が、昨日の事のように蘇って参りました。
五十二歳でご逝去されたとき、本当に驚き寂しさを感じました。歯科医院開業準備、開業後の忙しさに追われて、一度落ち着いたらお目にかかりたいと思っておりました。おられるだけで心強いものがありました。
今でもお会いできていたら。「おい。ガバ、頑張っとるか?」とお声をかけて頂いたことでしょう。本当にお元気な時にお会いしておけばよかったと思うと残念で仕方ありません。

昨今天下の灘に近づく受験校にまで成長した白陵中学校高等学校。昔の我々の時代のようにスパルタで鞭打って引き上げなくても、どんどん学校の知名度が上がるにつれはるか遠方から優秀な生徒が集まる素晴らしい学校に発展しました。校風も昔と違って長髪に、上下スーツの制服です。最近では文武両道の証として、京大からプロ野球に入団した田中英祐君。東大からハーバード大学院修了して現加古川市長に当選した岡田康弘君をはじめ数多くの素晴らしい人材が輩出されております。いま園長がおられるとさぞ喜ばれることでしょう。

私は白陵の揺籃期、黎明期に学生生活を送れたことを自分の誇りに思っております。厳しさ怖さの中にも、運動会の後のファイヤーストームの前で、ややビビる生徒たちと肩を組んで先生のお好きだった白陵寮歌を楽しく合唱された時のあの優しいお顔は生涯忘れない事でしょう。
私は、微力ながら益々の母校の発展に少しでも園長に対する恩返しとして貢献できたらと思っております。
どうも長々と精読ありがとうございました。

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