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Vol.065 計画主義が医療を滅ぼす1 -地域医療構想と計画主義-

医療ガバナンス学会 (2017年3月27日 06:00)


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元亀田総合病院副院長 小松秀樹

2017年3月27日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

●地域医療構想
2014年の医療法改正で、「計画主義が医療を滅ぼす4」で述べる地域医療構想、地域医療介護総合確保基金が制度化された。2015年の法改正で、これを補完する地域医療連携推進法人が制度化された。これにより、2013年の社会保障制度改革国民会議報告書以後の、一連の統制強化政策が完成した。個々の医療機関に対する都道府県知事の強制力が強められた。実際には、都道府県に出向した医系技官の権力が強まった。統制により、個々の医療機関独自の活動空間が狭まり、経営努力、創意工夫、活力が奪われる。全体として、日本の医療を形作ってきた医療機関の私的所有が、地域の共有財産として、行政の下に再編成されることになる。はたしてうまくいくものだろうか。「計画主義が医療を滅ぼす」と題するシリーズで、日本の医療政策の根幹にある計画主義について議論したい。
最初に、筆者の立場が、以下のトックビルの懸念を共有するものであることを明らかにしておく。

中央集権は、それがどんなに開化されたものにせよ、また、どんなに賢明なものにせよ、それ独りのうちに大民族の生活のすべての詳細事をかかえこむことはできない。そのようなはたらきは人力を超えているために、中央権力にそんなことができるわけがない。中央権力がその単独の配慮だけで多くのさまざまの指導力をつくり、それをはたらかせようとしても、それは極めて不完全な結果で満足することになるか、または、無駄な努力をはらって力つきてしまうかいずれかであるにすぎない。(『アメリカの民主政治』, 講談社学術文庫)

●計画主義
個人には個人固有の価値があり、その価値を至高とする個人の活動領域がある。他人の自由を損ねない限り、個人の領域は尊重されなければならない。この考え方は、日本国憲法の基本理念であり、自由主義あるいは個人主義と呼ばれる。しかし、日本の行政には、国家の領域を大きくし、個人固有の活動領域を小さくしようとする宿痾とも言うべき性癖がある。
日本の行政、とくに厚生労働省の医系技官は、戦前、戦後を通じて、計画主義に強い親和性を示してきた。ハイエクによれば、計画主義では、「諸資源を合理的に活用するために、意識的に設計された『青写真』に基づいて、人々のあらゆる活動が中央集権的に統制・組織」される(『隷属への道』, 春秋社)。計画主義は個人の領域を侵害し、結果として多様性と社会の活力を奪う。共産主義、ファシズムなどは、「社会全体とその全資源を単一の目的へ向けて組織することを欲し、個人それぞれの目的が至高とされる自主独立的分野の存在を否定することにおいて、等しく自由主義や個人主義と一線を画している」。自由主義的計画では、政府は、「各個人の知識やイニシアチブがいかんなく発揮され、それぞれが最も効果的な計画が立てられるような条件を作り出す」。これは自由放任ではない。環境保全のための排水や排ガス規制、公正な取引のルール、雇用に関するルール、労働環境の適正化、社会的弱者救済など法による介入は不可欠である。

専門家と称する人たちの計画は、論理的整合性を重視し、複雑かつ詳細になる傾向がある。個人の行動を細部まで支配しようとする。計画の目的にとらわれ、悪意なしに個人固有の価値を侵害してしまう。専門家が権力を持つと、目的の中に、自身の権益を組み込むようになる。この段階になれば、憲法で明記された個人の領域、すなわち、基本的人権が侵害されるようになる。平等を達成するために、あるいは、自身の権益を確保するために、民衆の恐怖感や偏見を煽ることもためらわない。計画には、さまざまな選択肢についての決定が含まれるが、政治家はこれらの選択肢についての議論には参加できず、官僚や官僚の支配下にある専門家の発言権が大きくなる。結果として、政治家は実質的に専門家に決定権をゆだねざるをえなくなる。
言語を含めて社会制度は、無数の人間が関与する中で、長い時間をかけて自生的に形成されてきた。旧共産圏の国々やナチスドイツは、人為的に社会を設計することを試みたが、無惨に失敗した。社会を人間の設計によって運営することが、人間の能力を超えていたからである。

社会の状況は多様である。ある特定現場の状況に対し、社会には断片的で個人的な知識が大量に存在する。不完全で場合によっては相互に矛盾する知識に基づいて、多様な人間が多様な活動を行ってきた。これらが積み重なって、秩序が形成された。これをハイエクは「自生的秩序」と呼んだ。自生的秩序として、しばしば、市場が念頭に置かれる。それぞれの現場では、自身がもつ知識と情報にしたがって、さまざまな活動が行われている。その中で、価格が決まり、供給量が決まり、新しい製品が供給されることになる。

計画経済の欠陥として、個人の意欲の低下が挙げられることが多い。しかし、それ以上に政策立案者の知識が限られ、思考が単純で一面的だったことが計画経済の失敗に直結した。計画主義は、現場の自由と新たな挑戦を抑制し、社会の進歩を阻害する。詳細で具体的な計画は、抽象的なルールとは異なり、個別活動に対する具体的な強制を含むため、必然的に利権を生む。腐敗は避けがたい。
自生的秩序が成立・維持されるためには、個人の領域の確保とそこでの自由が必要である。自由を保障するのが、「法の支配」である。「法の支配」は「人の支配」に対する概念で、人によるその場その場の恣意的な支配を排除して、あらかじめ定められた法に基づく支配によって自由を確保することを目的とする(高橋和之, 『立憲主義と日本国憲法』, 有斐閣)。
ハイエクは自由を守るために、法の支配を重視した。

法の支配の下では、政府が個人の活動を場当たり的な行動によって圧殺することは防止される。そこでは誰もが知っている「ゲームのルール」の枠内であれば、個人は自由にその目的や欲望を追求することができ、政府権力が意図的にその活動を妨げるようなことはない、と確信できるのである。
「法の支配」においては、政府の活動は、諸資源が活用される際の条件を規定したルールを定めることに限定され、その資源がつかわれる目的に関しては、個人の決定に任される。これに対し、恣意的政治においては、生産手段をどういう特定の目的に使用するかを、政府が指令するのである。(F.A.ハイエク, 『隷属への道』, 春秋社)

グンター・トイブナーは、グローバル化の中で、権力を制限するシステムについて記述した(『システム複合時代の法』, 信山社)。世界に対し、国民国家における憲法は制限規範として無力である。その中で、権力を制限する民間憲法とでも言うべきシステムが、自生的に出現してくる。この本の中で、トイブナー述べた階層型社会の機能不全についての記述は、共産主義や全体主義が失敗したメカニズムの一端をよく説明している。上意下達の命令で行動を制限したままで、現場が実情に対応して生き生きとした活動を展開できるはずがない。現場は多様である。現場の認識も多様であり、政策立案者と同じということはない。進歩は、個別の現場での新たな試みからスタートする。政策立案者からは、未来に向かう新たな営為は生まれない。問題を解決するためには、挑戦することが許されなければならない。

複雑な組織は、決定過程をヒエラルキー化することを通じて冗長性を十分に作りだし―つまり同じ情報を十分に反復させ―、そのことによって決定の不確実性を縮減しようとした。
組織の頂点への環境コンタクトの集中によって、環境に関する情報が、組織の存続を危うくするほどに欠乏することになった。
組織社会において、公法が鈍重な大組織のヒエラルキー的な調整交渉メカニズムを下支えしそれを変化から規範的に防衛する。(グンター・トイブナー, 『システム複合時代の法』, 信山社)

階層型社会では、権力そのものの在り方が、情報の種類、量、質、流通の方向を徹底して制限するため、システムの作動が致命的に阻害される。計画主義は、情報の獲得とその解釈、それに基づく方針決定を、計画設計者と官僚が独占することを前提としている。インターネットによって、情報が、あらゆる方向に、大量にやり取りされている状況の中で、医系技官の計画主義は陳腐化するしかない。

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