医療ガバナンス学会 (2015年8月18日 06:00)
精神科医
堀 有伸
2015年8月18日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
精神分析家の北山が記述した「自虐的世話役」というあり方は、「メランコリー親和型」と並んで、日本人のあり様の一面を鋭くとらえた論考であると筆者は理解しています。自虐的世話役の特徴は、「他者を世話をすることを止められないこと,それが可能なときで実にそれが必要なときでも自分の面倒が見られないこと,さらに自虐的な傾向や自己破壊的な癖が存在すること」と説明されました。この性質は、普通のお母さんからかなり重症の精神疾患に苦しむ人まで、広い範囲で認められます。女性に多いのですが、過剰適応のために心身症状態を繰り返している男性などにも、見つけられることがあります。
(なお、北山先生は「自虐的世話役」などについて、それが批判や弱点の暴露とならないような繊細な注意をされながら論文等を書かれています。私は書物のみで北山先生の業績を知る人間です。もし今回の小論を読んで傷ついた、不快な思いを持たされたと感じた人がいれば、その責任は私の理解と配慮の不足にあります。この後に出てくる高石先生や内海先生についても同様です)
献身的に他者や共同体のために働く「自虐的世話役」の素晴らしさは語られ・褒められることが多く、私もそのことに基本的に同意します。しかしそうであっても、「自虐的世話役」の持つ否定的な面も理解し、複雑化した現代社会における意思決定に、この感性が影響を与えすぎることには適切な制限がなされるべきです。ユング派の心理学者である高石は、学生相談に訪れた母・娘関係についての臨床観察から「マゾヒスティック・コントロール」という概念を提出しました。密着した二者関係において、お互いに対しての献身と愛が実践されます。その愛から生じる負担のために苦しむこともありますが、愛のゆえにそのことを相手に直接伝えることはできません。チラッと傷ついていることをほのめかします。相手のために自分が苦しんでいることを相手が知って、自分に今まで以上の愛情を注いでほしいと願っています。(このように相手を操作することが、マゾヒスティック・コントロールです)そのように相手に操作しようとする願いを持っているという事実すら消してしまいたいと、愛のゆえに望みます。そうであっても、もっと相手に振り向いてほしい。このような矛盾した思いをお互いに抱く中で、母・娘などの二者関係が時に情緒的にはとても複雑にお互いを縛り合ってしまうものになることを、高石は明らかにしました。(そして通常は、こんなことをわざわざ言葉にしないのが、人間関係の機微を踏まえた成熟した感性だといえるでしょう)
あえて言葉に出さず、信頼し合い愛し合う関係の中で、以心伝心ですべての調整がなされていったのならば、どれほどすばらしいでしょう。しかし残念ながら、人の世で起きる多くのことはそうではありません。
自虐的世話役は愛する対象について敏感であり、そのために傷つきやすいのです。そして、深く傷つくことがあるがゆえに強い怒りを心の奥に秘めるようになります。「なぜこれほど献身しているのに、相手は私のことをこれほど省みないのだろう、軽んじるのだろう」と、そのように感じます。周囲の期待のために、大人のような振る舞いを身につけるのが早すぎた子どもを想像してください。「攻撃的に要求する子ども」「相手を支配して思い通りにコントロールしたいと望む子ども」は無意識的なものに留まって統合されず、意識的な自己主張の能力が育たないのです。経験を通じて学ぶことからは、疎外されています。
(なお精神科医の内海は、一部のうつ病患者の発症の要因に、自分が行った献身について無意識的に期待していた報いが奪われたり与えられなくなったりすることが明らかになる状況があるだろうと考察しました。滅私奉公的な心性を持つ会社員は、「それまで心血を注いで作り上げてきた縄張り」「優秀な部下としての評価」「庇護された居心地のよい立場」を失う時に、深いところでは強烈な不安と恐怖を感じ、より意識的な部分では特定の対象への怒りや恨みの感情を抱くことがあります)
そして私は、このような傾向を日本人全体で共有している面があるのではないか、と問いたいのです。社会全体の空気の流れに、自虐的なまでに沿わせてほとんど自己主張しない意識と、普段は抑圧されたままに何かのきっかけがあると暴発する攻撃性や支配欲が分裂したまま、一貫した考えを持てないままでいます。
自虐的世話役が成立する要因として、「母(的な環境)が弱くて、安心してそこに頼れない状況があること」と、「父(的な存在)が、母と子どもの間の調整者として、是を是、非を非とする調整を行わないこと」という二つの状況が考えられます。
後者は、いうなれば二者関係から三者関係への移行がなされない状態です。二者関係の外側の人間が介入して、「今のはお母さんが良くなかった」「今回は子どもの方が良くない」という判断をほぼ一定の基準で示し、それが一定の影響力を持つことで人間関係は社会的な性質を帯びていきます。しかし、何らかの理由でこのような第三者の関与がなく、情緒的に絡み合った二者だけで問題を解決しようとした場合には、罪悪感を押し付け合って、お互いに自虐的な世話役としての性質を強め合うことを目指す閉じた人間関係が温存されます。臨床的には、ひきこもり事例などでこのような現象が観察されることがあります。
これを社会の空気と個人の要求との間の調整の問題として考えるならば、第三者の役割を果たすのが法や論理です。具体的な社会的な組織としては、司法やマスコミがそれを担うことが期待されます。しかし他のブログで考察した通り、日本社会では伝統的に第三者性の重要さについての認識が高くない傾向があります。
(堀有伸「共同体についての意識の分裂と混乱」
http://www.huffingtonpost.jp/arinobu-hori/splitting_b_7584520.html)
罪悪感を刺激することで支配しようとする母的なマゾヒスティック・コントロールによる相互規制が秩序維持の中心にあり、父的な法や論理の権威によるコントロールが弱いのが日本社会の特徴です。
この場合に問題となるのは、意識的に場をコントロールする自我の働きが育たないことです。自己主張を行う自我は本来的に攻撃的な性質も帯びています。そのためには、社会的に適切な形で攻撃性がパーソナリティーに統合される必要があるのです。しかし、自分の中の攻撃性についての意識が分裂したままであると、意識的には全く攻撃性を抑制している(他人を傷つけない)自分にナルシシスティックな満足を感じつつも、無意識的にコントロールの効かない形で攻撃性を発揮させる事態が生じます。
つまり、「善良に暮らしているのに、ひどいことに巻き込まれた。だから、その巻き込んだ他者の道義的な欠点を徹底的に追及して攻撃する。これが正義である」という形で強い攻撃性が発揮されることになります。
また、社会的に格下と見なした相手を指導するという名目で、怒りや恨みが発散されやすくなる土壌もここから生まれます。
「弱者の恫喝」という言葉を使うのならば、徹底的に強者に依存してその上に乗っかりながら、何かを要求されたときにだけ「弱い私にそんなことを要求するお前は道義的にひどい人間である。弱くて知らないのだから責任はない。だから、強者のお前がそれを行え」という形でそれが表現されます。
自虐的世話役は低次の段階では、ナルシシスティックな性質を帯びています。そして、無意識的には、自分が適切な自発性を発揮していないことを知っていて、そのことを恥じているかのように思えることがあります。そのため、本当の意味で自発性を発揮している人に対して強い羨望を抱いてこれを攻撃するようになります。「出る杭は打たれる」という通りです。社会の中で自主性は育ちにくくなります。独占欲も関連しているでしょう。
私は、このような二者関係類似の、情緒的な水準の人間関係ばかりにとらわれて現実的な外部の課題に向き合えないことこそが、最大の危機だと考えます。
自分の内部にある攻撃性を自覚し、それを一貫した社会的な形で表現できるような努力を重ねることで、「いい人と思われたい」ことにこだわり過ぎるナルシシズムの問題を克服し、自我を確立することが目指されるべきです。
参考
北山修:見るなの禁止 北山修著作集1 日本語臨床の深層.岩崎学術出版社,1993
高石浩一:母を支える娘たち―ナルシシズムとマゾヒズムの対象支配.日本評論社,1997
内海健:うつ病の心理―失われた悲しみの場に.誠信書房,2008