最新記事一覧

Vol.044 日本的ナルシシズムと吝嗇さ(ケチ)について

医療ガバナンス学会 (2016年2月18日 06:00)


■ 関連タグ

この記事はハフィントンポスト日本版より転載です。

http://www.huffingtonpost.jp/arinobu-hori/japanese-narcissism-and-stingness_b_8842442.html

堀 有伸

2016年2月18日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

自己愛的(ナルシシスティック)な幻想にすがることには、厳しい現実に触れることから自分のこころを守ろうとする防衛的な意味もある。
起きてしまった損失や、受けてしまったトラウマに生々しく触れないで済むことで、私たちは激しい混乱や、強過ぎる怒りや不満などが引き起こされることがないようにしている。

特に自分の責任も関与するところで、悲劇的なできごとがあった場合に、つまり自分が加害者かもしれない時に、こころの防衛が剥がされて現実に直面させられることは、とても恐ろしい事態だ。精神病理学で「迫害的な他者」という言葉を使うことがある。自らの罪が暴かれて、一方的に迫害的な他者からの弾劾にさらされて弁明することもできない、そのような空想上の不安に圧倒されそうになる。

そしてそのような恐ろしい体験を、こころの中から閉め出してしまいたいというこころの働きは、尊重されるべきだろう。

日本人は、(そして本来的にはあらゆる人間は、)倫理的な要請にさらされている。集団や空気に依存して日和見的な立場に留まるのではなく、自らの責任において考え、発言し、行動することを、引き受けなければならない瞬間がある。

福島と沖縄が、日本人に呼びかけている。しかし、私たちはこの呼びかけに対して十分に応えられていない。負担を一部の人に押し付け、後はそのことについて知らぬ振りを貫く程度の怠慢は、個人の水準では許容されるべき、たいしたことのない問題のようにも思える。

しかし、そのような不作為を、多くの人が、長い期間継続してきた結果が、明確な形をとって現れている。それなのに、私たちのこころは、その現実に直面することを避け続ける。実に巧妙に、他の問題にすりかえて、現実と出会い損ね続ける。

本当は、福島や沖縄だけではなく、多くの他者が叫びをあげているのだ。

日本的な美意識を悪用した疑似道徳に訴えることも、そのような抵抗の一つだ。日本社会全体の経済的利益や、集団内の秩序を維持することを理想化することで、現実の問題への直面を求める主張を無効化しようとする。主張の内容を議論の中心から外し、主張を行う人の美意識や知性の欠如の問題へと置き換え、そのことを断罪するような議論を構成することで、不愉快な感情を引き起こすかもしれない意見を封殺するような話し方が、横行している。

しかし、そこまでして守られねばならない国や集団のプライドとは何だろう。一時の感情的な快・不快の水準の判断を優先させることは、本当の意味での全体の利益を損なうのではないだろうか。そのようにして維持されるのは未熟なナルシシズムに過ぎず、成熟した国への誇りとは異なった水準のものだ。それとも、真剣に守られているのは、オモテに出ないように守られている特定の層の既得権益なのか。

ここまでは、私が今まで「日本的ナルシシズム」という言葉を用いて批判してきた内容である。

ナルシシズムによる防衛は非常に強力なものだ。そしてこの数年、日本全体が今までの不決断・不作為の責任を突きつけられるような国際情勢の中で、かえってこころが防衛的になって、日本と日本人が主体的な責任の引き受けを倫理的に呼びかけられていることから、かたくなに目をそらそう、耳を塞ごうとする傾向が強まっている。

私はしばらく、日本社会に横行するナルシシズムによる防衛の挙動を観察することにとらわれていたが、よく見ると、他にも強力な防衛が何種類も働いていることに、最近は注意が向くようになってきた。一つは、知性化・理性化による防衛である。これは、問題全体に関わることをせず、特定の領域の専門的で知的な課題に集中してこころを働かせることで、全体と関わることによるこころの動揺を防ぐことである。

ここで主に働くのは、道具的理性(エピステーメー)である。これはもちろん重要なプロセスで、正当な学問的な手続きを経て得られた知的な見解が集積されることで、全体的な判断が可能となる。問題は、その技術的な水準のみに意識が留まってしまうことだ。

今回、特に新たな文章を書いて話題にしたいと思ったのは、「強迫機制による防衛」である。強迫は完全主義、倹約、頑固、几帳面といった性格特性と関係があり、尾籠な話ではあるが肛門をキュッと締める感覚と関連している。生活の中のある局面が特権化され、そこは少しでも汚いものが入って来ないように必死になって守られるようになる。

もしケガレを見つけたならば、徹底的にそれを排除してキレイにしようとする行為に没頭することが、主体には強いられる。例えば、強迫性障害の臨床では、不潔なものに極端な恐怖感を抱いて、頻繁に手洗いを行う症例と出会うことは珍しくない。

ケガレとして扱われるものはいろいろとあるが、原発事故後には「放射能」がそのように扱われたのは、不思議ではないだろう。しかし、これだけ時間が経過し、さまざまな調査も行われているのであるから、「放射能=ケガレ」の意識からの変化は起きてもよいと思う。

また、右翼的な口ぶりで話す人と、左翼的な口ぶりで話す人が対話を試みたとして、それが生産的な議論とならずに、残念な品のない罵り合いにしかならないことがある。それは、そのような口ぶりで話す人々が、強迫的な意識の水準にとらわれているからだ。論争の相手の主張を「ケガレ」と体験してしまい、それを強迫的に排除しなければならないという観念に飲み込まれているからだ。

強迫的な防衛は、モノや金銭を溜め込むこととも密接に関連している。そして、経済的などん欲さや、支配欲とも関係が深い。自分の領域の中に経済的なリスクが入り込むことや、コストを引き受けることを強迫的に排除しようとする性質の人は、吝嗇な人(ケチ)と呼ばれる。

「何で本当の意味での自己主張が、日本ではこんなにもまれにしか現れないのだろう」ということを、つらつらと考えてみたことがある。(自己主張もどきはよく見かけるが、ここではその問題には踏み入らない)ある時に、日本では自己主張はコストが高くつくという事情があるのではないだろうか、と思い当たった。つまり、日本では伝統的に自己抑制や分相応の振る舞いが美徳とされていたのである。そうすると、自己主張を行うことは、その内容によらず、それだけで分を弁えない道徳的な非難の対象とされる可能性がある。

そうであるから、価値のある主張が行われた場合には、苦労して何らかの発見をした人の成果を、そのように批判して攻撃した上で、強い立場のものが横取りすることや、周囲がただ乗りすることが容易なのだ。ここには、主張を行える自我の強さを持った者への、自己主張を行いえない人々の破壊的な羨望も働いているだろう。

結局、倫理的な責任を果たすために社会的な役割を果たそうとする人々の一部は、不作為な人々のちょっとした怠惰とどん欲さの積み重ねで、つぶされてしまうのである。その様子を見ていた多数の人々は、新規のリスクを背負うよりも、安心して担げる主張が出現するまでは空気を読みながら待つのが得策と判断するようになるだろう。このようにして、不作為は維持される。

つまり、何らかの自発的な決断や言動を選択することによって負うかもしれない倫理的・経済的なリスクを強迫的に避け、空気を読んで大勢に沿う事で、そこそこの生活を維持できる可能性が高いから、それを続けたいと考えている日本人が大多数をしめているのが、現状かもしれない。倫理的な要請に応えることには、コストがかかりすぎる。だから精神的な依存を継続したいというのがホンネなのだろう。こういう選択は、「現実的」と誤ってみなされることが多い。

政治も、このような大多数の心性に媚びるような方法でしか、求心力を維持できなくなっている。不快な現実(借金が増えているというような内容)がこころの中に入らないように決めた多数派に対して、国全体として、何とかばらまきを続けることで不満を抑えて強迫的な防衛を維持することに汲々としている面があるのではないだろうか。

有効な主張を直接潰せない場合でも、ばらまきと脅しによって市場を占有して無意味な騒ぎを続けさせることで、有効な主張の方を兵糧攻めにして干上がらせ、結局はそれを排除することで、社会的・心理的な防衛を完成させることができる。本当に、真剣な思考よりも無意味なばか騒ぎの方を好んでいるとしか思えない。
このような前意識的・無意識的で防衛的な行動ばかりが目立ち、明晰な自我の意識によって支えられた思考や決断が不在の状況が続く事には、不安も感じる。これが妥当かどうかは、後の歴史が判断するだろう。

さて、ここで文脈を大きく反転させて結論を述べたいと思う。

強迫やナルシシズムのような私たちのこころの弱さ、防衛的で明晰でないあり方を前にして、どのようにするべきなのだろうか。

ひょっとしたら、日本人に限らず、危機の渦中にある人間というのは、この程度のものかもしれないと思う。なんと言われようが、ともかく一生懸命頑張るしかない、というのが最近の実感である。今、自分が何をやっているのかは、後からしか意味がわからないのだろう。

私は、ナルシシズムや強迫のような防衛的なものに対して、それを強迫的に排除しなければならないと考えるような、こころの防衛的な状態に陥っていた。しかし、ナルシシズムのことも強迫のことも人間の姿の一つとして、受け入れることが重要だと、今は思うようになってきている。厳し過ぎる現実に急激に直面することなく、準備が整うまでは防衛的なかかわりに留めておくことは、一つの分別だろう。

強迫の特徴は、物事の悪い面ばかりが気になることだ。確かに昨今の日本人の心性の中には、好ましくない面も現れている。しかし、日本人の悪い面だけに注目せずに、良いところに注目してナルシシズムを守って育てて行くことも大切にしなければならない。私が不当に周囲に投影してしまったものは、自分の中にきちんとたたんでしまうようにしよう。正当な批判の部分を、守るために。

いろいろあっても、みんなで力を合わせて、この精神的な危機の時期を乗り越えられるようにしていきたい。

MRIC Global

お知らせ

 配信をご希望の方はこちらのフォームに必要事項を記入して登録してください。

 MRICでは配信するメールマガジンへの医療に関わる記事の投稿を歓迎しております。
 投稿をご検討の方は「お問い合わせ」よりご連絡をお願いします。

関連タグ

月別アーカイブ

▲ページトップへ