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Vol.22171 広島の学生の東京大学への失望 ;民主主義を破壊しようとする国家機関としての東大

医療ガバナンス学会 (2022年8月18日 15:00)


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広島大学医学部4年
吉村弘記

2022年8月18日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

ウクライナ戦争などで世界が混迷を極める中、我が国では8月15日の終戦記念日を迎え、平和に向けて様々な思いを馳せている。8月というのは我々広島にとっても原爆が投下された月であり毎年色々と考えさせられる月である。先の大戦のような失敗は二度と繰り返してはならない。広島大学ではその理念にもある通り、被曝地に建てられた「平和を希求」する大学として世界的に有名であるが、その一方で日本の教育界をリードする存在であることもご存じであろうか?
広島大学は明治35年に設立された広島高等師範学校をルーツの1つにもつ。この高等師範学校というのは日本の東側に1つ、西側に1つの計2つしか作られておらず、広島高等師範学校はその西側の1つであり、日本の明治期から現在にかけて日本の教育の先端走る大学なのである。しかし、今回私の先輩に当たる広島大学のある卒業生が教育者としてはあるまじき対応をとってしまっているのだ。彼は広島大学理学部を卒業し、広島大学大学院理学研究科を経て、現在東京大学大学院に所属している。彼及び東大が行った対応について簡単に記しておくと「彼の担当する東大教養学部の基礎生命科学実験科目において、ある学生が新型コロナウイルスに感染し、やむを得ず授業を欠席した。しかし、彼はその学生に補講の機会を与えなかった。その後学生が異議申立てを行ったところ大幅な成績下方修正を行い、それに関する理由説明を拒否し、その学生を留年させた」といったものであった。

今回の彼の対応について思うことを大きく分けると「コロナによる機会喪失に対する消極的な対応」、「学生による異議申し立て後の当該学生成績の下方修正」、「学生訴え後の大学の恫喝ともとれる対応」の3つがある。これらについて順を追って説明させて頂きたい。

まずは、コロナによる機会喪失に対する消極的な対応についてである。新型コロナウイルス感染症の拡大により行動自粛が求められ、我々学生も同様に、大学講内への立ち入り自粛、課外活動の自粛、アルバイトの自粛等様々な行動の自粛が求められた。18~22才前後の人格形成にとって重要な時期であるにもかかわらず、そういった機会が喪失させられている。加えて、コロナ感染とその後の隔離期間によって大事な試験が受けられなくなってしまうこともある。その結果学生時代の貴重な1年を失ってしまうことになってしまうのである。
こうした状況をなくすために、大学が代替措置を講じることが学生の自由、ひいては学問の自由につながるものである。しかし、今回の対応は、本来大学のあるべき姿の真逆を行っているように思える。私の所属する広島大学では、コロナ診断書さえあれば、その後適切な代替措置が実施されコロナウイルスによる不利益を被らないような構造となっていた。彼らのこうした対応は自ら、学問の自由を手放すと言っているようなものである。

続いて、学生による異議申し立て後の当該学生成績の下方修正についてである。東大は国立大学法人であり、成績書といえどこれはれっきとして公文書である。通常、決裁後の公文書は原則として変更することはできないものであり、変更する場合は合理的理由が存在し、かつ適切な手続きを踏まなければならないものだと教わった。そしてこれらが成立しない場合公文書の改竄に該当すると考えざるをえない。
今回の東大側の説明した内容としては、「他の学生と成績が入れ替わっていた」と主張するものであった。しかし、この内容は非常に不自然である。というのも、公文書の性質としてこうした確認は文書決裁前に行われており、そうした不備がないことを確認して決裁が行われていると考える方が自然だからである。従って、こうした彼らの不合理な説明は、学生から見ても成績の改ざんを強く疑わせるものであるように映ってしまう。こうした東大の学生への説明は、我々学生を育てるというものよりもむしろ学生を小馬鹿にして見下すものであるように思えてしまう。本来、指導すべき生徒を突き放してしまう態度は、我々の大学や、教授、その他講師の方々への信頼を根本から破壊してしまうものであり、当然学生はそうしたところで学びたいと思わなくなってしまうのである。そうした認識が東大側には欠如しているように思われる。

最後に、学生の訴え後の大学の恫喝ともとれる対応についてである。今回の彼らの学生に対する抗議文は非常に恐ろしいものである。学生の視点からこの抗議文を解釈すると「学生はしのごの言わず、大学の決定に従え。おかしいと思っても何も考えず、なかったことにしろ」と言っているように聞こえる。天下の東大が学生に対して「権威への服従」を強制しているのだ。本来、学生の思考力を養い、物事を論理的にとらえ、しっかりと自分の意見を持つことのできる人物を育て、権威への監視を行わなければならない大学が、これと真逆の対応を行っているのである。権威への服従の中を突き進んでいったのが第二次世界大戦の枢軸国であったことを彼らは忘れてしまったのであろうか。おかしいと思ったことに声をあげる学生を擁護せず、むしろたたき潰そうというのは、これからの民主主義を担う学生を育てる教育機関のやることなのだろうか。今回の対応は東大としてその責務に反するものではないのかという疑問を持ってしまう。

これまで、今回の東大の対応における問題点について論じてきたが、助教らが行っていることは、権威によって学生を抑え込むようなものである。この行為は、先の大戦を繰りかえさないために我が国において重要だと考えられてきた民主主義の考え方、すなわち誰でも声を上げられるという考え方を軽視したものではないだろうか?特に被爆地広島では、そうした声を上げる重要性を一際重視した教育をしてきたのではないだろうか?にも関わらず、今回このような対応をするというのはそうした教育が全くもって意味を成していないということを示すものである。広島の同胞としてこれほど恥ずかしいことはない。今回の一件は東大だけでなく、広島大学での教育に対しても疑念が生じかねない事件である。助教らにはそういったことも踏まえて誠実に対応して頂きたいと思う。

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