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Vol.058 浜通りの街から (3)いわきの北;好間、小川、赤井

医療ガバナンス学会 (2018年3月16日 06:00)


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福島県浜通り(竹林貞吉記念クリニック)
永井雅巳

2018年3月16日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

ヒトはうまくできており、齢年を重ねると、嫌なことを聞かなくてすむように耳が遠くなり、嫌なものを見なくてすむように目も霞むようになる。やがて嫌なことは、直ぐ忘れられるように海馬が開き、つまらない新しい記憶は海馬から零れ落ちてしまうが、一方、大切なモノは、その奥にとってあるので、ここはいつまで経っても忘れない。

Sさんは、ご夫婦と息子さんで建てたいわきの北、好間のモダンな家屋に住む。ご主人と過ごした時間の記憶の大半は海馬の奥に残ってあるが、ご主人がすでに亡くなったことは海馬から零れ落ちてしまったようだ。私が伺う度に“お父さん、何処行っていたのよ”と怒る。私をお父さんと間違えているようだ。最初、お父さんは同居している息子さんの事かと思ったが、どうも違う。息子さん夫婦にはお子さんがない。お子さんがない息子さんをお父さんと呼ぶ事はまずない。間違いない、“お父さん”は彼女の亡くなったご主人のことだ。

海馬が開き始める前は、Sさんは足腰も丈夫だったので、夕刻になると、帰ってこないお父さん(ご主人)を捜したらしい。ご主人が死んでしまったことは忘れ、一緒に居たことは覚えている。彼女のこの行為は徘徊と呼ばれる。随分、隣近所に迷惑をかけたと、息子さんはこぼしていた。やがて、彼女は急性の身体疾患により、救急病院に搬送される。
そこでは、その治療のために、持続点滴が施され、尿道カテーテルも留置された。それでも、お父さんが帰ってこないので、病院でも暴れたようで、結果、身体抑制がされた。身体抑制とは手足を縛ることだ。1ヶ月後には治療が奏功して、退院できるようになったが、もう足腰が衰え、お父さんを捜し歩くことは出来なくなった。息子さんは彼女が徘徊しなくなったので、安心したようだ。退院してからは、日中、ひとりぼっちベッドの上で長い一日を過ごす。

いわきの北は、おおざっぱに言うと、北西に好間があり、そこを過ぎると、行く先は赤井地区と平窪を経由して小川地区に分かれる。赤井・小川には、いわき駅の高架を越えて行くのが近いが、さらにその奥にある三和町に行くには、最初から国道49号線を走った方がわかりやすい。好間には震災後、兵舎のような仮設住宅が建ち並ぶが、赤井には今もなお青いトタン屋根の炭鉱宿舎が点在するのを見ることが出来る。一方、小川には新しく建てられたコッテージ風の住居が多く在る。

この地域には、田村市・双葉郡川内村との境に位置する標高1,192m、阿武隈高地の最高峰である大滝根山にその水源を持つ夏井川が流れる。その上流部は、比較的なだらかな地形で、南方系植物の北限、北方系植物の南限が混在し、スギなどの常緑系針葉樹を背景に、コナラ、カスミザクラ、ブナ、アカマツなどの群生を楽しむ事ができる。その沿岸の水田ではカワセミがピーピーと甲高く鳴くのを聞くことが出来る。中流部に至ると、急峻な山並みに囲まれた夏井川渓谷。
背戸峨廊があり、籠場の滝では滑空するカワガラスを見ることができるかも知れない。そして、小川付近になると、川はシイノキやカリン林の中を再び寛いだように、ゆったりと流れる。秋になると、この辺りは水が枯れ、川床にはススキとセイタカキリンソウの葦が、その高さを競うように風にそよぐ。渡りの時期になるとコハクチョウの群れが露草色の空を舞い、振り返ると、水石山の中腹には、そこだけポツンと白い小玉ダムが要塞のようにも鬼の顔のようにも見える。その全景はまるで、ブリューゲルの“雪中の狩人”のようだ。

小川には、その呼吸を人工呼吸器に委ね、食べること飲むことを胃瘻に任せたHさんが、ご主人と二人移り住む。筋萎縮性側索硬化症(ALS)は眼輪筋と自律神経を残し、他全ての運動神経が侵される病気だ。意識・想いを司っているのは運動神経ではないので、残念ながら、意識は常にクリアだ。夫妻は、九州から石巻を経て、この小川の自然を楽しむため此処に終の棲家を建てた。今から12年前、震災の5年前だ。朴訥なご主人は、自ら震災を語ることはないが、ようやく落ち着き始めた震災の2年後にHさんは喋ることの不自由さに気づき、その1年後には自力で呼吸することが出来なくなった。今、彼女の最大の悩みは、夜眠れないことだ。ゆっくり眠りたいほど慌ただしい時を過ごし、そして、今は凍るほどの静謐な中で、再び、眠れない夜を過ごす。

ALSの病因に関する進歩は著しい。その発症に関与する多くの遺伝子が同定されているが、中でも、まれにALSを家族性に発症する家系にはSuperoxidase dismutase (SOD)に異常があることが知られている。SODはI. Fridovich と J.M.McCord が1969年に発見した酸化還元酵素の1種で、現在では、この遺伝子の変異が、種の寿命に影響を与えるとともに、骨粗鬆症や加齢黄斑症、アルツハイマー病の増悪など、様々な老化・老年病の発症に関与していると報告されている。
個人的には、この酵素にはホロ苦い想い出がある。今から、約40年前、私の学部時代、進級を決定する生化学の試験問題が、ただ1問、“SODについて知ることを記せ”だった。TCAサイクルでもなく、尿素サイクルでもなく、2年間にわたる講義の集大成が当時発見されたばかりの稀な酵素、“SODについて述べよ”だった。科学は面白いが、当時の講座主任、教授を呪ったものだ。いつの日か、やがては、SODを始め、この疾病の病因に関する幾多の知見がALS治療法の発見に繋がり、Hさんに穏やかな眠りをもたらしてくれることを願う。

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