医療ガバナンス学会 (2016年7月26日 06:00)
尼崎医療生協病院 産婦人科
衣笠 万里(きぬがさ まさと)
2016年7月26日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
●サリドマイド薬害
サリドマイドは1956年に当時の西ドイツで鎮静薬として開発され、日本を含めて世界各国で販売された。そして妊娠初期の悪心嘔吐(つわり)に対する治療薬としても使用されるようになった。ところがその後、新生児の四肢短縮・欠損(アザラシ肢症)、骨格異常、顔面奇形などの先天奇形が急増した。1961年にオーストラリアの産婦人科医師マクブライドと西ドイツの小児科医師レンツが相次いで、それらの奇形と妊娠初期に母親が服用したサリドマイドとの関連を示唆する症例報告をおこなった。サリドマイドは同年販売中止となり、その翌年以後、上記先天奇形の発生は激減してほとんどみられなくなった。その後の調査によって妊娠初期に母親がサリドマイドを服用していた子供の20~50%に何らかの奇形が発生していたことが判明した[1]。一般的には3%前後の子供に先天奇形が認められるが、サリドマイドはそのリスクを数倍~十倍以上に増やしただけでなく、きわめてまれな奇形を多発させた。その被害者数は1万人以上と推計されている[2]。
●ベンデクチンの“冤罪事件”
ベンデクチン(Bendectin)の事例については日本ではほとんど知られていない。ベンデクチンは鎮静薬であるドキシラミン(日本では未承認)と、ビタミンB6製剤であるピリドキシンとの合剤である。つわりの治療薬として1956年に米国で発売され、その後、全世界で3000万人以上の女性が妊娠初期にこの薬剤を服用したと推計されている。ところが発売開始後10年以上経ってから、妊娠中のベンデクチン服用と新生児の四肢欠損、心奇形、顔面奇形などの先天奇形との関連を疑わせる症例報告や米国食品医薬品局(FDA)への届け出が相次いだ。そして製薬会社に対して300件以上に及ぶ訴訟が起こされた。サリドマイド薬禍の第一発見者として名を上げたマクブライドが原告側証人として出廷した事例もある。メディアもこぞってベンデクチンが第2のサリドマイドであるかのように報道した。
しかし複数の大規模な疫学調査の結果、妊娠初期にベンデクチンを服用した女性と服用しなかった女性との間で、生まれた子供の先天奇形や発育発達障害の発生率には差がみられなかった[3][4]。かつて米国でのサリドマイド販売を認可しなかったことで薬害を未然に防いだFDAは、ベンデクチンの催奇形性については否定的な見解を示した。一方、薬剤の催奇形性を示す調査成績を発表していたマクブライドは、データを捏造していたことが発覚して医師資格を停止され、かつての名声に傷をつけた。その後の調査でもベンデクチンの安全性が確認され、同薬剤をめぐる訴訟は最終的にはいずれも原告側の敗訴に終わった。現在、欧米ではベンデクチンと同成分の製剤がつわり治療の第一選択薬となっている。
米国では訴訟の影響でベンデクチンが市場から撤退した後も各種先天奇形の発生率は変わらなかった。一方、重症のつわり(妊娠悪阻:にんしんおそ)で脱水状態に陥って入院する妊婦の数は倍増した[5]。妊娠悪阻のために入院治療を要した妊婦では早産や胎児発育不全の頻度が高くなる。もともと3%前後の子供に何らかの先天奇形がみられるので、全世界で3000万人以上の妊婦が服用していれば、薬剤の影響とは無関係に90万人前後の子供に奇形が発生することになる。しかし妊娠初期に服薬していた女性やその家族は心情的にその薬剤を犯人だと思い込みやすい。後になってベンデクチンは無罪であったことがわかったが、この冤罪事件のために多くの妊婦と胎児の健康が損なわれる結果になった。
●HPVワクチン接種後の諸症状
HPVワクチン(サーバリックスまたはガーダシル)を接種した一部の女性たちに体中の痛み、けいれん様の不随意運動、運動障害、記憶障害などの症状が現れて、生活に支障をきたしていることが社会問題となっている。中には通学が困難になったり、進学や就職を断念せざるを得なくなったりした人々もいる。
それらの症状とワクチンとの因果関係はまだ明らかになっていないが、一部の医師たちはHPVワクチン関連神経免疫異常症候群(Human papillomavirus vaccination Associated with Neuroimmunopathic Syndrome:HANS)という疾患概念を提唱している[6]。しかし、その診断基準案では若年性線維筋痛症(Juvenile Fibromyalgia:JFM)の混入が避けられない。JFMは全身の痛みを訴える原因不明の疾患であり、HPVワクチン登場以前から報告されている。JFMとHANSの病像には多くの類似性・共通性があり、両者間の明確な線引きは困難である。厚生労働省研究班の調査によると本邦では5~10万人のJFM患者数が推計されており、その多くが女児である[7]。HANSの診断基準案ではHPVワクチン接種から症状発現までの期間の長さは問われないので、接種の数年後にJFMを発症しても、その多くがHANSと診断されてしまうことになる。またHANSの語彙に含まれる「免疫異常」を裏づける共通の検査データは確認されていない。このようにHANSという疾患概念は現時点では実体が不明瞭で仮説の域を出ない。
HANSとは別に、HPVワクチン接種後に起立性調節障害および複合性局所疼痛症候群といった疾患群が多発しているという報告もある[8]。しかし欧州医薬品庁(EMA)が2015年にHPVワクチンとそれら疾患群との関連性を調査したところ、ワクチン接種後の発症率はその年齢の一般人口における発症率を超えるものではなく、ワクチンとの因果関係は否定された[9]。
ワクチンの効果を増強させるために添加されているアルミニウム塩などの成分(アジュバント)が免疫異常を引き起こしているという説もある。しかしアルミニウム塩はB型肝炎・ジフテリア・破傷風・百日咳ワクチンなどにも含まれており、数十年にわたって全世界で延べ10億人以上に対して使用されてきた。現在に至るまで、それが神経疾患や自己免疫疾患を増加させているという疫学的証拠は認められていない[10][11]。
2015年に名古屋市でHPVワクチン接種後に生じた様々な症状について大規模な疫学調査が実施された。現在、名古屋市はデータのみを公開しており、解析結果を公表していない [12]。そこで同サイト内に公開されている集計データをもとに筆者自身がワクチン接種者と非接種者それぞれの有症状率を試算して比較してみた。その結果、詳細は割愛するが、しばしばワクチン接種後の副反応として挙げられている多発性疼痛・めまい・記憶力低下・学習障害・不随意運動・運動障害(杖や車椅子の使用を含む)などの有症状率、症状が「いつもある」人の割合、同症状に対する医療機関受診率は、いずれもワクチン接種者と非接種者との間で明らかな差がみられなかった。したがって、以前から10~20代女性にみられていた慢性疼痛や運動障害などの症状が、HPVワクチン接種をきっかけに顕在化して注目されるようになった可能性が高いと考えられる。
サーバリックスおよびガーダシルの臨床試験や大規模な疫学調査では、ワクチン接種者と非接種者との間で重大な健康障害の発生頻度には差が認められなかった[13]。一方、いずれのワクチンも接種後長期間にわたってHPV感染予防効果が維持されており、今後もその効果は持続すると予測されている[14][15]。実際に早期からワクチンを導入したオーストラリア・デンマーク・スコットランドなどでは、若年女性の前がん病変の減少が認められている[16][17][18]。ほとんどの子宮頸がんはそのような前がん病変を経由して発生することが知られているので、将来の頸がん罹患率・死亡率の減少が期待できる。世界保健機関(WHO)・米国疾病管理予防センター(CDC)・FDA・EMAなどの公的保健機関や国内外の多くの医学会がHPVワクチンの有効性と安全性を支持している[19][20]。
●薬害あるいは冤罪?
ここまで述べてきたことから、HPVワクチンをめぐる現在の状況はおそらくサリドマイドよりもベンデクチンの事例に近いだろう。両者の共通点を列記すると以下の通りである。
(1)ベンデクチンは3000万人以上、HPVワクチンは約8000万人に使用された。使用者が多ければ、薬剤とは無関係にさまざまな先天奇形や有害事象が発生しうる。
(2)それらの先天奇形あるいは有害事象は症状が多彩であり、一定の傾向がみられない。
(3)薬剤使用後の先天奇形あるいは健康障害に関する症例報告は多数みられるものの、使用例と非使用例(対照群)または一般人口との比較では、それらの有害事象の発生率に有意差は認められなかった。
(4)(3)を理由に、多くの公的保健機関や医学会は当該薬の安全性を支持して推奨している。
(5)一方、患者家族団体、一部の医師・弁護士、そしてメディアの多くは副作用あるいは「薬害」であると信じており、訴訟が起こった、あるいは起ころうとしている。
明確な対照群を設定した臨床試験や疫学研究ではHPVワクチンによる長期的な健康被害は証明されていない。ただし、たとえ低頻度であっても個々の接種者においてワクチンによる副反応が起こっている可能性を完全に除外することはできない。同ワクチンは定期予防接種に指定される以前から公費負担による任意接種が実施されてきた。予防接種健康被害救済制度では、予防接種と健康被害との因果関係が認定された場合にのみ救済の対象となる。しかし因果関係の証明や完全な否定はしばしば困難であり、他に明らかな症状の原因が見当たらなければ、無過失補償の立場に立って接種後の有症状者が適切な診療を受けられる環境を整備することが望ましい。
実際にHPVワクチン接種後に頻回にけいれん発作を起こすようになったという少女たちの動画を見て衝撃を受けた人々が、科学的なデータや公的機関・専門家の見解よりも自らの目で見た事実を信じるだろうことは想像に難くない。しかし、あのようなけいれん発作、あるいはけいれん様の不随意運動は、脳炎などの脳細胞傷害や通常のてんかん以外に、心理的な葛藤やストレスによっても発症することがある。解離性けいれん、あるいは心因性非てんかん性発作とも呼ばれており、以前から精神科領域ではよく知られていた。
けいれんも含めてHPVワクチン接種後に生じた運動器症状は多彩であるが、共通した特定パターンの脳波異常は確認されていない。2015年に発刊された「HPVワクチン接種後に生じた症状に対する診療の手引き」[21]では、それらの症状がみられても、なるべく日常生活動作(ADL)を制限せずに通常の生活を送ることが推奨されている。そして適切なケアによって長期的にはハンディキャップを最小限に抑えて希望の生活が可能になるとの見通しが示されている。
HPVワクチンが世に出てから10年が経過した。その間に蓄積されてきたエビデンスに基づいて、世界の多くの専門家は同ワクチン接種によって得られる恩恵(ベネフィット)は副反応あるいは有害事象のリスクを明らかに上回ると判断して接種を推奨している。それに対して批判的な、ときに攻撃的な内容の書籍やインターネット情報は少なくない。たとえば「製薬会社に買収された医者が女性の健康を食い物にしている」等々。もちろん言論出版の自由は保障されているが、異なる意見をもつ相手を互いに誹謗中傷しても人々の健康と幸福には寄与しない。HPVワクチン接種の是非については、努めて冷静かつ紳士的に科学的な論議を進めていきたいと願うものである。
筆者には開示すべき利益相反はありません。
文献:
[1] Briggs et al. Thalidomide. In: Drugs in pregnancy and lactation: A reference guide to fetal and neonatal risk. 9th ed. Philadelphia: LWW. 2011: 1416-25.
[2] Vargesson N. Thalidomide-induced teratogenesis: history and mechanisms. Birth Defects Res C Embryo Today. 2015; 105(2):140-56.
[3] Gilboa SM et al. Antihistamines and birth defects: a systematic review of the literature. Expert Opin Drug Saf. 2014;13(12):1667-98.
[4] Briggs et al. Doxylamine. In: Drugs in pregnancy and lactation: A reference guide to fetal and neonatal risk. 9th ed. Philadelphia: LWW. 2011: 452-7.
[5] Slaughter SR et al. FDA approval of doxylamine-pyridoxine therapy for use in pregnancy. N Engl J Med. 2014; 370(12):1081-3.
[6] 横田俊平ほか. ヒト・パピローマウイルス・ワクチン関連神経免疫異常症候群の臨床的総括と病態の考察. 日本医事新報. 2015; 4758:46-53.
[7] 宮前多佳子. 小児の線維筋痛症. Clin Rheumatol. 2014; 26:266~74.
[8] 池田修一. 特集 神経疾患と感染症update. 子宮頸がんワクチンの副反応と神経障害. Brain and Nerve. 2015; 67(7):835-43.
[9] European Medicines Agency. HPV vaccines: EMA confirms evidence does not support that they cause CRPS or POTS. 2016.
http://www.ema.europa.eu/ema/index.jsp?curl=pages/medicines/human/referrals/Human_papillomavirus_vaccines/human_referral_prac_000053.jsp&mid=WC0b01ac05805c516f(2016/7/10ダウンロード)
[10] Global Advisory Committee on Vaccine Safety. Aluminium adjuvants. Report of meeting held 6-7 June 2012. WHO Weekly Epidemiological Record. 2012.
http://www.who.int/vaccine_safety/committee/topics/adjuvants/Jun_2012/en/
(2016/7/14 ダウンロード)
[11] van der Laan JW. Safety of vaccine adjuvants: focus on autoimmunity. Vaccine. 2015; 33(13):1507-14.
[12] 名古屋市子宮頸がん予防接種調査結果:
http://www.city.nagoya.jp/kenkofukushi/page/0000073419.html(2016/7/14 ダウンロード)
[13] Herrero R et al. Present status of human papillomavirus vaccine development and implementation. Lancet Oncol. 2015; 16(5):e206-16.
[14] Naud PS et al.: Sustained efficacy, immunogenicity, and safety of the HPV-16/18 AS04-adjuvanted vaccine: final analysis of a long-term follow-up study up to 9.4 years post-vaccination. Hum Vaccin Immunother. 2014; 10: 2147-2162.
[15] Ferris D et al.: Long-term study of a quadrivalent human papillomavirus vaccine. Pediatrics. 2014; 134: e657-665.
[16] Brotherton JM et al. Early effect of the HPV vaccination programme on cervical abnormalities in Victoria, Australia: an ecological study. Lancet 2011; 377(9783):2085-92.
[17] Baldur-Felskov B et al. Early impact of human papillomavirus vaccination on cervical neoplasia―nationwide follow-up of young Danish women. J Natl Cancer Inst 2014; 106(3):djt460.
[18] Pollock KG et al. Reduction of low- and high-grade cervical abnormalities associated with high uptake of the HPV bivalent vaccine in Scotland. Br J Cancer 2014;111(9):1824-30.
[19] World Health Organization. Human papillomavirus vaccines: WHO position paper. Weekly Epidemiological Record. 2014; 43: 89. 465–492.
[20] Centers for Disease Control and Prevention. Human Papillomavirus Vaccination: Recommendations of the Advisory Committee on Immunization Practices (ACIP). MMWR 2014; 63(RR05);1-30.
[21] 日本医師会・日本医学会. HPVワクチン接種後に生じた症状に対する診療の手引き.
2015; 6-12. http://dl.med.or.jp/dl-med/teireikaiken/20150819_hpv.pdf
(2016/7/14ダウンロード)