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Vol.049 福島県南相馬市における東日本大震災後10年間:診療編

医療ガバナンス学会 (2021年3月10日 06:00)


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南相馬市立総合病院附属小高診療所・所長
小鷹昌明

2021年3月10日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

東日本大震災から10年が経ちました。
久しぶりの投稿となりましたが、この節目に時期に、被災地で9年間を過ごしてきた医師から一言発信させていただきます。

■被災地病院ではじめた在宅診療

震災当時、私は北関東の大学病院で准教授として勤務していました。不自由はありませんでしたが、残りの半生は、より必要とされる現場で自分を活かしたいと考え、震災から1年後、福島県南相馬市の被災地病院に飛び込みました。
南相馬市立総合病院は、福島第一原発から23 kmに位置する被災最前線の病院でした。当初は、まだまだ続く極端な医療者不足と医療資源不足との混乱のなか、被ばく医療を学びながら、それぞれが自分の役割をしっかり果たすことで、なんとか病院機能を維持していました。私もひとりの勤務医として、それをサポートさせていただきました。

“脳神経内科”としての自分の専門領域では、神経難病患者のマネジメントに苦慮しました。進行を余儀なくされるALS(筋萎縮性側索硬化症)では、施設に送るにしろ在宅に戻すにしろ、サービス体制が圧倒的に足りませんでした。介護や福祉の担い手であるお母さん世代の職員が、子供を連れて避難してしまったからです。
人工呼吸器を装着した本疾患の在宅支援では、関係者を総動員させる必要があり、私も慣れないなかで、見よう見まねの訪問診療を開始したのでした。結局、ただ励まし続けただけだったかもしれませんが、それでも在宅看取りというものに、はじめて向き合うことができました。大学病院にいるだけではけっして味わえない貴重な体験でした。

密接した仮設住宅で問題になるのは、“流行り病”です。ボランティアを募り、巡回しながらのインフルエンザワクチン接種は苦労もありましたが、その甲斐あってか、クラスターの発生は抑えられました。
■移り変わる医療ニーズ

日本中、いつどこで災害が発生してもおかしくない状況ですので、今後、被災地支援に赴く志のある医療者も増えるでしょう。その際は、経時的に変化する医療ニーズを見誤らないことが重要です。
災害直後は、いわゆる“有事”ということで、とにかく被災者の生命をつなぎ、被害を拡大させないことに集中すべきです――派遣に備えてDMAT研修を受講しておくことが有効かもしれません。
外傷や津波肺はもちろん血栓塞栓症、感染症、高血圧・糖尿病など持病の悪化といった疾病がメインとなります。ストレスのためか、急性冠症候群、心不全、脳卒中、消化性潰瘍が増えますので、場合によっては、スムーズな搬送体制を整えるために他病院との連携が、より強固に求められます。
私自身は、夜間救急において、大動脈解離の緊急対応を数回経験しました。

少し経つと、徐々にメンタルに問題を抱える患者が増えてきます。トラウマやPTSDにどう対処するかという課題が浮かび上がってきます。自殺や孤独死を防止することに重きを置き、精神科医や精神保健福祉士、あるいは社会福祉協議会といった職種の人たちと密に連絡を取り、戸別訪問や安否確認、アウトリーチ活動のための情報提供に協力することです。

長期化するに従い、被災者のみならず、支援者の体調不良が目立ちはじめます。それはすなわち、役所や消防、救急、教育などを担う公務員です。保証手続きの煩雑さや住民からの要求の処理に耐え兼ねる人が増えるからでしょう。“支援者支援”という言葉の示すとおり、支援者を支援する必要性を感じました。

最近問題になっていることとして、外出する目的や手段がなく、自宅のなかで動かずにいるために生ずる高齢者の生活不活発病(廃用症候群)や認知症が増えていると感じます。体操や運動を促すだけでは解決しません。高齢者が、日常生活のなかで役割をもって社会生活に参加できる支援までが重要です。

被災地医療を経験して私が教えられたことは、いまさら言うまでもないのですが、「診察室で患者を待っているだけでは何も解決しない。外に出て行くことをためらってはいけない」ということでした。周囲とのつながりの大切さを痛感し続けた10年間でした。
■“旧警戒区域”の診療所所長に就任して

2020年4月より、原発から16 kmの“旧警戒区域”に位置する診療所の所長として勤務することになりました。

南相馬市小高区に帰還してきた住民は、現在3,800人弱います(震災前は13,000人弱)。それなりの覚悟を持っている人の多い一方で、“終の棲家”としてやむにやまれぬ事情で故郷へ戻ってきた人もたくさんいます。2世代、3世代で暮らす家庭はそれほど問題にならないのですが、独居、あるいは高齢夫婦の場合はなかなか大変です。
久しぶりに戻った実家周囲には新しい施設が建設されたり、見知らぬ移住者が住んでいたりします。新旧入り混じる新たなコミュニティを構築できればいいのですが、故郷であっても周囲の環境に馴染めない人がいます。そういう人たちは、どんどん孤立してしまいます。居宅サービスを受けながら通院できる患者はまだいいのですが、ほとんど動けない状態にもかかわらず自活しようとがんばる人がいます。不自由を承知であえてこの地に戻ったのだから、周りに迷惑をかけられないという気持ちが働くのでしょう。
■旧警戒区域に暮らしている、ある親子

帰還されたある家庭は、父と長男の2人暮らしでした。心不全と膝関節症で寝たり起きたりの父に対し、長男は昼間の仕事(廃炉作業員)に就いています。したがって、日中は誰の目も入りません。包括支援センターの職員が気付いたときは、ほぼ寝たきりでした。
父親本人は病院に通う気はなく、息子も「それなら勝手にしろ」という状態で、らちが明かない。どうすることもできない状態で、われわれのできるせめてもの医療行為は在宅医療でした。私と看護師1人とによる週に1度の在宅医療が始まりました。
他人を受け入れたがらない本人をどうにか説得して、縁側で診療させてもらいました。循環器薬や抗不整脈薬が必要でしたが、服薬アドヒアランスが低く、本来なら飲みきっているはずの薬が訪問のたびにたまっていきました。看護師が“お薬カレンダー”を作成してくれましたが、役に立ちませんでした。
それでも根気よく通い続けることによって、少しずつ打ち解けてくれるようになり、とりあえず居間まであげてくれるようになりました。相変わらず労作時の息切れと下腿の浮腫と膝痛によって、座位の状態でしか身体を保つことができませんでした。昨年の年末、やっとやっとで用を足せていたトイレに、いよいよもって行かれなくなりました。

患者本人は、「入院する気はない」の一点張りで、「入院するかしないかは本人次第だが、でも俺はできることしかしない。経済的なこともあるから、仕事を休んでなどいられない」というのが息子の考えでした。
このままでは確実に近い将来死が訪れる。それは、われわれとしても自殺幇助(ほうじょ)のようで後味が悪い。仮に死亡した場合に、遺体を放置されて死体遺棄の罪に問われてしまっては目も当てられない。包括支援センター職員、訪問看護師、ケアマネジャー、社会福祉士を交えた説得によって、どうにかこうにか入院していただきました。病院内ではありますが、無事に新年を迎えることができました。強がっていた長男も、少しほっとした様子でした。

地域医療の縮図かもしれませんが、今後ますますこうした症例が増えていくでしょう。即効性のある解決策などありませんが、それでも使えるだけの医療資源を駆使して、なんとかやっていくしかありません。
震災から10年が経とうとしていますが、診療所としての奮闘は始まったばかりです。

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