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Vol.047 ドクターGからドクターFへ ~ 今こそ医学教育改革を ~

医療ガバナンス学会 (2016年2月22日 06:00)


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中山病院 臨床研究部長
新谷 太

2016年2月22日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


地域医療の供給偏在の解決策として、「総合診療医(ドクターGと呼ぶ)」を増やすことが唱われている。では本当に、総合診療医を増やせば過疎地医療の問題を解決することができるだろうか?筆者の答えは「No」だ。確かに、地域医療の供給偏在の原因の一つは「検査依存型医療」にあるだろう。近代設備の整った病院から一歩離れれば医療行為ができなくなるようでは、僻地や医療過疎地での診療所では働けない。「検査依存型医療」への反省が、テレビに出てくる「ドクターG」たちのように問診だけで診断を付けられる医師の需要を高めたという背景があることは否めない。

そもそも「総合診療医」はどういう役割をするのだろうか。「総合診療医」いう日本語は、主に英国で使われている「General Practitioner(GP)」の訳語らしい。Generalには、「全部、すべて、総合」という意味があるが、「一般の、普通の、ありきたりな」という意味もある。アメリカでは「ありきたりの普通の医者」のような意味に聞こえるせいか、ほぼ同じ概念であるが、「Family Doctor」の方がより好まれて使われている。こちらの日本語訳は「家庭医」であり、家庭医は「Family Medicine(家庭医療)」を行う医者ということになる。世界家庭医学会は家庭医療の定義の中で「The scope of family medicine encompasses all ages, sexes, each organ system and every disease entity.」と記載している。ここでも日本ではmedicineの意味の取違いがある。すなわち、単に「内科」と捕えるのは間違いだ。内科を意味する正しい英語は「internal medicine」だ。

実際、家庭医療は「内科」ではない。定義にあるように、すべての年齢と性を対象にするのだから、産婦人科や小児科の仕事を含む。すべての病気が対象なのだから、精神科、整形外科、泌尿器科、眼科、皮膚科、耳鼻咽喉科を含む。クスコを握る、肩関節脱臼を整復する、KOH直接鏡検を行う、 粉瘤程度の切開手術を行う、認知症患者に向精神薬を含めた処方を行う。これらはすべて家庭医(ドクターFと呼ぶ)の日常業務だ。本来ならば、これが「総合診療医」の役割だろう。問診だけで診断を付ける「ドクターG」の業務とは大きく違うように見えるのは私だけだろうか。どうも「総合診療医」という訳語が正しい概念を伝えていないようにも思える。「general」を「全科」と訳すなら、「総合診療医」ではなく「全科診療医」と呼ぶべきではないか。その方が「ドクターF」の概念に近い気がする。少なくとも上記の定義に則ればそういう意味になる。

ドクターFが診るのは病気だけではない。患者を囲む人達、すなわち、家族やその患者と関わりのある地域住民までが「家庭」の範疇だ。患者の家族が遠く離れた所に居れば、近くに住んでいる隣人の方がその患者の普段を知っている。だとすれば、その患者の状態を知るには、家族よりも隣人に尋ねる方がよい。つまり、ドクターFは患者の社会的背景も診ている。また、ドクターFの仕事は断面的ではあり得ない。その人の人生を縦断的に寄り添うことになる。医者にも寿命があるから、せいぜい50年くらいの付き合いだが、その間に、患者の子供が大学生になり、就職して結婚して子供ができ、その分娩に立ち会うことになるかも知れない。患者が高齢者なら、働き盛りの息子夫婦が親の介護疲れに悩んでいるのを一緒に診ることになるかも知れない。ドクターFは「患者の人生に寄り添う医者」と言える。

ドクターFにはもう一つ大事な仕事がある。それは専門医への紹介だ。病気といわれるもののおおよそ8割は軽症といわれているが、残りの2割には専門的な治療をしないと命に関わる病気が隠れている。それを見逃さず発見し、迅速に専門医に紹介することである。ドクターFは「ファーストコンタクトの医者であり、専門医への橋渡しをしてくれる医者」と言える。
こうしてみると、「ドクターF」は新しいタイプの医者ではなく、昔から日本にも居たことに気づくだろう。一番近いイメージは「赤ひげ」だ。近代的医療がなかった時代にも「赤ひげ」は人の命を救い、人々の尊敬を受けていた。
ドクターFへの批判もあるだろう。一つは「正しい診断には専門的な知識が必要であり、専門的な知識のない医者が薬を出すのは危険だ」という批判だ。しかし、この批判は必ずしも妥当ではない。
たとえば、高齢の患者は腰痛、高血圧、糖尿病、不眠、白内障などで、色んな科の診察券を何枚も持ち、何種類もの薬を飲まされている。科ごとの専門医たちは、専門的に正しい知識で対応しても、その患者が何人の医者にかかっていてどんな薬を飲んでいるのかを知らなければ、むしろ、患者の命を危険に曝しかねない。内科医の出した処方薬を知らない精神科医が、薬物代謝的に内科薬の作用を弱める向精神薬を出してしまう。すると向精神薬の専門知識がない内科医は、自分の処方した薬が効かないと判断し、さらに作用の強い内科薬を出す…などということが実際によく起こっている。一人のドクターFが全科的に対応すればそうしたリスクは減らせるし、重大な問題が起こった時は、各科の専門医に正しく情報提供して適切な対処ができるだろう。これこそが本当の「かかりつけ医」ではないだろうか。

日本医師会が目指している「かかりつけ医制度」も、本当は、こうしたドクターFによる医療なのだろう。しかし、今の日本にいる開業医は、ほぼ全員「過去に○○科の専門医だった」または「専門医を目指していた」開業医であって「ドクターF」ではない。したがって、日本医師会の目指す「かかりつけ医制度」は「○○科のかかりつけ医」が行う制度である。「条件付き」の「かかりつけ医」だ。

医療供給の偏在などの不公平問題は、ただ医師数の割り当てを均等にすれば解決できるという問題ではない。逆を考えてみよう。もし各科専門医を地域に均等に頭数を揃えて用意した場合、どうなるだろうか?莫大なコストが必要になるだけでなく、需要のバラつきによって供給側(医師側)が不公平の煽りを受けるだろう。患者が不公平に我慢するのか、医者が不公平に我慢するのか。つまり、どちらにしても、どっちかが我慢しなくてはならない。「かかりつけ医」がファーストコンタクトを受け、重症度をスクリーニングして専門医に紹介するというネットワークを作ろうという制度設計に対しては、医療提供の最適化や効率化などの点でメリットを期待できるが、やはり「条件付き」の「かかりつけ医」を張り巡らしても、不公平問題の根本的な解決にはつながらない。

冒頭で述べたように、全科対応モードではない「総合診療医」を増やしても、不公平問題が解決しない理由も同じ理屈だ。結論を言えば、検査に頼らず問診だけで診断する医者の能力はドクターFの必須条件であるが、それだけでは不十分なのだ。患者の人生のバックステージに控え、どのような疾患に対しても全科に亘る的確な診断力をもって患者の人生を支援し、必要な時には専門医に確実につなぐ。そんな「ドクターFによるかかりつけ医」を増やし、地域に配置しなければ問題解決にならないのである。誤解がないように言っておくが、筆者は「ドクターG」が不要だなどと言っているわけではない。ドクターGがスポットライトを浴び、その姿に憧れてそれを目指そうとする若い医者や医学生が増えることは大いに歓迎すべきことだ。しかしそれだけでは地域医療は相変わらず救われない、というのが筆者の主張だ。

では、どうすればいいのか?
最後に筆者の考える答えを述べる。ここまでの記事を読んで、不快に思っている医者も多いだろう。しかし、ここで言いたいことは、ドクターGが悪いとか、臓器専門医が悪いとかの話しではない。筆者も精神科専門医であり、ドクターFの教育を受けていない医者だ。素手で戦うそこそこの自信はあるが、専門外の疾患に出会えばやはり右往左往してしまう。見回してみれば、今の日本の医学部に「ドクターF」を養成するための「教育」がないのである。「私が悪いのではなく、教育が悪いのだ」と言えば、責任転嫁に聞こえるかも知れないが、実際そうだろう。「全科に対応できるかかりつけ医」を教育するシステムがなければ、本当のかかりつけ医は生まれないのである。では、大学医学部で家庭医を育てる教育ができるだろうか?各科の手技を教えるだけなら今の大学教育の縦割りを横割りに「模様替え」するだけで済むかも知れない。実際、そんな「模様替え」を教育改革だと賜っている人達もいる。しかし、それは本当の教育改革ではないと筆者は思う。

教育に大事なのは「憧れ」だ。腹腔鏡や心臓移植のプロが教授となって教鞭をとれば、学生はそれに憧れて自分も神の手を持った外科医を目指す。iPS細胞を使った再生医療の研究をしている教授が教鞭をとれば、それに憧れた学生は自分も再生医療の難問解決を目指そうとする。教育というのはそういうものだ。高度医療や臓器に特化した専門教育ならそれでいい。しかし、それだけに偏ってしまえば、これこそ偏向教育だ。偏向教育は偏向医療を生み、その皺寄せは患者に行く。教育現場に「ドクターF」すなわち「赤ひげ」が居なければ、学生は「憧れ」を持ちようがない。家庭医を育てたければ大学に「赤ひげ」が居る必要があるのだ。本当の教育改革は「赤ひげ」を大学教授に招き、教鞭を取らせることだ。入院管理中心の研修だけではなく、病院を離れて地域に出て、学生や研修医に「素手で行う医療」を見せて体験させ覚えさせることだ。いつまでも「病院離れ」ができない検査依存型の臓器専門医たちとはひと味違う「素手で何とかする気概」を見せてくれる医者が必要なのだ。

全科の疾患に対してそんな対応ができる教授が居たら、学生はその教授にゾクゾクするほどの「憧れ」を抱くだろう。もし、医学生の頃の私が、そんな教授に出会っていたら、間違いなく憧れる。では、果たして、地域医療の中で幾つもの修羅場を乗り切ってき百戦錬磨の経験豊かな開業医たちを教授にすることができるだろうか。もっと具体的に言うなら、論文数、博士号資格、大学で講師の経験などを教授になるための条件として定めている文科省の支配下に治められた既存の医学部が、「赤ひげ」を教授にできるだろうか?特区でも設けて新設医学部を造る以外、筆者には方法が思いつかない。「医療改革を実践するには、医学教育改革から始めなければならない」というのが、筆者が提案したい答えである。最後に、ソクラテスの言葉で締めくくりたい。Education is the kindling of a flame, not the filling of a vessel.(教育とは、炎を燃えあがらせることであって、入れ物を満たすことではない。)

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