医療ガバナンス学会 (2010年10月7日 06:00)
患者が国を動かす
~HTLV-1対策特命チームの誕生、そして医療者がすべきこととは~
聖マリアンナ医科大学 難病治療研究センター
分子医科学研究部門 部門長 / 准教授
山野嘉久
2010年10月7日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
主に母乳を介して母子感染する、成人T細胞白血病(ATL)やHTLV-1関連脊髄症(HAM)の原因ウイルスであるヒトT細胞白血病ウイルス (HTLV-1)の感染予防対策の一環として、全妊婦に対する抗体検査が公費で実施されることが9月13日に発表された。この度官邸に設置された “HTLV-1対策特命チーム”の初会合で、菅直人首相が明言したのだ。9月8日に菅首相は患者会の代表らと面会、その席で特命チームの設置と来年度から の全国一律妊婦抗体検査の実施を約束したが、その計画が前倒しになった形だ。地道に陳情を続けてきた患者会のメンバーや関係者らは、この大きな前進に手を 取り合って喜んだ。患者が国を動かした瞬間であった。
●もはや「風土病」ではないATL、HAM
HTLV-1の感染者は全国で約108万人いると推定されている。1990年の疫学調査では全国で120万人、約半分の61万人が九州に偏在していた。そ のため、HTLV-1関連疾患は「風土病」とみなされ、その対策は各自治体に委ねられることとなり、九州などの一部の自治体で妊婦抗体検査や授乳指導が行 われてきた。しかし、約20年ぶりに実施された2008年の疫学調査では全国の感染者数はほとんど減少しておらず、九州では45万人に減少した一方で、関 東では13万人から19万人に増加、ATL患者数も年間700人から1000人以上に増えているというデータであった。このように感染者は全国に拡散して いる事が判明し、感染拡大を防ぐことはこれまでの対策では不十分であることが示された。筆者は2007年に関東初のHAM専門外来を開設したが、その患者 数は予想以上であり、中にはHAMと診断されるまでに数年の時間を要していたり、適切な検査や治療を受けていない例があるという実態も明らかになった。感 染対策のみならず、認知度の向上や診療体制の整備も必至である。
●新たな感染の抑止が現時点での最良の対策
HTLV-1感染者からの発病率は5%前後であるが、ATLは致死率が高い白血病であり、HAMは有効な治療法がなく、QOLが著しく低下し、身体的・社 会的に大きな苦痛が強いられる。国レベルのHTLV-1対策を求めて活動するHAM患者会「アトムの会」やNPO法人「HTLV-ウイルスをなくす会」 「はむるの会」にはATLやHAM患者からの相談のみならず、感染を告げられたキャリアからの悩みの電話やメールが次々と寄せられる。また、共に活動して きたATLの仲間達が次々と命を落としていくという現実もある。「治療法がないのなら、せめて次の世代には同じ苦しみを味あわせたくない。」全国で妊婦健 診での抗体検査と授乳指導が行われれば、母子感染率が低下し、次世代の感染者数は減少する。この思いがこれまでの活動を支えてきたのだ。キャリアの母親が 6カ月以上母乳を授乳した場合、約20%の乳児が感染するが、断乳もしくは3か月以内の授乳制限を行うと、児への感染は約3%まで減少することが証明され ている。有効な発症予防法・治療法がない現状では、感染抑止が最良の疾病対策である。
●キャリアへの支援体制の構築が急務
しかし、抗体検査実施にはまだ問題が残されている。HTLV-1感染者に対する支援体制が整っていない地域が多くあるため、現場に混乱をきたす可能性があることもそのひとつだ。
支援体制が整っている長崎県では、妊娠35週頃に抗体陽性の結果を告知、授乳制限の方法や効果を説明したのち、断乳、短期授乳、授乳制限しないという方法 を妊婦自身が決定するという方式をとっている。希望があればカウンセラーと面会も可能である。このような体制が構築されているのは、現時点で抗体検査を 行っている自治体の一部であり、方法も統一されていない。十分な支援体制の構築なしに抗体検査が実施されれば、新たに感染が判明した妊婦に対する授乳指導 や心のケアが十分になされず、悩みを抱えたまま出産を迎える妊婦が増えるという事態に陥る可能性がある。現在、厚労省では行政・医療者向けのHTLV-1 母子感染予防のための保健指導マニュアルを改訂中である。これには (1) HTLV-1関連疾患、(2) 抗体の検査法、(3) 感染予防のための授乳法の選択などとともに、相談体制などを盛り込む予定だ。まずは医療関係者・行政担当者らが正しい知識を身につけること、また感染者の 相談窓口設置や、相談員の教育・育成などのサポート体制を構築することが急務である。
現在ATL患者として闘病中の元宮城県知事・浅野史郎氏がこう話してくれた。「年老いた母親が、私に『ごめんね』と謝るんです。私が生まれた時代にはウイ ルスも発見されておらず、防ぎようがなかったんだから、と言っても、やっぱりすまないと思うのでしょう。今は原因も判明しており母乳指導に関する情報があ る。しかたがなかったでは済まされない。新しい命をウイルスから守るのは、今を生きる親世代の義務だと思うのです。」このような思いに応えるのが、我々医 療者の使命であろう。