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Vol.069 浜通りの街から(4)いわきの南、小名浜・勿来

医療ガバナンス学会 (2018年4月2日 06:00)


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福島県浜通り(竹林貞吉記念クリニック)
永井雅巳

2018年4月2日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

平から国道6号線を西に向かい、一旦、49号線に入って南に走り、再び6号線に合流すると、ショッピングモールのあるモダンな街、鹿島に至る。さらに福島臨海鉄道を越え、左折するともう小名浜の街だ。早朝には潮風の匂いが流れ、群青色に染まる港の辺りには、漁船の灯りが季節外れの蛍のように揺れる。津波の被害がほとんどなかった小名浜は復興も早い。埠頭にある水族館の隣には、さらに大きなショッピングモールが建築中だし、漁港に在る市場には観光客も多く見ることができる。また、都心に近いためか、工場も幾多あり、搬送のダンプが国道に繋がる様は、まるで、サンフランシスコのようだ。

小名浜から再び6号線に戻り、さらに南下すると、茨城との境界、勿来に着く。勿来は東京と仙台のちょうど中間地点に当たり、それぞれ177kmの距離になる。上京だけを目的とするなら、高速道路の利用が便利だ。好間にある常磐道いわきICから高速に乗り、湯の岳PC、いわき湯本ICを過ぎれば、次はもう勿来ICだ。

勿来の歴史は古い。勿来は「な来そ」、すなわち「来るなかれ」を意味し、7世紀後半の律令時代からその地理的重要性が高かった。恐れるのは北方の蝦夷と呼ばれる部族だ。ここは阿武隈台地でも急峻な所で、旧常陸国と旧陸奥国の境となった勿来関は断崖となり、今はそこを平潟トンネルが貫く。今から1200年前には、小野小町が「みるめかる あまのおうらいの あわじじに 勿来の関を わすれすえなくに」と詠み、鎌倉の頃には、源義家が「ふくかぜを 勿来の関とおもへとも みちもせにちる やまざくらかな」と詠んだ。さらにこの地では、250年前の戊辰戦争で磐城平藩と明治政府が激突し、第二次大戦当時は風船爆弾の放球実験が行われたそうだ。

Sさんは、76歳。70歳の時と75歳の時に脳梗塞を患い、いずれも急性期病院で加療を受け、この6月退院。小名浜に在る自宅に戻った。自宅には、奥さんと息子さん夫婦、お孫さんが二人居る。恵まれた家族の中、日当たりの良い一室のベッドで一日を過ごす。新しい家の庭には、金木犀が植えられ、11月には小さい黄色の花が咲き、なんとも言えない香りも楽しめるはずだ。Sさんの問題は、自力で座れなくなったことと、食事の際にしばしば、うまく飲み込めず、むせることだ。一生懸命食べようとするが、どうもうまくいかない。慢性疾患の患者さんが、うまく在宅で過ごせるポイントは、この2点に尽きる。

在宅でのキラーは、嚥下障害による誤嚥性肺炎、排尿障害による尿路感染、そして褥瘡からの栄養障害、敗血症だ。平均寿命と健康寿命の隙間を埋めるためには、ポストアキュートをどのように支えるか、在宅医療に関わる理学療法士、栄養士、WOCナースの充実が必要となる。そして、全ての医師達にもこの領域に関わる知識・技術が求められる。が、リハビリや栄養や嚥下、スキンケアに関して、医学部で教えられることはまずない。教える事ができるヒトもいない。周辺産業も同様だ。急性期医療には多くの資源をつぎ込む一方、在宅医療に必要な医療器具・クスリや診療材料はきわめてプアである。Sさんは、家に帰って3ヶ月後の夏、金木犀の香りを楽しむ前に誤嚥性肺炎でなくなった。

私事となるが、私の母は東京で生まれ、公務員で在った父と結婚後、官舎が使えるという理由で四国の香川に移った。2~3年で東京に帰るつもりであったようだが、その温暖な気候と居心地の良さに長く住むことになった。教育熱心な母親で、病気をすることもなく、70歳を過ぎてもしっかりしたヒトだったが、在るとき、玄関で乱れた靴を直そうとしたらしい、そこですべった。気丈にも、その夜は家で過ごしたが、翌日には、患部の腫れと痛みが強くなり、先輩の病院にお世話になることになった。

私の知る限り、彼女にとって初めての入院であった。翌々日には大腿骨頚部骨折の診断のもと、大学病院の医師が来て、手術してもらえることになり、それまでの除痛にと牽引処置もしてくれた。が、入院当日、夜勤看護師から「おかあさんが歩かれて困ります」と電話をいただいた。とりあえず、病院に伺うと大きな牽引装置を引きずり、家に帰ろうとする母がいた。不思議な事に慣れ親しんだ讃岐弁ではなく、東京弁を喋る母が居た。何とか、なだめすかして、入院3日目には手術を受けたが、帰りたい、帰りたいと繰り返すため、リハビリもほとんどないまま、手術7日後には家に連れて帰った。

連れて帰ったが、私の不注意により、玄関口でまた滑った。残り、自室までは1m。そのまま、病院に戻ることになった。2回目の手術も丁寧にしていただいたが、創部感染を起こし、入院期間は予想外に長期となった。初回の入院初日に切れた彼女の脳幹網様体抑制系は、その後、一度も繋がることなく、たまに会いに行っても流暢な標準語で、昭和20年代の東京の面白さを教えてくれるだけだった。

ようやく、車椅子移乗ができるようになった時、脳出血を併発した。気を遣った先輩は大学病院に搬送してくれ、血腫除去術を受けることになった。その後、1年、手厚い看護で、褥瘡一つ創ることなく、きれいな体のまま、母は逝った。火葬場で、頭蓋骨に開いたバーホールの穴を式場のヒトが説明に困ったことを覚えている。骨は高齢者医療の大切なテーマだ。

今、日本の医療は高齢者社会の到来に向けて大きな舵取りをしようとしている。今までの何とか生かすための医療から、死に向かう準備期間としての医療だ。為政者は、何もそのことを美辞麗句でごまかす必要はない。多くの人は、100年で死ぬのだし、その事を失敗する人はごくわずかで在ることを国民は知っている。知らないと思っているのは、医者とわずかの為政者だけかも知れない。

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