医療ガバナンス学会 (2015年11月2日 06:00)
精神科医
堀有伸
2015年11月2日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
そうしておけば、次にこちらの陣営に落ち度があったことを激しく責められたとしても、その勢力は実社会の重要なところから疎外してありますので、実効的な批判をなかなか展開できません。例えば「憲法違反」などのワン・イッシュ―に全精力を集中させて注ぎ込んでくるだけです。これは厳しい試練ですが、後者の陣営の攻撃は鬱屈させたエネルギーの発散の水準に留まっていることが多く、長期的な視野から戦略上の重要なポイントを押さえるような動きは少ないのです。したがって、上段に記したような方法でしのぎながら時間稼ぎをすれば何とかなる、そんな風に考えるでしょう。
このように、今までは前者が後者に対して、優勢な印象が強かったのです。
加藤周一の『日本文学史序説』は、私が日本社会の問題を考える時に参考にしている書物の一つです。この場合の「文学」は通常よりも意味が広く、社会や思想全般のことを指しています。この書物では日本文学の特徴についていくつかの指摘がされていて、その一つが外来思想の日本化・土着化の傾向です。加藤によれば、仏教・儒教・キリスト教・マルクス主義などの外来思想が日本に導入されて大きな影響を与えましたが、時代の流れの中でそのすべてが同じ運命をたどりました。日本の土着的世界観の持続の根深さから生じる、外来思想の日本化です。抽象的・理論的な面は切り捨てられ、包括的な体系は解体されて実際的な特殊領域に還元され、超越的な原理は排除されました。それによって、体系の排他性が緩和されるので、本来は異質で共存が困難なものであっても、日本社会ではそれが近くに混在することが可能となります。よく言われるように、クリスマスにはキリスト教的なお祝いをして正月には仏教・神道の行事を行うことが、何の葛藤も引き起こしません。それは、キリスト教や仏教・神道に向かう姿勢が日本的だからです。さて、私がここで考えてみたい仮説は、敗戦後に導入された平和主義・民主主義も、70年を経て、このような形で日本化されているのではないかという疑問です。
加藤によると、日本における文学的表現形式の歴史的発展は、新旧交代ではなく、「旧に新を加える」が原則だったそうです。一時代に有力な形式が、その前の時代の形式を徹底的に排除する傾向が諸外国より緩かったようです。美的価値を例に取ると、摂関時代の「もののあわれ」、鎌倉時代の「幽玄」、室町時代の「わび」または「さび」、徳川時代の「粋」がそれぞれの時代の美の理想でしたが、それらは時代とともにほろびさったのではなく、次の時代にも引き継がれて新しい理想と共存しました。日本と対照的な例として、加藤は中国を挙げています。こちらでは、旧を新に替えようとするときに、「歴史的一貫性と文化的自己同一性が脅かされ」るために、旧体系と新体系が激しく対立して、一方が敗れるという事例が認められたそうです。文化大革命もそのような対立の一例でしょう。
70年前の敗戦の時の日本に起きた変革は、全体主義・軍国主義的理想と、平和主義・民主主義的理想が徹底的に対立して前者に後者が置き換わったのではありません。「旧に新を加える」形式で、本来は異質な両者がオモテとウラを使い分けることで共存できるようになり、その前提の上で力点が後者にシフトしたということだったようです。最初から、民主主義の受容は日本的でした。
日本論の古典、ベネディクトの『菊と刀』では、戦後すぐの幣原首相の「新生日本の政府は、国民の意思を尊重する民主主義的形態を備えている。(中略)わが国では古来、天皇陛下はそのご意思を国民の意思としてこられた。これこそが明治憲法の精神である。私が言及している民主的政府は、このような精神を忠実に体現するものと考えることができる」という言葉が驚きとともに紹介されています。つまり、個人の精神的独立が民主主義の前提ですが、幣原首相はその前提を否定して明治憲法の精神である天皇と国民の意思の一致を前提に置き、その上で民主的な政府を実現すると宣言したのです。これに対してベネディクトは、「民主主義をこのように表現することは、アメリカの読者にとって無意味以外の何物でもない」と切り捨てています。論理的には、この共存はありえません。しかし、日本では事情が異なります。
このような精神性の核になる事態にも決定的な結論を出さずにあいまいなままで共存させたあり方からは、戦後の日本が明確な独立した自らの輪郭を描くことができずに、グダグダになってしまう弊害が生じるのではないかという懸念が生じます。確かに、このように何でも受け入れてくれる精神性は優しい。しかし、真綿でくるみながら窒息させるような息苦しさもあります。そして、なぜこのような精神性が危険なのかというと、根本的に重大な場面で、独立した個としての意思決定が不可能となるからです。
それでもあえて二つの中でどちらか一つを選ばされると仮定しましょう。全体につながっているか、個としての独立を目指すかと問われた場合に、今までは日本人の多くが、タテマエとは裏腹に本音では前者を選んだのではないでしょうか。加藤周一の前掲書から別の言葉を紹介します。「外来の世界観は、人格の意識的・理性的な表層にあらわれ、土着なものの考え方や感じ方は、具体的な感情生活の深層に働いていた」という内容です。私は、日本におけるさまざまな議論が、まったく異なる内容にもかかわらず、似たような経過をたどることに気が付きました。
安保法制や沖縄の基地問題・原発問題について、さまざまな議論が国民の間で行われましたが、論理的な発展は乏しいのです。その代わりに、いつの間にか「全体につながるか」と「個別的・理論的な主張を認めるか」の大ざっぱな二つの分裂した意識の感情的な主導権争いに問題が置き換わっていき、そしてぼんやりと前者が後者より優勢になっていきます。この小論の冒頭に述べたような経過です。もちろん反対派も社会のなかに共存したまま、自分たちの小集団を作っていきます。やがてそれぞれが住み分けを行って交わらないようになり、意見を同じくする身内以外ではその話題に触れることを避けるようになります。結局、どこかで結論を出さねばならない課題についても、分別が失われて先送りが続くのです。不思議なことに、主張する内容は全く対立していても、それぞれの集団内で働く力学はお互いに類似しています。
しかし、これを変えねばならないという意識も次第に強まっています。
このような日本的な民主主義は、個人の精神的な独立を本当に前提として要求する、西欧が主導権を握って作ってきた国際社会の常識と異なっています。そして、この問題からは今まで目を背けることが許容されていました。しかし近年、今まで恣意的にオモテとウラを使い分けてやり過ごすことが許された精神的課題に、タテマエだけではなく本当に取り組むことを求められる機会が増えています。インターネットの普及のような通信技術の発達により、さまざまな分野で秘密を保つことが難しくなったこともその一因でしょう。
例えば、国防についてどうするか、日本が独立した国家として国際社会の中での振る舞い方を自己決定する必要性が高まりました。しかし、それでも主体性を確立するという精神的課題を放棄して、アメリカの意向に同一化することで物事を乗り切りたいのが、今でもホンネなのかもしれません。その場合に、幼児的な依存をアメリカに向け続けることの危険性も感じます。仮にもし依存を続けるのだとしても、その依存の質を成熟させていくことが必要です。アメリカも中国も、日本に対して良い意図と悪い意図の両方を持っているでしょう。アメリカからの保護と中国からの脅威ばかりを絶対視することも危ういと考えます。困難ですが、全体を統合した視点からの関係性の成熟が目指されるべきです。
個人の水準でも国家全体の水準でも、独立した全体としての精神性を確立しようという流れに抵抗し、その場の空気において強いと感じた勢力に同一化することを絶対視してそれを刹那的にくり返す傾向を、日本的ナルシシズムと呼んで警戒したいのです。この精神性では、場が変われば同一化する対象をあっさりと変えます。空気に逆らって自己主張を行うような、精神の一貫性を維持するための努力は、ほとんど価値を認められません。そして戦後の問題について考えるのならば、多くの日本人が、その時の空気に応じて全体主義的な態度と平和主義・民主主義的な態度を、上手に使い分けて生きてきました。本来これは矛盾して共存することが困難なものですが、日本的精神においては決して困難ではありません。このようにして醸成された病理性が、日本的ナルシシズムです。拙論を一つご紹介させていただきます。
「ナルシシスティック・パーソナリティーはこころの中にたくさんの分裂(split)を抱えている」
http://www.huffingtonpost.jp/arinobu-hori/narcissistic_b_7651150.html
主体性の確立がその場限りの空気への同一化ばかりで、一貫した責任主体である自我の確立に至っていない精神性の弱点は、今回の安保法制をめぐる議論では次のようにあらわれました。こころの中の分裂した部分が関わる主題については、まともに考えることができずに病理的な反応ばかりが現れたのです。国防についての意思決定ができない停滞したままの事態に業を煮やした政府が、オモテとウラの使い分けをかなぐり捨てて、全体主義的な精神が平和主義・民主主義的な精神を呑み込む形での国防に関する意識の分裂を、強引に統合しようとしました。その時に、全体主義への理想化・同一化、平和主義・民主主義への理想化・同一化をそれぞれに行って保たれていた日本人の自己イメージやアイデンティティーが、一時的に崩壊したのです。自分たちの意識の分裂に、直面させられました。
その両者が本来は論理的に共存できないという当たり前のことが、ようやく意識されるようになり、自らの虚偽性が明らかにされた狼狽から強い不安と精神的な退行がひき起こされました。こころのまとまりが失われ、支離滅裂で被害妄想的な認識にもとづく攻撃的な言動の噴出が、両方の陣営で認められたのです。つまり、虚偽を抱えている自分という事態をこころのうちに抱えることができずに、それを排泄して相手に投影し、相手を被害妄想的に攻撃する行為が活発になったのでした。その後も、全体主義的な国防を重視する観点から安保法案に賛成する議論と、平和主義・民主主義的な立場から政府の議会運営のあり方を批判して反対する議論が、分裂したままで統合されることなく現在にいたっています。どちらも相手の論点に乗ることなく、自分の論点から相手の批判を行うのみです。
個人にたとえると分かりやすくなると思います。人間のこころは、発達の過程でさまざまな対象と同一化を行います。親への同一化、教師への同一化、友人との同一化、会社の上司との同一化などです。いくつもの同一化を行いますが、ある人生における場面で、「父親ならこうするだろうが、先生には違うように教えられた」といった問題が必ず生じます。そのような中で自己責任での選択を積み重ねた上で、単なる誰かへの同一化に還元できない、自我の精神機能が少しずつ高まっていきます。しかし、ひょっとしたら戦後の日本では、その時の流行りの精神性に同一化することによる選択をくり返しながら、自己決断を行っているふりをしつつも実質的にそれを回避する虚偽が許容され続けてきたのかもしれません。
このような状況は、いつまでも続くのでしょうか。今回の安保法案をめぐる議論の中には、変化の兆しも見られました。全体主義的な傾向と、平和主義・民主主義的な傾向の二分法はあまりに大ざっぱですが、それでも二つの考えが明確に論陣を拮抗させる形で対峙し、論争が行われました。そして、これは今後も継続され、国民は考え続けるでしょう。大ざっぱな二分法ではない、きめの細かい論点も、数多く提出されています。リスクを負って発言した若者も評価されています。オモテとウラの使い分けではない、真実な形で民主主義の理念を根付かせようと努力してきた日本人たちが今までに築いてきてくれた蓄積もあります。苦悩の中にも、本当の意味で民主主義的な精神を内在化させることで確立された個人の連帯によってつくられる、未来への希望があると感じています。