医療ガバナンス学会 (2018年3月7日 06:00)
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ネパールというと、エベレスト及びヒマラヤ山脈への入り口として有名である。事実、ビザを申請するときの「目的」として、トレッキングという項目があり、ホテルに配られる新聞の名前は「ヒマラヤン」である。市内にはネパール人女性として初めてエベレスト登頂を果たした方の銅像が立ち、女性初登頂を成し遂げた田部井淳子さんの名前はよく知られているという。一方で、ネパールにはブッダ生誕の地があり、仏教、ヒンドゥー教にとっての重要性は非常に高い。今回の訪問の最終日である2月13日は、ヒンドゥー教の中でも人気のあるシヴァ神の大祭の日であり、インドなどから多くの人がパシュパティナートに訪れていた。当日の朝、ホテルのロビーには沢山のヒンドゥー教僧侶が集っていた。
「キリスト教にとってのバチカンにあたる」というヒンドゥー教の聖地、パシュパティナートはトリブバン国際空港のほど近くに位置する観光名所だ。ヒンドゥー教信者が24時間葬られるバグマティ川の川岸からは煙が絶え間なく上がり、黄色の布に包まれたご遺体が火葬され、灰がそのまま川に流される。夜には僧侶と思しき人物が、その遺体を見下ろす対岸で音楽に合わせて祈りの舞を捧げ、周りで観衆が合掌してそれを拝む。日本においても川は大きな意味を持ち、現世と異界を隔てる役割を果たすことは『千と千尋の神隠し』にも描かれているが、人里離れた場所で遺体を焼き、墓を子々孫々にわたり大切に守る日本人と、多くの人が見守る中で遺体を焼き、川に流すヒンドゥー教徒では感覚が大きく異なる。さらに、パシュパティナートから数キロに位置するボダナートには、世界最大の仏塔を有する仏教寺院があるという密度の濃さだ。
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観光地としてのもう一つの大きな特徴は、土産物の多彩さである。カシミア・パシミナが有名だが、繁華街のタメルには、銀細工やキルトでできた小物など色々な手工業品のお店とトレッキング用品店が立ち並んでいる。手工業品は曼荼羅など仏教具に由来するものが多い。以前、日本史の先生が「中世の滋賀県(近江国)は、天皇や比叡山という権威が近くにあったため、『〇〇御用達』という形で手工業者が発達し、非農業従事者の割合が比較的高かった」と話していたのを思い出した。宗教が盛んな地であることが、下支えになっているのは間違いないだろう。宗教と山岳と美しい手工業品に彩られた神秘の国である。
今回は、アジアの国を実際に見たいとの思いから、臨床研究の打ち合わせに行く医師に同行させて頂く形で、ネパールの首都・カトマンズを訪れた。アジアの国を訪れるのは、昨年のインド・バンガロールに続き2回目だ。
メインテーマである医療の話に移ろう。ネパールの健康に関する重大問題について、トリブバン大学教育病院(Tribhuvan University Teaching Hospital)の放射線技師は、「交通事故かCOPDだ」と語った。交通事故に関しては実体験として納得がいく。自動車交通は、ルールではなく阿吽の呼吸の上に成り立っていた。街にはほとんど信号機も車線もなく、中央付近は双方向の車が入れ替わりで使っている。横断者はタイミングを見計らって自由に渡る上、車同士すれ違うときなど、車間距離が15cm程度になることがよくあった。
もう一方のCOPDは慢性閉塞性肺疾患の略称である。喫煙を続けてきた中高年が発症しやすい生活習慣病として知られている。ネパールでは、タバコがとても安価で手に入りやすいがために喫煙率が高いことも原因となっているが、それとは別に最近生じた大きな要因がある。
それが、2015年に起きたゴルカ地震である。最初に登場したゴルカという街の直近を震源とし、M7.8の大地震がネパールを襲った。首都カトマンズも震源から約80km程度しか離れておらず、多くの建物が倒壊し、歴史的な遺産であるダルバール広場にある寺院群も、全壊して跡形も無くなった堂や、柱に支えられて建っている堂が多く、ほぼすべての寺院で屋根瓦が崩れたままであった。
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この震災がなぜ呼吸器系の症状を増やしたのか。カトマンズは盆地になっており、山に囲まれている。また、建物を構成するレンガは砂によってできており、震災の際にはそれが崩れて砂塵が大量に発生し、かつ盆地であるカトマンズに集積したため「呼吸器系の症状が非常に増えた(呼吸器専門の教授)」と考えられるという。今も、震災後まだ3年も経っておらず、再建の工事がいたるところで行われているためか、道路は砂埃が立ち込め、全体として砂っぽい印象であった。現在進行形の重大な問題だ。
続いて、JICAによって建てられたトリブバン大学教育病院を訪れた。ちなみにカトマンズとバクタプルを結ぶ幹線道路はJICAの支援によって拡張され、カトマンズ周辺で唯一の片道3車線道路(中央分離帯あり)だという。元々中国の援助によって建設されたこの道は、JICAの支援で道幅が約4倍になった。トリブバン大学教育病院の患者は非常に多く、廊下には多くの人が待っており、院内薬局にも長蛇の列ができていた。ERでは、受付らしきところに立つ一人の看護師が即座に問診し、血圧等を測りトリアージの色ごとにブロック分けされたベッドへと振り分ける。しかし、一人で来ている場合には先に治療費の支払いが必要だ。ちょうど訪れた時に、激しい頭痛のためか頭を抱えながら来た男性は、問診を受けた後に、そのまま奥の治療スペースに行くのではなく、いったん支払いのために建物の外へと出て行った。この辺り日本と異なりシビアである。
ここで出会った看護師・スレスタさんは、日本の神奈川県立がんセンターを訪れた同僚の看護師の話を聞き、「自分の髪の毛を神奈川のがんセンターのがん患者のために」と言って私たちに託してくれた。
その後、国内に二つしかないというがんセンターに訪れた。このがんセンターにはネパール国内のがん患者の約30%が訪れる。カトマンズの外側にあるもう一つのがんセンターに40%、残り30%が他のクリニック等という内訳だ。重量のある放射線治療装置はやはり地下に置かれ、コバルトと、送られてきた時から部品不足のため使われていないライナックが置かれていた。
ネパールでは、がん治療に出る保険の額は極めて低い。1ルピーはほぼ1円に相当するが、国から降りるのは、ただ一回100,000ルピーだけであり、あとは基本的に自己負担となる。前保健大臣が、皆保険制度に近い仕組みを作ろうとしたが、「保険代が高額になり、システムに懐疑的な人が多かったため、うまく運営できなかった」という。今回の旅行全体をセッティングしてくださったネパール人医師も、「ネパールにおける最大の健康問題は皆保険制度の不在。今のままだと重病になると即破産する人が多い」と語った。同時に、「5年か10年経てば進んでいるはず」とも話した。
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メインの臨床研究の打ち合わせを行った医師の一人であるバイジャ教授は、トリブバン大学教育病院の災害対策部門の医師であるが、2015年の震災の際に大きな役割を果たした。ネパールにおいて、2015年以前の大きな震災は1934年のビハール・ネパール地震まで遡る。そのため当時を知っている人はほぼおらず、防災意識も非常に薄かったが、バイジャ氏は発災に際した行動プランの策定、認知に力を入れていた。結果として、周りの市中病院が全く機能しない中、ティーチングホスピタルのみが震災後にも活躍することとなる。彼は三重県で災害への対処について学んだという。
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迫力ある人々がネパールの発展を力強く支えていること、そして「震災後」という共通項で貫くことで国境を越えてコラボできることを実感した。7年前の東日本大震災と3年前のゴルカ震災、今はまさに震災後の知見が共有されるべき時である。このテーマは、自分が臨床医として本格的に働く時にはまた異なっているだろう。時宜を得た課題設定を元に知見を積み重ねて共有し、役に立てていきたい。