筆者の知人に92歳の老婦人がいる。彼女は、原爆投下の25日後に疎開先から長崎に帰った二次被爆者である。今年、彼女は初めてカメラの前でその時の体験を話した。75年前の被爆の実態はすでに多く知られているが、当事者にとっては無念に亡くなった親族や友人を伴ってきわめてアクチュアルなものであるようだ。「長崎の原爆を忘れないで」最後に彼女はそう言って話を終えた。数千度の熱に数十万人が焼かれ、浴びた毒は生き残った
人々を生涯蝕み続ける。それが過去の話ではなく、現在もそしてわれわれの子や孫たちにも襲いかかるかもしれない。これほど非人間的な理不尽をどうするか。

今年、世界は新型コロナという未知の強い感染症に襲われ、１年近く経ってもワクチンも治療法も確立せず、死者は増え続けている。しかし、疫病禍は決して見たことのない災いでもまったく想定できない事態でもない。それは古い既知の、ある意味では馴染んだ人間的な事象である。ところが、ほんの75年前の世界大戦中に数人の科学者の恐れから開発された核兵器という災いは、人類にまったく新しい恐怖と非人間的で絶望的な状況をもたらした。将来の歴史は、人間がかつてない悲惨な時代に入ったことを記すだろう。

現代が軍事大国の保有する膨大な核兵器による戦争抑止力という危うい均衡の上に成り立っていることは、今さら驚くに値しない常識であろう。このような核危機は常識すぎてその状況が悲惨で理不尽だという問題意識さえ持てず、わずかに被爆者や少数の人々が核廃絶の声を挙げているくらいである。新型コロナでは医療者や科学者といった問題解決の当事者が、無私の懸命な努力を傾けているのに対して、核危機では当事者である核保有国の政治家や権力者は、核廃絶どころか必要合理性を主張するありさまである。かれらはヒトラーが第二次世界大戦を引き起こした張本人と断罪するが、そのヒトラーの遺産ともいえる核兵器に対しては頭を垂れるのである。

なぜ核兵器はヒトラーの遺産なのか。第二次世界大戦でヒトラー率いるナチス・ドイツから亡命したアインシュタインたちユダヤ人科学者が、ドイツが先に原子爆弾という究極の兵器を手にすることを恐れ、米国政府の首脳に原爆製造を進言したことはよく知られた話である。本当にヒトラーが原爆を造ろうとしたか、事の真相はどうあれ核兵器の出現にはヒトラーの存在が背景にあった。それ故われわれが核危機を超克しない限り、核兵器はヒトラーの遺産のままなのである。

その後の世界は周知のごとく、ヒトラーが消えても権力者と科学者は理由を失った兵器を廃棄しようとはせず、東西冷戦の加速による核兵器開発競争から複数の国家間の核抑止力による一見均衡上の平和へと展開している。しかし、気候変動、プラスチック汚染等人類の生存と平和を脅かす危機の中でも瞬時で現在完了形の核危機は、世界を今どういう状況に導いているのであろうか。
「2020年６月現在、世界の９か国が約13,400発の核弾頭を保有している。」（長崎大学核兵器廃絶研究センター）「米ソ冷戦末期には７万発余あった核弾頭は、冷戦終結後の核軍縮で減ったものの他の核武装国家には毎年10発以上増えている国もある。」（核兵器のない世界へ向けて「ひろしまレポート2020小冊子」）「世界の保有数は劇的に減った。しかし、ＦＡＳ（アメリカ科学者連盟）は、保有国の広がりや核兵器の規模、破壊力は憂慮すべきレベルにあり、広島型原爆の100倍の破壊力を持つ核兵器は、それだけで“核の冬”を引き起こし、世界的な飢餓をもたらすと予測している。」（2018年９月BUSINESS INSIDER「About 14,525 nuclear weapons exist today in the arsenals of these 9 nations」）人類を何度も絶滅させるほどの数といわれる核兵器の脅威はそれだけではない。「40ｋｍ～400ｋｍ上空で核爆発が起こると強力な電磁パルスが発生し、それにより何千キロもの広域で電子機器や発電・送電設備などのインフラが崩壊し、何百万もの命が危険にさらされる。」（healthpress.jp/2017/08/post-3164.html）

すなわちわれわれの平和ひいては生存は、これら政体も民度も異なる複数の国家の正体の知れぬ権力者たちの恐怖の均衡というタイトロープの上にあるというのが世界の実情であり、その均衡が崩れないという希望や見通しはあっても保証はないのである。1960年代にはキューバ危機があった。その20年後には米国の先制攻撃を怖れたソ連首脳が、核のボタンを押すのをスパイが未然に防いだという事件もあった。知られていない危機はもっとあるだろう。核のボタンに手をかけている多くの権力者たちの理性をどこまで信頼できるか。いや危機を防ぐのは理性ではないかもしれない。暴走を抑えているのはかれらの恐怖からの生存本能かもしれない。それならばかれらの本能が健全であることを祈るのみである。

このように考えると、われわれの生殺与奪の権はかれら権力者に握られているといえる。地球上の生きとし生けるものは、かれらの一人一人に生命を委ねているということになる。この星は、無数にある宇宙の星の中で数十億年をかけて生命の誕生と発展を見た奇跡の星といわれている。俗人であるかれらはその悠久の歴史と営みを断ち切る神になったのか。われわれは核という鎖につながれた現代の牢獄の中で、その生と生存をかれらに希わなければならないのか。この埋もれた真相、すなわち核をもたらしたヒトラーの遺産といってもいい現代の状況ほど理不尽なものはない。いつの時代でも権力がもたらす状況は不合理だったが、このような特異な時代はかつてなかった。われわれはその日常に慣れて異常性に気づかなくなったが、思想も科学も法律も産業も進化したはずの現代のこの愚劣と理不尽こそは、知性も理性も持った人間の行き着いたところなのだ。

人間の知性と理性は、現代の民主国家と近代社会を創りあげた。人権はかつてのいかなる時代よりも尊重され、ほとんどの国民は主権を手に入れた。国際社会では中東や東アジアなどでの紛争は続いているが、世界は平和と繁栄を謳歌しているように見える。しかし、それは１万３千発の核兵器という恐怖の上に築かれたものである。それらの兵器を大量に持つ国家は、国際社会において覇権を握るために無言あるいは有言の圧力で優位にふるまい、それを見る他の国家は自分もその立場に立とうとする。核兵器という現実の力が、国際政治や安全保障のみならず貿易などの経済活動からオリンピックなどのスポーツにまで顕在的あるいは潜在的な影響力を及ぼすからである。現在猛威をふるう新型コロナのワクチン開発まで、軍事大国は協力するよりは主導権を握ろうとしている。進化する知的生物といわれる人間だが、現代社会の真実はいまだに弱肉強食の動物の世界のような恐怖の原理の支配にあるようだ。

こうして見ると、数千年の知性と理性の歴史を持つ人類だが、人間をめぐる状況はそれほど変わらないように思われる。道具は発達し、暮らしは便利に豊かになったが、裸形の精神としての人間はいつも同じ問題に迫られ、同じような困難に突き当たり、変わらぬ苦悩に襲われ、繰り返す悲劇に見舞われているように見える。何も解決していない。いったい人間とは何なのだろう。西暦が始まった二千年前と何が違うのだろう。われわれは今から二千年後に何を残せるだろう。その問いは、われわれに人間と世界に絶望せよと迫っているかのようだ。

しかしながら、すべての時代がそうであったように、現代のわれわれも不合理で理不尽な状況にもかかわらずそれに耐えていかなければならない。いや耐えるだけでなく、その状況の下で生き抜かなければならない。今われわれは、自分たちの作った核兵器という殺人道具よりもはるかに古くから人類を何度も襲った疫病禍に見舞われている。世界中が疫病を前に逃げ場はなく、社会的動物である人間は遮断され、孤立している。しかし、その中にあって、自らの命を危険にさらして他の命を救おうとしている人々がいる。新型コロナに立ち向かい、患者に寄り添って病と闘う医師や看護師などの医療従事者たちである。今でこそいろいろ性質が判ってきた新型コロナだが、当初は本当に何も判らず、疫病の現場に跳び込むことはどれだけ勇気が要ったことだろう。世間では医療者としての使命感というが、これほどの献身の根底にはもっと何かあるような気がする。病に弱り倒れそうな患者への博愛のような何かが。2003年ベトナムでＳＡＲＳの医療に赴き亡くなったウルバニ医師、エボラ出血熱の現場に家族を説得してまで駆けつける国境なき医師団の医療者―かれらに共通するのはそんな人間の中にある尊い過剰な何かである。そのような何かをわれわれはいま毎日目撃しているのである。

「人間に何かが足りないから悲劇は起こるのではない。何かがあり過ぎるから起こるのだ。否定や逃避を好むものは悲劇人たりえない。何もかも進んで引き受ける生活が悲劇なのである。不幸だとか災いだとか死だとか、およそ人生における疑わしいもの、嫌悪すべきものをことごとく無条件で肯定する精神を悲劇精神という」（小林秀雄「悲劇について」）何もかも進んで引き受ける過剰な何か。小林秀雄は悲劇精神といっているが、愛といってもいいだろう。それは二千年前から人間が受け継いできたものであり、これからの二千年にも受け継がれるものである。すなわち人間の本質をなすものである。人類が命をつないできた基盤である。

現代は、ヒトラーの遺産である核による人類滅亡の可能性という過酷な状況にある。それは、すでに述べたように、あらゆる人間社会にあまねく突き付けられた現代の十字架である。人間は、自分が必ず死ぬこと、究極的に孤独であることを知っているが、そういう存在の不合理には耐えられても、人類が将来の世代も含めて全滅するという理不尽には耐えられない。しかもその理不尽を武器に恐怖の原理は、国家を争わせ、人間社会を分断し、人々を憎悪へと駆り立てている。しかし、世界の現実がそういう恐怖の影に翻弄され、迷走している状況においても、人間の本質を失わず、人間と社会のために自らをなげうって生きる人々がいることをわれわれは新型コロナとの闘いの中に見てきた。かれらは人間が憎悪と分断の恐怖から融和と連帯の愛へと向かう道を示してくれた。現代の十字架である核危機を超克する道も同じであろう。

筆者も及ばずながら平和都市宣言をしている自治体の行う中高生の広島・長崎派遣学習事業に市民として微力を注いできた。かれらに現地で恐るべき事実に驚愕してもらい、何かを感じ、それを育み、核廃絶に生かしてもらいたいと思うからである。疫病を克服する闘いも核を超克する道のりも、一人の人間としての過剰な無私の人間愛とでもいうものから始まるのである。