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Vol.054 近い将来、日本の文系の高校生はベクトルを学ばなくなる?(前編)

医療ガバナンス学会 (2018年3月13日 15:00)


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灘中学校・高等学校数学科教諭
河内一樹

2018年3月13日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

2022年4月1日から施行される高等学校学習指導要領案[1](以下「改定案」と略記)が2018年2月14日に文部科学省から公表されました。世間では地理歴史・公民科の再編が注目されていますが、数学教育の界隈では数学科の改定案によって激震が走っています。端的に言えば「統計教育の強化と、それに伴う他単元の追い出し」です。本稿(前編)では現状を踏まえて、改定案の具体的な内容を確認するとともに、改定に至る経緯に追ってみます。次稿(後編)では、改定案がそのまま実施された場合を説明します。

【現状の説明】
現行の高等学校数学科の教育課程では、「数学Ⅰ」が必履修科目となっており、それ以外の科目が選択科目となっています。また、「数学Ⅰ」(3単位)から始まり「数学Ⅱ」(4単位)を経て「数学Ⅲ」(5単位)に至る科目列がコア科目と位置づけられ、「数学A」(2単位)と「数学B」(2単位)がオプション科目とされていますが、それ以外に高等学校の数学科には「数学活用」(2単位)があります。
大学進学を目指す生徒が多い高等学校では、1年の後半に理系の学部に進学するか、それとも文系の学部に進学するかの選択が行われています。理系の学部への進学を目指す場合、数学のコアとオプションのすべての科目を履修するのに対して、文系の学部への進学を目指す場合は「数学Ⅰ」、「数学Ⅱ」、「数学A」、「数学B」の4科目を履修します[2]。
数学Aは「場合の数と確率」「図形の性質」「整数の性質」の3つの単元からなり、1つの単元が1単位分あるため、2つを学校で選択して履修します。しかし実際には、多くの大学で3つの単元全てを出題範囲に指定しているため、授業時間が限られる中で3単元すべてを履修する高等学校が多くなっています。

数学Bは「確率分布と統計的な推測」「ベクトル」「数列」の3つの単元からなり、数学Aと同様に2つを学校で選択して履修します。こちらはほとんどの大学で「ベクトル」「数列」を出題範囲にしているため、高等学校でも「ベクトル」「数列」のみを履修し、「確率分布と統計的な推測」を教えている学校はごく限られています。
理系の生徒だけが学ぶ数学Ⅲは「平面上の曲線」(2次曲線、極座標と極方程式を扱う)「複素数平面」「極限」「微分」「積分」の5つの単元からなり、これらをすべて学びます。
数学活用は、数学的な見方や考え方、数学的な表現や処理、数学的活動や思索することの楽しさなどに焦点を当て、具体的な事象の考察を通して数学の良さを認識できるようにすることを目的とした科目です。しかし、履修している学校は1割未満です。

【統計教育の強化】
それでは、改定案[1]の内容をかいつまんで説明します。
改定案の大きな特徴の1つは、統計教育の強化です。
現行の必履修科目であり、改定後も必履修科目になる予定の数学Ⅰに「データの分析」という単元があり、記述統計を学びます。現行の学習指導要領が導入される際に、必履修科目に統計分野が入ってくること、そしてその中に従来学習されてこなかった四分位範囲、箱ひげ図(box plot)が新たに導入されることが話題になりました。

高等学校よりも前に新たな学習指導要領が実施される(2018年4月から移行措置、2021年4月から全面実施)中学校でも統計教育が拡充され、四分位範囲と箱ひげ図が高等学校の数学Ⅰから中学2年に降りてきます([3])。その代わり、数学Ⅰでは「具体的な事象において仮説検定の考え方を理解すること」を扱います。その内容は現時点では不明ですが、独立行政法人統計センター理事長の椿広計氏(注1)の資料[4]によると、コインが、表が出るか裏がでるか等確率だという仮説の下で、何回中何回以上表がでたらコインは偏っていると判断すべきかといった、例題を中心に背理法の不確かさがある場合の拡張としての「仮説検定」を取り扱うとのことです。

現行の数学Bの「確率分布と統計的な推測」は改定案では「統計的な推測」と名前を改めます。単元名からは外れていますが、確率分布は当然扱います。そして、「正規分布を用いた区間推定及び仮説検定の方法を理解すること」を、「有意水準」の用語と合わせて扱います。現行課程では区間推定のみ扱っており、仮説検定は扱っていません。
このように、現行の単元内での内容の充実化を図っています。さらに、改定案の数学Bは「数列」「統計的な推測」「数学と社会生活」の3単元で構成され、これらから適宜選択して履修することになっています。これが「統計的な推測」履修に向けた実質的な圧力になっていることを、次に説明します。

【「ベクトル」が数学Cに移行】
改定案の大きな特徴の2つ目はオプション科目(数学A、数学B、数学C)の再編です。
現行の数学Ⅲは5単位で負担が大きかったため、「極限」「微分」「積分」から構成される数学Ⅲ(3単位)と、それ以外の数学C(2単位)に分割されます。これは形式的には現行の1つ前の学習指導要領の科目編成と同じです。そのため、数学Cが「復活」したことになります。
次に、履修者の少なかった「数学活用」が廃止され、その中で扱われていた内容が数学Aの「数学と人間の活動」、数学Bの「数学と社会生活」、数学Cの「数学的な表現の工夫」に移行されます。これらの単元は「数学活用」の位置づけと同様、数学に苦手意識をもつ生徒が多い学校が履修し、大学入試の出題範囲に指定されないことが想定されます。

現行の数学Aは「場合の数と確率」「図形の性質」「整数の性質」の3単元からなることを先ほど説明しました。これらをすべて履修せざるを得ない現状を改めるべく、改定案の数学Aは「場合の数と確率」(注2)「図形の性質」「数学と人間の活動」の3単元からなり、これから適宜選択して履修します。大学に進学する生徒が多い高等学校では「場合の数と確率」「図形の性質」の2単元を履修し、大学入試の出題範囲もその2単元に指定することを想定した案だと思われます。現行の「整数の性質」は、単元名としては無くなります(注3)。

現行の数学Bは「確率分布と統計的な推測」「ベクトル」「数列」の3単元からなります。これに対して、改定案の数学Bは「統計的な推測」「数列」「数学と社会生活」の3単元からなります。単位数は現行と同様2単位であると予想されるため、これら3単元から2単元を選択して履修します。先ほど述べたように、大学入試の出題範囲に「数学と社会生活」が指定される可能性は非常に低く、残り2単元「統計的な推測」「数列」が指定されることでしょう。それを受けて、大学に進学する生徒が多い高等学校では「統計的な推測」「数列」を履修することになります。これが、「統計的な推測」履修者増加に向けた実質的な圧力です。

その結果行き場を失った「ベクトル」は改定案の数学Cに移行し、数学Cは「ベクトル」「平面上の曲線と複素数平面」「数学的な表現の工夫」の3単元から構成されることになりました。これらから適宜選択して履修しますが、数学Cが2単位であることから、「ベクトル」「平面上の曲線と複素数平面」の2単元が、大学に進学する生徒が多い高等学校では履修され、大学入試の出題範囲に指定されると想定されます。
次期学習指導要領が改定案のまま施行された場合、文系の学部への進学を目指す生徒の大半は数学Cを履修しませんから、ベクトルの概念を高校数学で学ぶ機会はありません。

【改定案に至る経緯】
私を含む現場の高校教員にとって今回の改定案が衝撃的であったのは、それまでに文科省が公表していた情報と異なるからです。そこで、どの時点で改定案と同様の提案が公表されたかを調べてみました。
「統計的な推測」が「ベクトル」「数列」と並び、これら3単元から2つを選択するカリキュラムだと、現状通り「統計的な推測」を選択する学校が非常に少ないままであることが予想されます。それを見越して、東京学芸大学教育学部教授の藤井斉亮氏(注4)は、「統計的な推測」を履修する生徒の数を増やすべく、履修の仕組みにまで踏み込むように、中央教育審議会 初等中等教育分科会 教育課程部会 算数・数学ワーキンググループの会議で当初から強く要望していました([5]、[6])。

それを受けて、文科省は「統計的な推測」を「データの活用(仮称)」という単元名で数学Cに移す案を第7回会議に出しました([7])。反対意見は出ず、第8回会議でも同様でした。この案に従うと、数学Cが「平面上の曲線と複素数平面」「データの活用(仮称)」と数学活用から移行する1単元の3単元からなり、多くの学校で「平面上の曲線と複素数平面」「データの活用(仮称)」が履修されることになります。理系の学部への進学を目指す生徒には限定されるものの、その生徒たちの大多数が「データの活用(仮称)」を学習するのは悪くないだろう、というのが会議の構成員の方々の思惑だったと推察されます。

2016年8月16日に公表された「算数・数学ワーキンググループにおける審議の取りまとめ」[7]では、「数学C(仮称)は、高等学校の多様な履修形態に対応し、活用面において基礎的な役割を果たす「データの活用(仮称)」その他の内容で構成することが適当と考えられる。」(p.7)「高等学校においては、統計をより多くの生徒が履修できるよう科目構成及びその内容について見直すとともに、必履修科目の内容を充実させ、選択科目の統計の内容を様々な場面で「使える統計」となるよう改善を図る」(p.9)とあります。

審議のまとめが公表されると、パブリックコメントが公募されます。パブリックコメントを考慮したうえで、中央教育審議会がそれまでの経緯や結論をまとめたものを答申として提出します。2016年12月21日に公開された答申[9]には「「数学C」は、高等学校の多様な履修形態に対応し、活用面において基礎的な役割を果たす「データの活用」その他の内容で構成することが適当と考えられる。」(p.142)とあります。

ここまでの経緯は文科省のweb pageですべて公開されています。しかし、中央教育審議会の答申が発表されてから改定案の発表に至るまでのプロセスは一切分かりません。改定案の内容に中央教育審議会の答申と異なる点があることは構いませんが、なぜ「ベクトル」を数学Cに移してまで「統計的な推測」を数学Bに残すことにこだわったのか、その理由を明確にせず、容易に想像される教育現場の混乱を引き起こそうとする文科省の姿勢には怒りを禁じえません。

(注1)学習指導要領の改訂に関わっている、中央教育審議会 初等中等教育分科会 教育課程部会 算数・数学ワーキンググループ、そして提言[2]を行った、日本学術会議 数理科学委員会 数学教育分科会の両方に所属しています。
(注2)現行課程では期待値が数学Aで扱われず、数学Bの「確率分布と統計的な推測」で初めて登場しますが、改定案では数学Aの「場合の数と確率」で期待値を扱います。
(注3)改定案で新設された「数学と人間の活動」の内容を見てみますと、「整数の約数や倍数,ユークリッドの互除法や二進法,平面や空間において点の位置を表す座標の考え方などについても扱うものとする。」とあります。従って、現行の「整数の性質」の内容ほぼすべてが、改定案の「数学と人間の活動」に含まれると考えられます。それに加えて空間座標も扱うのは、「ベクトル」の単元が数学Cに移行する関係と推察されます。そのため、「数学と人間の活動」が改定案通りに正式に導入される場合、整数に関する問題を入試で出題したい大学が「数学と人間の活動」を出題範囲に指定するかどうかは気がかりです。それによって、現状と同様に数学Aの3単元を実質的にすべて履修せざるをえない可能性が生じるからです。さらに、「数学と人間の活動」は現行の「整数の性質」よりも内容が豊富ですから、学習の負担がいっそう増します。
(注4)椿氏と同様、中央教育審議会 初等中等教育分科会 教育課程部会 算数・数学ワーキンググループと、日本学術会議 数理科学委員会 数学教育分科会の両方に所属しています。

参考URL(すべて2018年3月12日に確認済み)
[1] 「高等学校学習指導要領(案)」http://search.e-gov.go.jp/servlet/PcmFileDownload?seqNo=0000170358
[2] 日本学術会議 数理科学委員会 数学教育分科会「初等中等教育における算数・数学教育の改善についての提言」(2016年5月19日)

http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-t228-4.pdf

[3] 「中学校学習指導要領解説 数学編」http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2017/07/25/1387018_4_1.pdf
[4] 椿広計「資料8 小中高算数・数学における統計的方法教育の実効化と教育すべき項目に関する意見」(2016年3月11日)http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/073/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/05/16/1370395_8.pdf
[5] 教育課程部会 算数・数学ワーキンググループ(第1回) 議事録http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/073/siryo/1381979.htm
[6] 教育課程部会 算数・数学ワーキンググループ(第4回) 議事録http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/073/siryo/1381989.htm
[7] 「資料2 科目構成の見直しについて(案)」(2016年5月13日)http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/073/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/05/31/1370947_2.pdf
[8] 「算数・数学ワーキンググループにおける審議の取りまとめ」(2016年8月16日)http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/073/sonota/__icsFiles/afieldfile/2016/09/12/1376993.pdf
[9] 「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)(中教審第197号)」(2016年12月21日)http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/__icsFiles/afieldfile/2017/01/10/1380902_0.pdf

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