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Vol.056 近い将来、日本の文系の高校生はベクトルを学ばなくなる?(後編)

医療ガバナンス学会 (2018年3月14日 15:00)


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灘中学校・高等学校数学科教諭
河内一樹

2018年3月14日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

2022年4月1日から施行される高等学校学習指導要領案[1](以下「改定案」と略記)が2018年2月14日に文部科学省から公表されました。世間では地理歴史・公民科の再編が注目されていますが、数学教育の界隈では数学科の改定案によって激震が走っています。端的に言えば「統計教育の強化と、それに伴う他単元の追い出し」です。前稿(前編)では現状を踏まえて、改定案の具体的な内容を確認するとともに、改定に至る経緯を追ってみます。本稿(後編)では、改定案がそのまま実施された場合に起こりうる弊害を説明します。

【「ベクトル」が数学Cに移行することの弊害1】
「ベクトル」が数学Cに移行することで、文系の学部を希望する生徒(以下「文系の生徒」と略記)の大半が高校数学で「ベクトル」を学ばなくなることを前編で説明しました。この結果生じうる弊害をいくつか述べます。
まず、高校数学ではベクトルが主に図形の考察に活用されていることを確認します。平面上の直線を扱う手段としては初等幾何以外に平面座標があり、後者は数学Ⅱの「図形と方程式」で詳しく学びます。「ベクトル」の単元では、ベクトル方程式の概念を導入し、平面上の直線が方向ベクトルで特徴づけられる一方、法線ベクトルでも特徴づけられることを学びます。方向ベクトルの概念は空間内の直線にも定義され、空間内の直線はその方向ベクトルと通る1点で定められます。一方、法線ベクトルの概念は空間内の平面に定義され、空間内の平面はその法線ベクトルと通る1点で定められます。このように空間内の直線や平面のベクトル方程式が得られると、成分を代入することでそれらの空間座標における方程式が得られます。平面上の直線の方程式が、ベクトルを介して空間内の直線や平面の方程式に拡張されるのです。ベクトル方程式であれ空間座標の方程式であれ、図形が方程式で表されると、複数の図形の位置関係(例えば直線と平面の交点の位置)を代数的に調べることができるようになります。初等幾何でも調べることはできますが、議論の簡明さにおいては図形を方程式で表す方が優位に立ちます(注1)。
改定案がそのまま実施されると、文系の生徒が利用可能な、図形を調べる手段が制限されてしまい、特に空間図形への深い理解が危ぶまれます。

【「ベクトル」が数学Cに移行することの弊害2】
次に、大学での学問との関連で弊害が生じることを見ていきます。高校数学で学ぶベクトルや、かつて学んでいた行列・一次変換は、大学の初年度に学ぶ線形代数に直結します。線形代数と微分積分を土台として計量経済学や統計学が確立され、そして統計を用いて経済学をはじめとする社会科学が成り立っています。このように、線形代数は必要不可欠な基礎学問です。しかし、高校数学よりも抽象度が格段に増すため、明確なイメージを持ちやすい2次元や3次元で具体例を十分に扱っておかないと、十分な理解が得られません。例えば、行列・一次変換は、文系では1995年以降、理系でも2014年以降、高校数学から実質的に追い出されました。大学の初年度教育の担当者は、限られた時間の中で、高校数学でかつて扱っていた内容を従来の内容に加えて教える必要があり、現在もなお苦労しているそうです。それに加えて今度はベクトルまでも追い出されるとなると、大学の初年度教育へのしわ寄せは計り知れません。線形代数が十分に理解できないことで、統計をはじめ関連する諸学問の理解、社会への応用もままならない文系学科の学生がこれまでにも増して現れることが容易に想像されます。

【「ベクトル」が数学Cに移行することの弊害3】
理系の学部を希望する生徒(以下「理系の生徒」と略記)は数学Cで「ベクトル」を学ぶため、上記の【~弊害1】、【~弊害2】ほどの弊害が生じないように見えます。しかし、高校の履修状況を考慮するとそうではありません。
現行の学習指導要領下では数学Bに「ベクトル」が配当されています。そのため、センター試験と大学の個別入試の両方で「ベクトル」が出題範囲となります(注2)。数学Bは通常高校2年次に履修しますから、学校で一通り学んだのち、1年以上かけて繰り返し復習して受験に臨みます。改定案がそのまま実施された場合、数学Cは高校3年次に履修することが予想されます。学校で一通り学んだのち、大学受験までは数か月しかありません。そのため、大学受験時の「ベクトル」の内容の定着の度合いは現行より下がると予想されます。
例えば、1994年度から学年進行で実施された学習指導要領では「複素数平面」が数学Bに配当され、文系理系に関係なく履修していました。現行の学習指導要領では数学Ⅲに入っています。理系の生徒に限定しても、大学受験時の「複素数平面」の内容の定着の度合いは低いようです。
理系の学部では文系学部以上に線形代数が必須です。理系の生徒の「ベクトル」の理解の低下がもたらす大学での学びの弊害は、学部によっては文系の場合よりも深刻です。

【「ベクトル」が数学Cに移行することの弊害4】
ベクトルは物理学に欠かせない道具です。「ベクトル」が数学Cに移行し、高校3年次に理系の生徒のみが学ぶことになれば、「ベクトル」を学ぶより前に、理系の生徒が履修する物理(4単位)を学び始めることが大変困難になるか、もしくは物理の授業で必要な範囲でベクトルを教えざるを得ません。このような数学と理科の間の齟齬が現状にも増して目立つようになり(注4)(注5)、高校の現場にさらなる混乱を招きます。

【「統計的な推測」を数学Bで教えることの弊害】
現行の数学B「確率分布と統計的な推測」でも改定案の「統計的な推測」でも、連続型確率分布とその密度関数を扱い、その重要な例として正規分布が登場します。そして正規分布を規格化して、平均0、標準偏差1の標準正規分布が得られます。コンピュータを用いない場合は、正の数uと、標準正規分布に従う確率変数Zが0以上u以下の値を取る確率p(u)の対応の表(正規分布表)を用いて数値計算を行います。
これらを学ぶにあたり必要な数学の概念とどこで初めて学ぶか(高校数学は現行の学習指導要領に従う)を見てみます。定積分と面積の関係(数学Ⅱ)、自然対数の底e(数学Ⅲ)、実数全体を積分区間とする定積分(広義積分)と積分の変数変換(大学初年度)、そしてガウス積分(大学初年度)です。多くの高等学校では数学Ⅱと数学Bを高校2年次に並行して学習し、数学Ⅱで積分は最後に学ぶことが多いです。さらにこの段階では数学Ⅲは通常学んでいません。そのため、特に順番を配慮しなければ、数学Ⅱで積分を学ぶ前に連続型確率分布とその密度関数が登場し、そのうえ正規分布には正体不明の数学定数eが出てきて何が何やら、という意味が分からない展開になります。大学初年度で学ぶ事項、そしてその先に学ぶ大数の法則、二項分布の正規分布による近似(ド・モアブル-ラプラスの定理)を天下り的に高校生に教えることは、「理論的な扱いに深入りせずず,具体的な例や作業を通して確率分布の考えや統計的な推測の考えを理解させるようにする」という学習指導要領の指針を認めても、積分やeを知らない高校生にそれらの概念を統計の学習の途中で提示するのは、「数学的な厳密さにこだわらない」の限度を超えて無謀と言わざるを得ません。
その結果、基本的な概念があやふやな状態で、正規分布表を見ながら公式に当てはめて答えを出し、例えば区間推定を行うことになります。公式を見ながら、あるいはうろ覚えの公式に頼りながら、時にはICTを活用して統計量を算出したところで、本質を正しく理解していないと、正確かつ自由に使いこなすことはできません。生徒の多くは「統計はよく分からない」と苦手意識をもつか、もしくは「統計はよくわからなくても公式を暗記して適用すれば答えが出て、実用上役に立つ」という誤った学習観を形成し、どちらの場合も大学入学後に本格的に統計を学習する際に支障をきたすことが容易に想像されます。現行の学習指導要領のもとでもそのような傾向が見受けられるのに、改定案がそのまま実施されるとその傾向はより悪化することでしょう。

【結論と改善案】
高校と大学初年度の教育の現場の感覚に基づいて予想してみますと、数学Bで「統計的な推測」を文系・理系問わず実質的に必修化し、「ベクトル」を数学Cに追いやる今回の改定案は、統計の関係者の思惑とは裏腹に、高校生の統計への適切な関心を失わせ、大学以降の線形代数や統計学の学習に悪影響を与えるため、高度な統計も理解・運用できなくなる、という「百害あって一利なし」の結果をもたらします。
これを防ぐ最も現実的な改善案は、中央教育審議会の答申に沿って、数学Bを「ベクトル」「数列」「数学と社会生活」の3本柱に、数学Cを「平面上の曲線と複素数平面」「統計的な推測」「数学的な表現の工夫」の3本柱にすることです。文系の生徒は大学で線形代数を学んだのち高度な統計を学んで、さまざまな学問領域に応用すればよいのです。また、理系の生徒は数学Ⅲをある程度学んだうえで数学Cの「統計的な推測」を学ぶことで、数学Bに「統計的な推測」が配当されている状況よりも理解が進みやすくなります。
ただし、この改善案では「平面上の曲線と複素数平面」「統計的な推測」ともに、従来2単位分近くあった内容を1単位に強引に収めており、理系の生徒の負担が非常に重くなります。そのため、数学Cの学習内容を精選して、それぞれ1単位程度の内容に絞り込むことが必須です。また、「統計的な推測」が数学Cに配当されたとしても、その単元の大学入試での出題率を高めるとともに、大学初年度での統計教育を充実させれば、統計内容の定着の度合いは高められます。その実現に向けて、大学の統計研究者の方々にご尽力いただく必要があります。
理想を言えば、科目「統計」を新設する、もしくは情報科の単位数を増やすかして、その中で統計学を体系的に学ぶのが望ましいです。統計学は応用数学の枠を超えたデータの科学であって、数学科に押し込もうとするから無理が生じているのです。

【パブリックコメント】
改定案に対する意見公募手続(パブリックコメント)は3月15日が締め切りです。意見提出の手続きはそれほど煩雑なものではありません。私の意見にご賛同いただける方は、早急に下記のURLにアクセスして、ご意見をお出しください。ご協力のほど、なにとぞよろしくお願いいたします。

http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185000958&Mode=0

(注1)1982年から1993年まで施行されていた学習指導要領では、「代数・幾何」の科目で「ベクトル」を学び、そこでは空間座標における直線や平面の方程式を扱っていました。1994年以降の学習指導要領では、空間座標における直線や平面の方程式を扱うことが明記されておらず、「発展的な内容」として扱われています。
(注2)センター試験では数学Bの3単元のうち2つを選択して回答するため、「ベクトル」の問題を選択しないことも可能です。しかし通常は学校で履修している単元の問題を選択しますから、「ベクトル」の問題を選択する受験生の割合は非常に高いです。
(注3)受験対策として、高校2年の途中までで数学Ⅰ・数学A・数学Ⅱ・数学Bの学習を一通り終え、高校2年の後半から数学Cを先取り学習する可能性も十分に考えられます。実際、現行の学習指導要領下では、数学Ⅲを高校2年の後半から扱う学校も少なからず存在します。
(注4)文系の生徒も履修する物理基礎は、高校数学のうちベクトルと三角比の定義さえ理解できれば学習を進めることができるよう、カリキュラムが組まれています。そのため、文系の生徒が高校数学で「ベクトル」を学ばなくても、物理基礎を履修している場合にはベクトルの基本的な概念を学ぶことになります。
(注5)次期学習指導要領で「理数」という教科が新設され、「様々な事象に関わり,数学的な見方・考え方や理科の見方・考え方を組み合わせるなどして働かせ,探究の過程を通して,課題を解決するために必要な資質・能力を次のとおり育成することを目指す。」ことが目標とされています([1])。その中で、「課題を解決するために必要な資質・能力」として数学と物理を統合的に理解する能力を候補に挙げ、柔軟にカリキュラムを組んで必要事項を学ぶことも想定されているそうです。しかし、「理数」は必履修教科ではなく、が必ずしもどの学校に設定される保証はありません。また、「理数」は本来探求を主眼に置いた教科ですから、数学と理科の齟齬を解消する目的で、「理数」の名のもと知識偏重型のカリキュラムを組むことは、教科の趣旨に反します。

参考URL(すべて2018年3月12日確認済み)
[1] 「高等学校学習指導要領(案)」http://search.e-gov.go.jp/servlet/PcmFileDownload?seqNo=0000170358
[2] 文部科学省「高等学校学習指導要領 数学編」(2009年11月)http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2012/06/06/1282000_5.pdf

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