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Vol.174 「相馬野馬追」から見える「福島第1原発事故」からの復興

医療ガバナンス学会 (2019年10月10日 06:00)


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この原稿は新潮社Foresight(8月7日)からの転載です。

https://www.fsight.jp/articles/-/45712

特定非営利活動法人「医療ガバナンス研究所」理事長
上昌広

2019年10月10日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

http://expres.umin.jp/mric/mric_2019_174.pdf

7月28日、福島県相馬地方で開催された相馬野馬追の本祭を見学した。東日本大震災以降、毎年見学しており、今回で9回目だ。騎馬武者約400騎が騎馬行列、甲冑競馬、神旗争奪戦を繰り広げた。
相馬野馬追の歴史は古い。始まりは鎌倉幕府開府前の軍事訓練で、現在の公的行事としての形が整ったのは江戸時代前期という。なぜ、いまだに相馬の人々は騎馬武者行列を続けるのだろうか。
本当のところは分からない。ただ、この神事が相馬人の苦難の歴史を象徴しており、現在進行形の試練を乗り切る上で、余所者には分からない重大な役割を果たしているのは間違いなさそうだ。
その試練とは、2011年3月に起こった東日本大震災・東京電力福島第1原子力発電所事故だ。この事故で汚染されたのは原発の北側に位置する旧標葉郡と相馬地方だ。標葉郡とは、現在の大熊町・浪江町・双葉町・葛尾村、相馬地方とは相馬市・南相馬市・飯舘村・新地町を含む地域である。
この地域は、かつて相馬氏という大名が統治していた。居城が置かれた中村(現相馬市)の地名にちなみ、相馬中村藩6万石と言われた。鎌倉時代から幕末まで約700年間、この地を治めた。
福島第1原発事故は、旧相馬藩領を襲った大災害だ。相馬はどうやって復興しようとしているか、この地の歴史を知れば、見え方が変わってくる。本稿では、旧相馬藩から見た福島原発事故の復興を解説したい。

◆鎌倉時代以来の名門
この地を長く治めた相馬家は、源頼朝の功臣千葉常胤の次男に由来する名門である。南北朝時代、北条一族の長崎氏との抗争に敗れ、奥州相馬に入り、小高城(現南相馬市)を築いた。南北朝時代には南朝が優勢な奥州において、数少ない北朝の一族として活躍した。室町時代後期には、現在の双葉郡の一部を領有した標葉氏を滅ぼし、領土を広げた。
相馬家は武勇に秀でた当主が多く、伊達氏・佐竹氏に挟まれながら独立を維持した。特に伊達氏とは通算30回以上も戦ったが、その軍門に降ることはなかった。
関ヶ原の合戦では、常陸の佐竹氏とともに中立を守った。当時、相馬家は佐竹家の与力だった。しかしながら戦後、石田三成と親密だった佐竹氏との関係から、西軍に加担したと見なされ、改易された。訴訟を起こし、徳川家康の謀臣本多正信の取りなしもあり、本領を安堵されている。
大国に挟まれた小国ゆえか、相馬家はバランス感覚が優れている。江戸時代には徳川譜代の名門土屋氏から養子を貰い、幕府との関係強化に努めた。第19代相馬忠胤(1637~73)の頃の話である。
これ以降、相馬家は「譜代並み」の扱いを受けることとなり、第23代相馬尊胤(1697~1772)の代に、正式に譜代大名へと昇格した。

◆2度の大飢饉を克服して
その後も相馬藩は何度も危機を経験する。日本近世史上、最大の飢饉と言われる天明の飢饉(1782~87)では壊滅的なダメージを受けた。死者は1万6000人にのぼり、領内の人口は3万4000人にまで減った。赤子を葬る間引きも流行したという。
この状況に危機感を抱いた相馬藩は、他国の農家の次男・三男を移民させて農業の復興をはかろうとした。呼びかけに応じたのが、越中の浄土真宗の門徒たちである。
今でもこの地には、「番場」など北陸の姓が多く、また塩辛い味を好む人が多い。浜通りのラーメンを評したブログには「味が濃くて美味しいんですが、このチャーシューの塩分がスープにも出てしまって後半はスープを塩辛く感じてしまいます」などの記載がある。
意外かもしれないが、太平洋側に位置する浜通りは、あまり雪が降らない。冬場も漁に出るため、保存食の必要はない。塩辛い食事が好まれることについて、南相馬市出身の番場さち子氏は「江戸時代の移民が持ち込んだ名残」という。
食事は健康に影響する。塩分の過剰摂取は血圧を上げ、脳卒中を増やす。浜通りは東北地方でもっとも脳卒中の頻度が高い地域として知られている。脳外科医で南相馬市立総合病院の院長を務める及川友好氏は、「東日本大震災後に脳卒中が急増した」という。元から高血圧の人が多いところに、原発事故で避難生活を続けるストレスが加わったためだが、及川氏は仮設住宅を回り、健康相談に乗るとともに、減塩の必要性を説いて回った。
話を戻そう。その後、天保の飢饉(1833~36)でも打撃を受けた相馬藩は1845年、二宮尊徳が唱えた「報徳仕法」を導入した。中心的な役割を担ったのは、尊徳の弟子で相馬藩士だった富田高慶である。その中心的思想は質素倹約、協働、互助。これ以降、相馬藩の窮状は急速に改善し、1849年(嘉永2年)には報徳金1700両が家臣団救済のために貸し出されるまでになったという。
余談だが、明治となって二宮一族は逼迫した。相馬藩は尊徳の孫にあたる二宮尊親一族を相馬へ迎え、相馬の農地改革を委ねた。その後、尊親は1897年(明治30年)に北海道開拓移住団を組織し、現在の中川郡豊頃町に二宮農場を開いた。二宮尊徳の取り持つ縁で、相馬市と豊頃町は姉妹都市となっている。また、尊徳の出身地である小田原市は震災後、相馬市を継続的に支援し、相馬市震災孤児等支援金などに寄附している。東日本大震災以降、子どものPTSD(心的外傷後ストレス障害)対策などで、この地域を継続的に支援している星槎グループは、小田原にほど近い神奈川県の大磯に本部を置く。

◆幕末を何とか生き延びたが
では、幕末の相馬藩はどうだったのだろうか。会津藩を筆頭に、東北地方の雄藩は戊辰戦争で敗れ、その後の戦後処理で憂き目を見る。その影響は現在も残る。
相馬藩はそつがなかった。積極的に戦う姿勢を示すことはなく、上手くやり過ごした。仙台藩からの圧力もあり、奥羽越列藩同盟に参画したものの、新政府軍が浜通りを北上し、相馬領に近づくといち早く降伏した。戊辰戦争後、軍資金1万両を新政府に献上し、所領は安堵された。
この時も相馬家は独自のネットワークを使った。頼ったのは久保田藩(秋田藩)だ。戊辰戦争の際、久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱し、新政府軍に参加した。久保田藩は庄内藩、盛岡藩などと戦い、領内は大きな損害を蒙ったが、新政府軍にとって精強な庄内藩と盛岡藩を引きつけてくれた久保田藩の存在は大きかった。明治となり久保田藩は厚遇される。
実は、最後の久保田藩主佐竹義堯は相馬中村藩の出だ。相馬中村藩第11代藩主相馬益胤の三男である。相馬家は戊辰戦争の窮地を戦国時代以来の佐竹家の縁にすがって生き延びたという見方も可能だ。
1869年(明治2年)、相馬藩は中村藩となり、第13代藩主の誠胤が知事に任命された。1871年(明治4年)の廃藩置県で知事を免職となるが、相馬誠胤は子爵に任命され、貴族として生き残った。
明治になっても相馬家には苦難が襲いかかる。誠胤の病気だ。統合失調症に罹患しており、家族が宮内省に自宅軟禁を申し入れたのだ。宮内省も認め、後に癲狂院(現在の精神病院)に移された。
この件を旧相馬藩士の錦織剛清が問題視し、「家令志賀直道(志賀直哉の祖父)の家督相続・財産横領目当ての陰謀」と告発した。さらに、入院中の癲狂院に侵入し、一時的に主君の身柄を奪還した。1892年(明治25年)、相馬誠胤が死亡した際には、錦織は毒殺を主張し、再び相馬家関係者を告発した。最終的に毒殺は証明されず、錦織が相馬家から誣告罪で訴えられ、有罪が確定して事件は収束した。
この事件は、「相馬事件」と呼ばれ、我が国の精神病患者の保護・監禁手続きの法制化の確立に影響した。
相馬事件から100年以上が経過した現在は、相馬市には精神科クリニック、精神科病院が1施設存在するのみである。「相馬事件」が相馬の人々に暗い影を落としている。

◆相馬家は「精神的支柱」
相馬事件は兎も角、今でも相馬の人々は相馬氏を敬愛し、現在でも相馬家はこの地域の精神的支柱だ。彼らの存在が、この地域の復興に大きな役割を果たしている。
例えば、東日本大震災直後から相馬地方の支援に当たっている「難民を助ける会」の創設者は、相馬雪香(1912~2008)だ。現相馬家当主の相馬和胤氏の母上にあたる。
「難民を助ける会」の理事長である長有紀枝氏は、相馬市の復興顧問会議の委員であり、避難所・仮設住宅の運営に尽力した。「難民を助ける会」が、東日本大震災後の復興支援で、相馬を活動の拠点としたのは、相馬雪香の存在が大きい。
相馬家が果たしてきたのは、浜通り北部の当主という役割だけではない。我が国の議会主義・民主主義の擁護者でもある。
相馬雪香は、「憲政の神様」、「議会政治の父」と言われた尾崎行雄の三女だ。尾崎は第1回総選挙から25回連続当選。犬養毅とともに、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに、第3次桂太郎内閣打倒で中心的役割を果たした。昭和期には日独伊三国同盟に反対し、大政翼賛会を批判した。
現在、国会前庭には憲政記念館がある。1970年(昭和45年)、議会開設80年を記念して設立された。前身は1960年(昭和35年)に建設された尾崎記念会館だ。幕末には彦根藩の上屋敷があり、井伊直弼が居住した。戦前は参謀本部・陸軍省が存在した。日本の政治を象徴する土地だ。
憲政記念館では、学堂会という集まりが定期的に催されている。その名の由来は「一生を学校でいる気持ちで過ごしたい」という尾崎行雄の最初の雅号だ。この会を主宰するのが原不二子氏。尾崎行雄の孫で、相馬雪香の長女である。美しく、聡明な女性だ。日本を代表する英語通訳でもある。彼女の使命は、日本の民主主義をまもること。折に触れ、日本の世論の右傾化、全体主義を批判している。
現相馬家当主は原不二子氏の弟にあたる和胤氏だが、その奥方は麻生太郎副総理の妹だ。東日本大震災直後、麻生氏は相馬市に入った。当時、自民党は野党だったが、立谷秀清相馬市長は「震災復興で麻生さんには本当にお世話になった」という。
相馬地方は多くの試練を生き延び、多くのネットワークを構築し、1つのコミュニティーとして成熟していった。これが相馬の財産で、東日本大震災からの復興にも大きく役立った。
注目すべきは、その中心には相馬家がいたことだ。現在も状況は変わらない。今年の野馬追で総大将を務めたのは、次の当主である相馬行胤氏だ。相馬野馬追は、相馬家を中心に地域住民が一致団結することを確認する機会だ。わずか6万石の相馬藩は、こうやって伊達家との抗争、関ヶ原の戦い、天明の飢饉、戊辰戦争を生き延びた。
現在、相馬が抱える問題は福島原発事故後のコミュニティーの再生だ。少子高齢化が進むわが国で地方の衰退が叫ばれている。相馬も例外ではない。相馬の先人が行ってきたように、どのような外部勢力と結び、地域を守っていくか。じっくりとフォローしたい。

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