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Vol.100 新米男性看護教員の挑戦 -教える手ごたえを求めて-

医療ガバナンス学会 (2018年5月15日 06:00)


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看護教員
今村洋一朗

2018年5月15日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

●はじめに

私は2017年に看護教員になり、今年で2年目の教員生活が始まった。それまでの11年の臨床経験に比べた大きな違いは、関わる対象が患者さんから学生に代わったことである。看護専門学校の学生が、病院実習(成人看護学)を通して急性期にある対象(患者)を理解し、機能回復から社会復帰に向けての看護が実践できる基礎能力を持てるように私は関わっているが、学生に対する私自身の指導力不足もしばしば感じている。そこで、私のこれまでの経験に基づく学生指導に教育理論を合わせていきたいと考えて、今年から通信制大学院への進学を決めた。ここでは、私自身の看護師としての歩みと看護教員としての葛藤を振り返っていきたいと思う。

●看護師になるまで

高校3年生まで将来就きたい仕事もはっきりしなかった私に、両親は手に職をつけるようにとアドバイスをくれた。母が看護師であったことと、友人に誘われて参加した看護ボランティア活動がきっかけで看護師を目指すことにした。近くの病院で高校生を対象としたそのボランティア活動では、高校生同士で足浴などの看護技術を体験し、実際の患者さんと会話をした。その時に患者さんからかけられた感謝の言葉は私にとってかけがえのない思い出となり、看護師という目標が明確となった。

その後、地元を離れて短期大学に進学して3年間を過ごした。初めての一人暮らしの中での看護の勉強は想像以上に大変であった。特に、教員から「患者の立場に立って物事を考える」ことを念押しされたが、それまで家族や友人など不自由なく生活している人たちと関わってきただけで臨床現場を知らない学生の私にとって、それをイメージすることがとても難しかったと記憶している。
そして、必死に疾患の勉強をしたが、その勉強が看護にどのように結びついてくるのかを理解することも私にとっては難しかった。また当時は、中学生の家庭教師のアルバイトもしており、生徒の成績が上がってきた時や、生徒が高校に合格した時は、まるで私自身のことのように嬉しく、自分なりの指導方法の手ごたえを感じることができた。いつしか生活費を稼ぐことよりも、人に勉強を教えることの楽しさが上回っていたことにも気づいた。勉強とアルバイトであっという間に学生時代は過ぎていったが、同じ目標に向かっている同級生との出会いや、3年間の寮生活はとても有意義であった。

●看護師になってから:学生時代との大きなギャップと自分の課題への気づき

大学病院で働くことへの憧れを持っていた私は、就職を機に上京した。就職した大学病院では集中治療室に配属された。手術後や病状の重い患者さんが看護対象となるその集中治療室では戸惑いの連続であった。学生時代に接してきた患者さんはみな会話ができる方だったのに、そこでは持続的に鎮静(麻酔)させて人工呼吸器を必要とする患者さんが多く、言語的コミュニケーションによる関わりが難しかった。そして、多くの患者さんが3日以内に集中治療室から他病棟に移ってしまうため、看護師としての十分な関わりができないまま見送ることが多かった。
その集中治療室で強く求められたことは「患者さんのアセスメント」であった。その患者さんの治療における問題点とその優先度を判断し、必要な看護介入を決めていく「アセスメント」は、病状が時々刻々変化していく患者さんの多い集中治療室の看護師のメインワークといっていいものであった。そこで思い出したのは学生時代の実習であった。技術を主体とした看護実践が重視されており、すでにアセスメントが終わり必要な看護介入のための技術をきちんと行うことが実習の中心であった。それまで自分でアセスメントをする大切さをわかっていなかった私には、集中治療室でのアセスメントの連続は、次第に私自身の無力感につながっていった。何とかアセスメント力を上げようと勉強をしながら取り組んでいったが、仕事を通してのやりがいや楽しさをそこで感じることはできず、自分での勉強の限界を知った。
その後、大学病院から中規模病院に異動した私は、教育委員として新人看護師や中途採用者への指導、スタッフ看護師への現任教育などに携わった。そこでは、個人個人の看護師への指導だけでなく、病棟スタッフ全員の協力を得て研修を行うこと、指導者として成人教育について学習することなどが求められ、時に上司やスタッフから不備を指摘されながら私は奔走した。教育することの楽しさやスタッフの成長を感じることよりも、その役割の大変さや私自身の能力の低さを感じることが多かった。
その矢先に、仕事をしながら看護の勉強ができる通信制大学の存在を知った。臨床現場での教育に必要な知識などを学び自分自身のスキルアップをしたいと考えて、通信制大学への進学を決めた。科目履修生として、看護教育論、臨床心理学、高齢者看護論、精神保健看護学、健康教育論など看護教育に生かせる基礎知識について深く学ぶことができた。

●BLSインストラクターとしての教育活動

当時の勤務病院での循環器内科の新設をきっかけに、院内全職員を対象に基本的な心肺蘇生技術(Basic Life Support; BLS)とAED(自動体外式除細動器)使用法のトレーニングが必要となり、心肺蘇生技術普及チーム(以下、BLSチーム)が立ち上がった。私は、そのBLSチームの企画段階から関わり、チーム長として院内教育プログラムの作成と運営、宣伝活動、人材育成などを行った。また、国際組織公認の一次救命処置指導員(BLSインストラクター)として、院外活動の一環で医療従事者を対象に心肺蘇生法の指導をしたり、消防庁により定められた応急手当普及員として、地域住民を対象に普通救命講習を行ったりしてきた。
このように、他職種へのBLSの普及に看護師の立場で関わる中で、教育を行う楽しさを感じることができた。それまでは何となく教育に興味を持っていたが、BLSに関連する活動を通して教育活動そのものへの興味が強くなった。さらに、臨床現場で私自身が関われる患者さんは限られる一方で、これから看護の基礎知識を覚えていく学生を育てていく立場になれば、もっと多くの患者さんに良い看護を提供することにつながると考え、看護教員を目指すことを決めた。

●看護教員としてのスタート

教員生活がスタートした時は、全てが新鮮に感じられた。それまでは患者さんに向かって仕事をしてきたが、実際に看護実践を行うことがなくなり、学生に教えることが中心になると、職場の異動ではなく「転職」をしたという感覚を強く持った。前職場の病院では教育委員として成人教育について学び、同じ立場の看護師に教えてきたが、これから看護師を目指す学生に教えてみると、そういった経験だけでは通用しないことがわかった。とにかく教えなければならないという私の焦りから、学生からの質問に答えるだけで精一杯になり、その質問の意図をくみ取るまで及ばないことが何度もあった。そして、私が学校で教わってきた方法や考えで行っている学生指導が、今の学生に合っているのか不安に思うことも何度もあった。

●教育学を学ぶための通信制大学院への進学

看護師は、対象者の病いによる苦痛や苦悩に寄り添い、時には人生の終末に居合わせ、その対象者と家族と共に思いを共感することがその大切な役割と言われている。こうした役割を担うためには、人間の身体と心、社会、健康について様々な知識や技術、そして深い人間性が求められる。その基礎づくりを担う教員の役割は大きく、単に知識や技術を教えるのではなく、人間同士の関係構築を通して人間が生きる意味を学生が考えていくように関わっていく必要がある。教員として学生指導をしてきて感じた不安は、教育学を体系的に学ぶことで解消したいと考えた私は、通信制大学院に進学することを決めた。入学前から大学院の教員と修論研究のテーマについて相談を重ねており、私自身が研究したいことが何なのかを深く考える機会になっている。

●これからに向けて

仕事、家庭、大学院の3つをこなしていくことはとても大変であるが、教員としての手ごたえをつかみ、学生によりよい指導をしていくために必要だと自分で決めたことでもある。しっかり目標を持ちながら勉学に取り組んでいきたいと考えている。教育学の知識を深め、教育現場でタイムリーに生かせるような研究を進めて、教員としてのスキルアップを図っていきたいと思う。

略歴
長野県生まれ。看護短期大学を卒業後、11年間急性期病院で勤務。その間に通信制大学で看護学関連科目を履修。現在は看護専門学校専任教員として成人看護学を担当。また、BLSインストラクターとして医療従事者を中心に心肺蘇生術を指導。

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