医療ガバナンス学会 (2016年1月23日 06:00)
しかしながら、電子カルテをいかに改善しようと、現状では、病院、診療所、介護施設の間で情報伝達がスムーズに行われるようになるとは思えない。病院の電子カルテの構造は複雑で、大量の情報がさまざまな場所に収められている。情報の収納の場所、情報を引き出す方法は多彩である。収納場所を探しあて、必要な情報を引き出すのは簡単ではない。情報にアクセスできても解読は難しい。同じ病院であっても、診療科ごと、医師ごとに書かれている内容や書き方が大きく異なる。いたるところでコピー・アンド・ペーストが行われ、重要な情報が、重複した大量の情報の山の中に埋もれている。急いで入力した情報が、誰のチェックもなしにそのままになっているので、間違いが少なからず存在する。
しかも、職種ごとに記載が大きく異なる。例えば、看護記録は医師の記録とは別系統で残される。温度板と呼ばれる体温表が中心におかれ、その周囲にこまごまとした看護記録が記載される。
病院という組織は極めて複雑であり、医療に関わるさまざまな専門分野が関与している。それぞれの分野は独自の行動形態、言語論理体系を有している。いくつかの分野では、国家資格が設定されている。これは、それぞれの分野が、外部から関与できない独自の領域を有していることを示す。すなわち、それぞれの分野が小さな社会システムを形成している。病院には、医師システムとそのサブシステムとしての各診療科システム、看護システム、薬剤システム、リハビリシステム、診療報酬システムなど多様なミニ社会システム(コンピューターのアプリケーションではなく、文字通り社会システム)がその領域を独占しつつ、機能を発揮している。電子カルテは単一の世界ではなく、多くの小さな社会システムが出会う広場である。
筆者は、亀田総合病院で、管理職として、医療が適切に行われているかどうか、チェックすることがあった。例えば、個人輸入の薬剤の使用例について、説明と同意がどのようになされているのか調べたことがある。電子カルテで状況を把握するのに、膨大な時間を要する。しかも、必要な情報をすべて把握できたかどうか、はなはだ心もとない。インフォームド・コンセントに関する記録が見つけられなかったとしても、本当に記録がないのか、記録はあるがそれを発見できなかったのか、確信が持てない。
地域包括ケアの対象となる人たちに対するサービスの目標は、在宅であれ、施設であれ、日々の生活をよくすることである。具体的には、衣食住と排泄の確保、人間関係の中での居場所の確保が目標になる。医療はこの一部を形成しているにすぎない。利用者にとって医師より介護職がはるかに大きな存在になる。医療にしても、生存期間を延ばすための積極的治療より、生活に悪影響を及ぼす症状の緩和など、日々の生活を支えることが目標になる。病気の治癒、生存期間の延長を目的とする病院とは、活動が全く異なる。
地域包括ケアで必要とされる情報は、生活していくのに必要な情報である。こうした情報が、ケアに関わる人たちで共有されなければならない。あるいはいざとなった時に簡単に参照できるようにしておきたい。病状についての情報として、障害の程度と将来の予測、必要な医療的措置と問題点(例えば、排尿できなくなった人に使用される尿道カテーテルの扱いなど)、投薬内容とその重要度などがある。患者側についての情報として、患者が考える望ましい生活像、患者・家族の病状理解、医療者への要望、住所と地図・駐車場、キー・パーソンの氏名・連絡先などがある。経済状態の記載は難しいかもしれないが、生活を支えるには重要な情報である。サービス提供者側に関する情報として、ケアマネジャー、関係職種の氏名と連絡先などがある。
上記情報の内、病院で得られるものは必ずしも多くない。少なくとも、急性期病院の医師が、障害の程度と将来の予測について書くことは、要介護認定のための診断書以外ではほとんどない。尿道カテーテルの取り扱いなど患者と家族にとって重要な関心事について、診療録に書かれていたとしても、探し当てるのは至難である。急性期病院の医師の多くは、ケアに関わる人たちが共有すべき情報が何かを知らない。しかも、多くの医師は、介護施設や介護事業者に対し関心と知識を持たない。知らず知らずのうちに、介護側に対して傲慢にふるまうことがある。たしなめられることがないので、修正できない。
現時点で、医療と介護の間でITが活用できる状況にはなっていない。ケアの必要な高齢者についての情報のやり取りのルールを地域で決めて、申し合わせをすることを提案したい。規格として明文化し、大げさな演出で協定を結び、互いを縛るようにしてもよいかもしれない。現状では、電子カルテを介するより、まずは紙ベースで、公正かつ合理的なやり取りを確立すべきであろう。