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Vol.22084 岡山大学医学部に見る歴史と人の流れ

医療ガバナンス学会 (2022年4月20日 06:00)


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岡山大学医学部4年
加藤 真帆

2022年4月20日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

●「東京生まれ、東京育ち」

「東京生まれ、東京育ち」自己紹介で言うようになったのは、ここ2年、東京大学薬学部を卒業し、岡山大学医学部に学士編入して以来のことである。

「東京生まれ」と言っても本当の出生は埼玉だし、「東京育ち」と言っても東京の端の江戸川区で育ち、中高生活は千葉で過ごしている。でもきっと相手は興味ないだろうから、一口で「東京生まれ、東京育ち」と言うようになった。岡山に来て最初の気づきはこの自己紹介である。東京大学にいた時は「東京出身」と言うことはなかったし、当たり前のように自己紹介で「◯◯出身」と言い、そこで1トークできる”地方出身”の同級生をどこかでうらやましいと感じていた。

しかし岡山に引っ越してからは、初めましての人には必ずどこかのタイミングで「東京出身」と言うことになり、東京の話をすることになる。誰もが当たり前のように知っている場所に生まれ育ったことをこれほどまでに感謝したことはないし、東京に住んでいた時よりも”東京出身”というアイデンティティを強く意識するようになった。

自己紹介での気づきは、出身高校を言う時も同じだ。私の出身高校である渋谷幕張高校は私が東大に入学した2015年一学年343人に対し、現浪合わせて56人が東京大学に合格した。自己紹介で「渋幕出身」と言えば、誰かしら共通の知り合いの話になった。そもそも出身を聞かれた際は、場所も伝わるし、話にもなるので出身高校を答えていた。

それが岡山に来てからは、出身高校を言う機会はほぼなくなり”東京出身”で用が足りることになった。それは単に東京大学で首都圏の進学校による占有率が高いだけが理由でない。「岡山生まれ、岡山育ち」の学生は、岡山大学医学部で出身を聞かれたら出身高校を答え、共通の知り合いトークによるひと盛り上がりを見せるのである。そんなのどっちも「近いから」で済むように思うかもしれないし、一言で言えばそうなのかもしれない。ただそこにもう一段階「なぜなのか」という視点を入れると、深い人の流れが見えてくる。

●都道府県別岡山大学医学部の合格者

まず都道府県別(出身高校)の岡山大学医学部合格者を整理してみる。

http://expres.umin.jp/mric/mric_22084-1.pdf

近隣の進学校の占有率が高いのは決して東京大学だけではない。図を見ると岡山大学医学部の合格者は、西日本どころか、ほとんど瀬戸内の県で構成されていることが明らかであると思う。世間的イメージとして意外であろうと思うのは、広島出身よりも兵庫出身の人が多いことである。岡山県は広島県の隣というイメージが強いと思うが、岡山大学ある岡山市は、世間でいう”広島県”より圧倒的に地理的に兵庫県に近い。今の広島県の県境が確定するのは、廃藩置県で福山藩や備後の一部を編入した1871年であり、歴史は浅い。浅野家に広島藩として治められた港町として栄え、世間の広島のイメージが近い広島市は岡山大学から約160kmに対し、兵庫県は、神戸市は岡山大学から140km、明石市、姫路市といった大都市は、約120km、80kmとさらに近くなる。

●姫路高等学校の伝統を引き継ぐ白陵高等学校

岡山大学医学部合格者の出身高校を見るのに、避けては通れないのが白陵高等学校の存在だ。岡山白陵高等学校の姉妹校であり、2021年度岡山大学医学部合格者の出身高校はこの2校がトップを占める。白陵高等学校は、1963年に設立された私立の中高一貫校であり、現在兵庫県高砂市に存在し、創立者である三木省吾の出身校である旧姫路高等学校の伝統が多く残る。旧姫路高校は、1918年交付の高等学校令により増設された官立高等学校の一つであり、1949年に神戸大学の発足に伴い包括され廃校となっている。白陵高等学校では、志望大学に関わらず共通試験が必修であり、大学受験にとどまらない幅広い教養を広げる姿勢を大切にしている。何より特徴的な教育としては、柔道の必修授業である。

白陵高等学校創設の13年後、姉妹校の岡山白陵高等学校が設立される。創設者の三木は沿線で最も乗降客の少ない駅を選んだといい、今でもそれが納得できてしまうような岡山県赤磐市の緑に囲まれ落ち着きのある場所に存在する。

しかし白陵高等学校の岡山とのつながりは単に姉妹校にとどまらない。ここで姫路・播磨地区の歴史について触れていきたい。

●池田家で繋がる姫路と岡山のつながり

姫路は、関ヶ原の戦い以降に池田輝政に播磨国としておさめられ、岡山と共に池田家に治められていた歴史があり、岡山との結びつきが深い。岡山を治めていた池田光政は、池田輝政の孫にあたり江戸前期の三名君の一人である。幕末はやくから長州藩に好意的な態度を示し、新政府軍についていた岡山藩に対し、姫路藩は鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍に出陣する。大津へ向かう途中で幕府軍敗戦の報を受け、撤退し、藩主不在な中、急いで新政府に恭順の意向を示すことになる。

そんな姫路の歴史を見守ってきたのは、白鷺城の名で知られる姫路城であろう。姫路城は元々江戸幕府が西国の大名を監視するために建てられた城である。池田家から始まり、十三家三十二人の藩主が入れ替わり、幕末の藩主である酒井忠績は大老を務め、重要な役割を果たしていた。

幕末新政府軍により、姫路藩の攻撃を命じられた際は、岡山藩は姫路藩に伝え、姫路城を明け渡すことを決めるが、長州藩強硬派を納得させるために形だけ姫路城の砲撃を行った。姫路城が攻撃を受けたのはその一回だけのため、姫路城は昔ながらの姿を留めているのである。白鷺に例えられている美しい天守閣を持ち、法隆寺と共に日本で初めて世界文化登録された。姫路城の攻撃を行った幕末の岡山藩主の池田茂政はもとは池田家の血筋ではないとは言え、池田家が財を築いた姫路城を攻撃するのには抵抗があったのかもしれない。そんな姫路城は、まさに池田家そして岡山と姫路のつながりを象徴するものと言えよう。

●播磨地区の合格実績

少し話がそれたが、実際に兵庫からの岡山大学医学部合格者の出身校を地区ごとに見てみよう。

http://expres.umin.jp/mric/mric_22084-2.pdf

播磨地区が15/18を占め、他の地区からの進学はほとんどいないことがわかる。白陵高校一つとっても播磨地区と岡山とのつながりは顕著である。白陵高校は岡山大学と神戸2021年どちらも17人の合格者を出している。白陵高校から岡山大学は、東海道山陽新幹線を使って1時間半といえど距離として約90kmに対し、旧姫路高等学校の後進校である神戸大学までは距離として約55kmなのにも関わらずである。

●岡山県内での偏り

次に岡山県内での岡山大学医学部進学者の分布を見てみる。

http://expres.umin.jp/mric/mric_22084-3.pdf

岡山県は(岡山市は1950年から/倉敷市は1962年から)1998年まで学力均等方式による総合選抜制度を取っていた岡山五校(岡山県立朝日高等学校、岡山県立岡山操山高等学校、岡山県立岡山大安寺高等学校、岡山県立岡山芳泉高等学校、岡山県立岡山一宮高等学校)、倉敷四校(岡山県立倉敷青陵高等学校、岡山県立倉敷天城高等学校、岡山県立倉敷南高等学校、岡山県立倉敷古城池高等学校)が存在し、有名私立校はびこる他の県と比べ、岡山県は依然として公立からの有名大学への進学者が多い背景がある。岡山五校は、すべて二次医療圏県南東部に存在し、先述の岡山白陵高等学校とも合わさり、二次医療県南東部からの岡山大学医学部の進学は2021年度で25/106(全国)を占める。一方、倉敷四校を含む県南西部からの岡山大学医学部への合格者は、他県である兵庫県播磨地区よりも少ない。このことに関して歴史的考察をしてみる。

●天領として栄えた倉敷市の文化

現在の倉敷市は江戸時代に天領が置かれ繁栄しており、外様大名の池田氏に治められていた岡山市とは今でも雰囲気が一気に変わる。明治維新後は、倉敷県となり、今の岡山県に組み込まれるのは、小田県として岡山県と合併する1875年、倉敷市として発足するのは、倉敷町が市制施行した1928年のことであり、今の倉敷市としての歴史は比較的に浅い。また編入合併を繰り返し市域を広げてきており、文化や歴史が多様な地域で構成されているのが特徴的である。

倉敷四校の一つである岡山県立倉敷天城高等学校は、1906年創立の伝統校であり、岡山県出身の政治家犬養毅が残したと言われる鉄軒精神を掲げている。大学進学実績にも力を入れており、2021年には東京大学15名、京都大学8名の合格者を出している(現浪込み)。しかしそんな倉敷天城高等学校からの岡山大学医学部進学者は、2021年2人(現浪込み)にとどまる。

●北前船が繋いだ土地のつながり

倉敷市には、江戸時代から明治時代にかけて日本海運で活躍した北前船の痕跡が多く残っている。特に、備中松山藩の飛び領地で藩主水谷公の干拓事業により水運による一大都市となった玉島、備前岡山藩の領地で、漁港として知られ多いときには24軒もの廻船問屋があったと言われる下津井がある。どちらも塩分の多い干拓地か広がっていったため、綿花の栽培が盛んで、綿の取引を行い、北海道からは綿花の肥料となるニシンの〆粕が運ばれていた。単純に物資だけでなく下津井節などの文化、お金、人の流れがあった。さらに港町として発展した下津井は四国に渡る主要ルートにもなる。また江戸時代にかけて、金比羅・由加の両参りが盛んになると、金比羅往来本街道の本土終点である下津井から多くの旅人か船で四国へ渡ったという歴史があり、この地域は今でも四国との結びつきが強い。

●岡山に根付く岡山五校と四国へ渡る倉敷四校

ここで先述の岡山五校の一つである岡山県立朝日高等学校と岡山県立倉敷天城高等学校の大学合格状況を比較してみる。朝日高等学校での岡山大学への合格者は64/231(現浪含む)人に対し、四国の大学の合格者は40/231 (24(香川)+4(徳島)+10(愛媛)+2(高知))である。四国すべての国立大学を合わせても、岡山大学の合格者の2/3ほどなのである。そもそも朝日高等学校は岡山藩校の流れを引き継ぐ伝統校であり、岡山の歴史とは切っても切れない縁がある。一方、倉敷天城高等学校から岡山大学への合格者は25/114人で、四国の大学の合格者は、29/114(14(香川)+8(徳島)+5(愛媛)+2(高知))人で、なんと四国の大学に渡る人が県内の岡山大学の合格者を上回るのである。

●大きな流れと船旅

もちろん一人一人の決断には、親や出身高校の影響、個人的な経験があるのだろう。しかしそれらの決断も、多くの先人たちが築いてきた歴史の流れ、それをさらに辿ればその歴史が築かれた地形的・外因的理由があり、大きな流れの中で形成されるものなのかもしれない。例えば瀬戸内海の発展に寄与した北前船が穏やかな内海をルートにし、都市をつないだようにである。

ひょんなことから縁のゆかりもない岡山に身を置くことになり、素敵な人たちとの出会い、学びがあり、確実に自分の人生に大きな影響をもたらしている。これから先、自分がどんな人と出会ってどんな人生を送っていくのか楽しみで仕方がない。何度も同じ例えで恐縮だが、北前船は、逆風でも進むことができる優れた帆走性能があったという。私も、流れの中でしっかりと人と関わり多くのものを受容していく一方で、どんなところにも舵をきれるように日々精進していきたい。

 

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