医療ガバナンス学会 (2009年8月11日 13:15)
我が国は「ワクチン後進国」と揶揄されるほど、ワクチンの導入が進んでいな
い。ドラッグ・ワクチンラグの解消が我が国の喫緊の課題となっているが、多く
の方はラグを生じているのは、「承認審査に時間がかかっているから」と認識し
ているのではないだろうか。
もちろん、これは正解で承認審査が欧米に比して時間がかかっていることがラ
グの大きな要因の一つである。
しかし、実はラグを生じている要因は承認審査そのものだけではない。いくつ
かの要因が相まって現在のラグを生み出しているのだが、その一つに承認審査に
至る以前に承認申請がなされるその時点で、既に欧米より大幅に遅れていること
が挙げられている。
つまり、日本での販売事業の着手そのものが既に遅れているのだ。
ヒブワクチンは1990年代初めには欧米で承認され多くの国々で定期接種プログ
ラムに組み入れられた。一方、我が国でのヒブワクチンの開発着手は1997年に入っ
てからで、承認申請は2003年、承認は2007年1月と他の先進国に比して大きく出
遅れた。
ヒブワクチンは世界保健機関(WHO)がその有効性と安全性を高く評価し、全
ての国々で定期接種化すべきとの勧告を1998年に行なっている。
つまり、WHOがお墨付きを与えるほどの実績を積み上げたワクチンの開発着手
が、その僅か一年前であったということなのだ。
驚くべきほどの遅れをもって、我が国ではヒブワクチンが開発に着手されたこ
とがわかる。
では何故、ヒブワクチンの開発着手がこれほどまでに遅れたのだろうか。
これもいくつかの原因が考えられるが、日本はワクチンを政策的に取り入れて
いく環境が整っていないことをその一つとして指摘したい。
まず、我が国の予防接種は定期接種と任意接種の二つのカテゴリーに分けられ
るが、どのような条件を満たせば定期接種となるのかという指標が不明確である。
現在の予防接種法下において、新に定期接種化されたワクチンは基本的に存在
しない。さらに、定期接種化する疾病・ワクチンの基準というものも存在してい
ない。
つまり、日本でワクチンを売ろうと考えても、そのワクチンがどのような条件
を満たせば定期接種の対象となるのか、誰にもわからないのである。
「定期」か「任意」か、この違いはワクチンメーカーにとっては非常に大きい違
いとなる。
まず、予想される需要量が大きく異なってくる。
定期接種の場合、接種率は9割を超えるが、任意接種の場合は多くても3割程
度と言われている。
もちろん、3割の接種率に達するかどうかも不明確だ。
小児ワクチンの場合、「定期」のマーケットは100万人/年で安定したものと
なるが、任意の場合はマーケット規模はその1/3で、需要予測も極めて不安定となる。
このことはメーカーだけではなく、消費者の立場となる国民にもしわ寄せがく
る。不安定な需要予測に基づく小規模な生産ではおのずとワクチン価格が高めに
なってしまい、国民は高価な代金を支払わざるを得ない。
また、需要が大幅に伸びた場合、ワクチンが供給不足に陥り「接種したくても
接種できない」という事態を招くこととなる。
残念ながらこの二つの不利益はヒブワクチンで既に生じており、ヒブワクチン
の価格は他国の卸値の倍近い値段といわれており、このことが4回接種で3万円
という子育て世代にとっては非常に重い経済負担をもたらしている。
また供給不足のため、接種の予約を入れても数ヶ月から半年待ちという状態が続
いている。
細菌性髄膜炎の発症リスクは5歳未満、とりわけ0歳までの乳幼児が最も高い
とされているが、接種可能となる生後2ヶ月の時点で予約を入れても半年も待た
なければ接種できないということは、ワクチンによる疾病予防の本質からいって
極めて好ましくない状態である。
実際、接種を待っている間に細菌性髄膜炎に罹患してしまったという事例も、
残念なことに生じている。
「定期」と「任意」の違いは、需要量や保護者の費用負担(定期接種なら基本
的に無料、任意なら全額自己負担)に留まらない。万が一、副作用被害が生じた
場合の救済内容が大きく異なるのだ。
定期接種の場合、副作用被害は予防接種法に基づいた公費による救済が行なわ
れ、内容も比較的充実している。
これに対し任意接種の場合はメーカーの拠出による医薬品の副作用救済制度の
対称にしかならず、その補償内容は予防接種法に基づくものに比してあまりにも乏しいと
いわざるを得ない。
仮に任意接種で副作用被害を被った場合、十分な救済を受けたいと願えば、医
薬品の副作用救済制度では不十分であり、民事訴訟を起こしてメーカーに賠償を
求めるといった行動を取らざるを得なくなる可能性もある。
メーカーにとっても、訴訟リスクや賠償リスクを想定しなければならず、日本
での発売は他国での実績を十分に積んでから、との判断に傾いても何ら不思議ではない。
現に、ヒブワクチンの我が国での開発着手は欧米で十分な実績を積んだ以降で
あったし、小児用肺炎球菌ワクチンも同様に着手そのものが遅れていた。
定期接種と任意接種という二つの予防接種カテゴリーを有しながら、その定義
や運用に明確な基準を設けてこなかった我が国の不明瞭さが、ワクチンを売りに
くい国を形作ってしまったことは否定できない。
とりわけ定期接種化以外の予防接種に対する無策ぶりは、国民にも大きな不利
益を及ぼしている。
これらの現状を目の当たりにすると、現在、海外からの輸入が検討されている
新型インフルエンザワクチンが、世界的にも供給量が不足すると言われている中、
果たしてどれほどの輸入量を確保できるのかについても、とても心許ない。
既に実績を積んできたヒブワクチンや小児用肺炎球菌ワクチンと異なり、新型
インフルエンザワクチンは世界共通の新製品であり、有効性も安全性もまだまだ
手探りの部分が山積しているワクチンである。
他のワクチンに比して安全かもしれないし同等かもしれないし、もしかしたら
副作用リスクが高目かもしれない。
これは実際に接種してみなければわからないが、そのような新規のワクチンを
導入するにあたり、副作用被害に対する補償制度が不十分であり、メーカーが訴
訟を起こされるリスクを抱える我が国にワクチンを売りたいと考えるであろうか。
ちなみに米国ではワクチンの副作用被害については十分な補償制度を設ける一
方で、メーカーは免責されているそうで、メーカーにとっては「ワクチンを売り
やすい国」といえるであろう。
国民も、新型インフルエンザの恐怖におびえながら、しかし万が一の副作用被
害を被った場合のリスクにもおびえなければいけないという二重の恐怖を抱える
ことになる。
我が国が「ワクチンを売りにくい国」から脱却するためには、少なくてもどの
ような条件で定期接種化するのかという基準を明確にすると共に、任意接種によ
る副作用被害であっても十分な補償を受けられる制度を創設すること、そのこと
で国民もメーカーも不必要な訴訟リスクから開放することが必要であろう。
ワクチンで防ぐことのできる疾病を未然に防ぐという世界的潮流に追いつけな
い「ワクチン後進国」という汚名を返上するため、また、新たなる感染症への対
策という観点からもこれらの課題を早急に改善する必要があると考える。