医療ガバナンス学会 (2010年10月8日 06:00)
http://www.yonago-city.jp/kankou/index.htm
http://www.sakaiminato.net/site2/page/guide/point/miru/mizuki/mizuki/
白血病などの血液疾患に対する啓発を目的としたがんフォーラムですが、医療者側のみでなく、患者を含む市民側も手を取り合って、難題が多い地域の医療をどう振興するかに主眼を置いた意欲的な試みでした。
聴衆として参加された米子医療センター看護師の濱田のぞみさんから寄稿を頂きましたので紹介致します。
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『骨髄移植で救える命』をテーマとして、米子医療センター血液腫瘍内科医長の但馬史人医師と骨髄提供者(ドナー)である高木由紀子さん、骨髄移植を経験し た患者の村穂千恵子さんを迎えてのがんフォーラムが行われました。聴講者には、医療センターに通う患者や一般市民の参加も多く、自分自身の疾患と治療につ いて、深く理解する機会となったと思います。日本の他の地域と同様に、山陰地方も高齢化によるがん患者の増加、医療を担う若年者人口の減少、医師不足に悩 んでおり、米子医療センターは約40万人の診療圏の血液疾患患者を支える最後の砦となっています。講演の第一演者として、但馬医師からは骨髄移植が必要な 代表疾患である『白血病治療の現状』をテーマに講演がありました。『せかちゅう』に代表されるように、白血病は悲劇の代名詞として考えられているが、そう ではないんだと言う切り出しで始まり、この病気の特徴や治療法を分かりやすく説明され、最後に、骨髄移植で代表される高度な医療は、様々な職種、立場の人 たちがチームを作って治療を行うことが重要であると締めくくられました。医師不足の地域で医療を成立し維持させるためには、ハコモノではなく如何に人に手 当てするかが重要な課題であることに改めて気付かされました。
次に、ドナーの経験のある高木さんから、その体験とドナーになったからこそ考えることのできた命についての思いが話されました。高木さんは、健康な体を持 つ自分自身が誰かの役に立てば、という気持ちを日常的に持ち、普段から献血活動を行っていました。ある日、骨髄提供者の登録が献血センターでできることを 知り、骨髄を必要とする人の存在を身近に感じ、血液の提供と同様にそれを必要とする方の為に自分自身ができることならば、と迷うことなくドナー登録しまし た。大学卒業後、米子市で社会人として働き始め6年が経過した頃に、ある1通の手紙が届きました。その手紙は白血球型の適合者として、骨髄提供をお願いし たいという通知でした。高木さん自身も、登録から6年が経過し、少しドナー登録のことを忘れかけていた頃でした。その6年という時間からは同時に、ドナー を必要とする患者さんたちが、いかに適合者を見つけることが困難なのかを考えさせられました。この日を境に高木さんの生活は変化し、社会人として働くビジ ネスウーマンの顔を持つ一方で「人を助けることとは」をより深く考えるようになり、骨髄移植を支援する会のボランティアを始めることとなりました。
ドナーの通知を受けてから実際の提供までの道のりは簡単には辿り着けなかったことから、周囲の人々に自分自身が支えられていることを、高木さんは強く感 じました。初めての登録から、提供者として依頼の通知があった日に、高木さんは「私はドナー適合者になったので、骨髄を提供するから」と、親族の同意のサ インが必要なためご両親に相談しました。すると、ご両親からは、思ってもみない反応が返ってきたそうです。「健康な体なのに、手術をうけて、危険な目にあ わせることへ同意ができるわけはない」と、猛反対を受けました。高木さんは、何故ドナーになることが必要なのか、骨髄バンクからの提供資料などを使って、 何度も何度もご両親に説明をしました。しかし、簡単に「いいよ」の返事をもらえませんでした。そして、説得を繰り返す日々が続いた後、「骨髄を待っている 人がいる。私の骨髄で助かる命があるんだよ」の一言をご両親に伝え、ようやく高木さんのまっすぐな気持ちが理解され、ご両親は同意書にサインをされまし た。ご自分の両親の理解が得られ、そして職場が骨髄提供のために、5泊6日の入院に対する理解をしてくれたことで、骨髄の提供を無事行うことができまし た。高木さんは、これらの紆余曲折を経て、多くの人の支援がなければ、ここまで辿り着けなかったことを改めて感じたといいます。自分の命のこと、そして命 ある自分が助ける別の命があることを、提供を通じてもっと深く考えるようになったといいます。
骨髄移植を受けても、患者が必ず助かるわけでなないことも、ボランティア活動を通じて知り、ボランティア活動を行うことで、知識を深めることができると いいます。高木さんは、ドナー経験者として、また、ボランティア活動を通じて深まった考えとともに、今後も移植を受ける人たち、また骨髄を提供する人たち の支援をしていきたいと力強く話してくださいました。
最後に、骨髄移植の経験がある村穂さんから、その体験と移植経験者として今考えること、についてお話しをいただきました。
村穂さんは、高校の教師として勤務されており、14年前の検診で白血球の異常増殖の指摘を受け、鳥取大学医学部附属病院で慢性骨髄性白血病と診断されまし た。診断後まもなく、当時は標準的であったインターフェロン治療を開始し、仕事に支障がない範囲での通院生活が始まりました。しかし、4年間のインター フェロンの治療を経て、治療抵抗性となり、平成13年から新規薬剤として認可されたグリベック治療を開始しました。しかし、グリベック治療においても、白 血球はなんとかコントロールできたものの、血小板をコントロールすることができませんでした。その時期に医師からは、慢性骨髄白血病が急性転化すれば、余 命数ヶ月と告知を受け、それと同時に骨髄移植を薦められました。村穂さんは、思い切って移植治療に望みをかけてみようと考え、血縁者に適合ドナーがみつか らなかったため、平成14年11月、50歳の時に骨髄バンクに登録をしました。そして、村穂さんは、幸いにもすぐにドナーがみつかり、51歳になった15 年の4月から1年の休職の許可を得て、治療がスタートしました。5月に入院生活がスタートして、新しくもらって移植した骨髄が住みやすくなる環境を作るた めの治療、すなわち放射線治療と大量の抗がん剤治療が開始されました。治療開始と共にトイレ・洗面・冷蔵庫・テレビが一歩で届く範囲に備え付けられ、抵抗 力の落ちた患者が感染しないようにきれいな空気が維持できる、ビニールで覆われた孤立感のある4畳半程度のクリーンルームに入りました。村穂さんは、孤独 ながらも、持ち前の適応力の強さで、住みよいと感じるように治療生活を送りました。治療が進むと共に、大好きな本を読む気力もなくなり、移植後の合併症で ある移植片対宿主病が出現し、足、手の皮は一皮むけ、ペットボトルのキャップも一人で開閉できない程になりました。口内炎ができ食べて元気をつけたくても 思い通りに喉を通らない食生活、当然髪の毛は全部抜けてしまい、説明は受けていたものの、様々な合併症を体験し驚きの毎日が続いたといいます。病院スタッ フには些細な日常生活のことでもサポートしてもらう日々が何日も続きました。そんな閉鎖的なクリーンルームにもなんとか慣れた頃に、村穂さんは、主治医か ら白血球が生着(移植によって新しい血液を作るための活動が安定したサイン)したので、大部屋に移りましょうといわれました。慣れたクリーンルームから出 ることに不安を感じながらも、大部屋に出て、自分でできることが広がってくると、やはり気力が回復し、読む気力も失ってしまっていた本もむさぼるように読 むことができるようになりました。そして、自宅療養に移り、新しい爪が生えてくるなど自分の体の変化を体験し、新しい人間に生まれ変わった感じを受けたと いいます。
村穂さんは、25歳の男性からの骨髄移植を受け14年が過ぎた今は、高校の現役教師として3年生を担任されています。男性の骨髄を受けたので、血液は男 性、でも体は女性なんだと、不思議な感覚をいだきながら、50歳を超えて移植し、回復後は現役でがんばっている証人として、移植でしか治る見込みのない人 がいる現実を知らせる努力をしていこうとされています。そして、教え子である学生たちに向けて、移植患者である体験者の生の声を伝えることを大切にし、周 りに支えられて存在する命の大切さを自らの経験をもとに伝えながら日々の教壇に立たれています。
村穂さんは、健康な人も、病を患っても「ありがとう」と「感謝」の気持ちを忘れず、日々の生活中でのその気持ちを持つことの大切さを私たちに伝えてくれました。
今後、米子医療センターでは新たに血液難病患者会(仮称)が設立されます。血液疾患は昔に比べれば治る病気になったものの、自分の住んでいる地元で診療が 受けられなければ大変な負担となります。病気を抱えての通院や家族のお見舞いなどを考えると、山陰から一番近い山陽や関西に出るのも一筋縄ではいきませ ん。山陰地区もご多分にもれず医療崩壊に直面する地域の一つですが、地域での医療体制を如何に今後も維持するのか、患者やその家族、さらには一般市民から 理解を得て、医療者も共に声を挙げて行かなければならないでしょう。