医療ガバナンス学会 (2017年10月30日 06:00)
中学生の頃に、私は突然看護師になりたいと思い、両親に「看護師になるね。」と宣言しました。大した理由はなく、直感的な決意だったとは思いますが、両親は驚きつつもそれからの私の進学をしっかり応援してくれたのを私は覚えています。その後も、看護師になりたいという将来への思いは変わることなく、看護の日(5月12日)の地元イベントであった市民病院の看護体験に高校生として参加しました。そこで清拭や足浴といったケアのお手伝いを初めてやりました。ごく普通の「お手伝い」をしたつもりが、その患者さんから「ありがとう」と言われたことに私はとても感動して、看護師という職業の素晴らしさを強く感じ、看護師になりたい気持ちがますます強くなったのは今でも忘れられません。
それから私は、北海道の看護大学へ進学しました。以前よりも男性の看護師が増えてきたといわれますが、それでも看護師の中での男性はまだまだ「少数派」で、大学の同級生で男性は1割ほどで、入学後からは「少数派の男性看護師として何かできることはないだろうか。男性看護師として誰も踏み入れていないことをしてみたい」と将来のことを考えるようになっていました。
母性分野で卒業研究をしたと1年次に決め、「出産前教育に求められる男性看護師の役割-父親となる男性への支援に着目して-」と題した研究では、父親となる男性は、妊婦や胎児にだけではなく自身に関する不安を抱えており、家族以外では身近な同性の友人や同僚を相談相手にする傾向があることがわかりました。また、父親となる男性は、女性看護師より男性看護師に「性に関する相談」をしやすく、男性看護師による「出産前準備教室」を求めており、準備教室参加は男性が父親役割行動を考えるための一助となることがわかりました。このアンケート調査による一連の卒業研究から、もっと「男性看護師にできること」を探していこうとあらためて感じました。
その後も私の看護師としてのこのテーマは継続しています。小児看護を強く志したのは、子どもが好きだという理由に加えて、小児看護では男性看護師として患者に父親的役割も果たせるからです。同級生との勉強や病院実習では、互いに学習内容や大学での看護計画の立案などを教えあう中で、「教える」ことの楽しさを知り、「将来は教える立場(看護教員)になるのもいいな。」と漠然と考えるようになっていました。大学での4年間はあっという間に過ぎ、就職のために初めて上京しました。大学の先生から「東京で看護を学んできた方がよい」という勧めに、「じゃあ東京も面白そうだから行ってみようか。嫌だったらすぐ帰ってくればいいし、3年くらいで北海道に帰って来よう。」と軽い気持ちで決めたことでした。
都内の大学病院で働きだすと、ひたすら通常の看護業務を覚えることで忙殺され、「男性看護師だからできること」を考える余裕もなく1年目が終わっていきました。それでも、働きながら「つらい、やめたい」と思ったことはあまりありませんでした。それよりも、看護の仕事として自分が「できること」が増えていくこと、少しずつ仕事に慣れていくことで時間的な余裕が生まれ患者である子どもやその家族と関わる時間が増えていったことが私にとって看護という仕事への「強いモチベーション」になっていきました。
一通りの業務に慣れた時にはすでに丸3年が過ぎていきました。その頃から、「このまま北海道に帰って何ができる?何がしたい?」とあらためて自分のキャリアについて考えました。勤務病棟の看護師長との面談では、「病棟でリーダーとして働けるようになった方がもう少し視野が広がる。」と言われ、「それならばもう少し東京で頑張ってみようかな。」と大学病院勤務を続けることにしました。
看護師4年目は、自分の気持ちに大きな変化が生まれた年でした。春に結婚をして、その冬に子どもが生まれ、「自分のことよりも子どものこと、そして家庭を優先していこう。」と思うようになりました。「女性は子どもができたら家庭にはいることができるが、男性の多くは結婚して子どもができたら一生働かなくてはならない。将来われわれはどうしようか。認定看護師資格や専門看護師資格を取るか、病棟で管理職になるか、教員になるか、選択肢はいろいろあるけれど。」などと、同病棟の先輩男性看護師の方々と将来について話す機会がありました。
しかし、「(結局)なかなか自分のしたいことは(仕事として)できない」というまとめになることが多かったです。そのような先輩方の話を聞いていると、「もうこのまま東京で看護師を続けていこうかな。家庭の安定が一番だ。」と思うようになりました。「看護教員になるには大学院に進学しなければならないし、そんな時間も経済的余裕もないし。病棟で管理職になるのもいいのかな。」と看護教員になることをあきらめかけていました。その頃、師長の勧めにしたがって私は小児病棟のリーダー看護師の一人となり、リーダー業務をこなせるようになっていました。
それから看護師5年目を迎えると、就職時に一緒に上京してきた大学時代の同級生たちが、地元の北海道に戻ったり、将来海外で働くためにワーキングホリデーに参加したり、あるいは看護師から保健師に転職したりと次々に自身のキャリアアップのために動き出していました。そんな同級生からの知らせを聞くたびに私の中では大きな焦りを感じました。やりたいことをどんどん進めていく同級生がうらやましく、そして彼らに負けたくないと思いました。
それからもう一度自分のキャリアについて考え、「やっぱり(看護)教員になりたい!大学院にも行きたい!」と思い直しました。師長から次年度の新人看護師教育担当のオファーを受けたのがちょうどその頃で、教育を学ぶよい機会だと考えた私は看護師6年目を新人看護師教育担当としてスタートしました。しかし思っていたよりも教育担当は大変なものでした。新人看護師に新しいことを何か一つ伝えるにもどうすれば「伝わる」のか、新人看護師との距離感をどうしたらよいのか、私自身の指導方法は正しいのかなどどんどん悩み事が増えていきました。
また、新人看護師教育には、新人看護師からのフィードバックだけでなく、関係する様々な医療スタッフからの意見もどんどん取り入れて進めていかなければならないことも教育担当になって初めてわかったことでした。そういった大変さを重ねていくと、教育に携われることへのうれしさよりも、教育担当という役割の難しさ、自分自身の教育能力の低さへの落胆を感じました。
新人看護師の教育方法や大学院進学、将来のキャリアプランなど常に悩みをかかえて過ごしていると、一度決めたら止められない性格からか、教員になるために大学院に進みたい気持ちがすでに抑えられなくなっていました。大きな懸念は仕事と家庭でした。「仕事を辞めることはできないし、家庭のこともある。教育担当者という今の立場もある。」そう悩みながら、あれこれ調べても解決策が見つからなくて途方に暮れている時に、看護教員をしながら大学院で学んでいる先輩男性看護師Aさんを思い出した。
Aさんは私が看護師1年目の時から色々な相談にのってくれたとても仲の良い先輩です。私が看護師2年目になると、Aさんは看護教員になるために大学病院を離れましたが、その後も看護教員はどんなことをしているのか教えてくれたり、とりとめのない話をしたり、私にとっては看護教員の先輩としても頼りになる存在です。現職場の同僚には働きながら大学院に進学した方がいませんでした。働きながら大学院に行っているAさんは、私が目指す「看護教員」をしているので、私のこれからについてベストな相談相手だと思いました。早速Aさんに連絡を取り、大学院に進学したきっかけや入学までの手続き、どんなことを勉強しているのかなどたくさんの質問をしました。
Aさんからは、通信制の星槎大学大学院に在籍していて、仕事をつづけながらできること、教育について学べることを聞きました。その話から、新人看護師教育担当として自身の教育能力の低さへの悩みが解消できること、そして将来の看護教員を目指す上で役に立つことも確信した私は、自分が今後どうなりたいか、どうして大学院に行きたいかなどを家族に必死に説明して何とか通信制大学院進学への理解を得ることができました。すぐにオープンキャンパスに参加して大学院教員と面談をしました。どんなことを研究としてやってみたいかその教員と相談しながら研究計画書を作っていきました。入学した今では、Aさんというロールモデルがいなければ私の大学院進学への道は開けなかったかもしれないと強く思っています。
これからは、現場で新人教育を担当する教育者としてのフィールドを活かして、小児看護分野での研究を進めていきたいと思っています。看護師としても教育担当者としても経験が浅い私は、新人看護師との関わり方や指導方法で困難を感じることも多く、先輩看護師のアドバイスをもらいながら新人看護師への指導に当たっています。そういった経験から、看護師経験年数による新人看護師への教育に対する困難さの違い、小児看護分野特有の困難さに注目して研究を進めていきたいと考えています。
また、研究だけではなく様々な科目から「教育する」ことそのものについても学んでいきたいと思います。「男性看護師としてできること」はまだ探している真っ最中ですが、教育や小児看護といった視点から大学院にいる間にそれを見つけていきたいと考えています。そしていずれは看護教員として教壇に立ち、男性看護師だからこそできることを進めていきたいです。