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Vol. 324 科学・技術ガバナンスの原理原則を論ず

医療ガバナンス学会 (2010年10月15日 21:30)


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―萎縮医療から萎縮研究への負のスパイラルを止めよ―
構想日本 政策スタッフ
社会医療法人 河北医療財団 理事長政策室 室長
東京大学大学院総合文化研究科 広域科学専攻
田口 空一郎

2010年10月15日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


1.朝日新聞によるがん治療ワクチン報道

10月15日、朝日新聞が「東大医科研でワクチン被験者出血、他の試験病院に伝えず」という報道が流れた。何を伝えたいのか、私には真意が理解しかねる記事だった。
がん治療ワクチンの先端研究が行われ、その治験が行われる中で、出血という有害事象が生じたということをここまで大きく全国紙が取り上げることの意義は何なのか?
以下に朝日新聞の同記事を一部抜粋すると、

『東京大学医科学研究所(東京都港区)が開発したがんペプチドワクチンの臨床試験をめぐり、医科研付属病院で2008年、被験者に起きた消化管出血が「重 篤な有害事象」と院内で報告されたのに、医科研が同種のペプチドを提供する他の病院に知らせていなかったことがわかった。医科研病院は消化管出血の恐れの ある患者を被験者から外したが、他施設の被験者は知らされていなかった。

このペプチドは医薬品としては未承認で、医科研病院での臨床試験は主に安全性を確かめるためのものだった。こうした臨床試験では、被験者の安全や人権保護のため、予想されるリスクの十分な説明が必要だ。他施設の研究者は「患者に知らせるべき情報だ」と指摘している。
医科研ヒトゲノム解析センター長の中村祐輔教授(4月から国立がん研究センター研究所長を兼任)がペプチドを開発し、臨床試験は08年4月に医科研病院の治験審査委員会の承認を受け始まった。

~中略~

厚生労働省の「臨床研究に関する倫理指針」は「共同で臨床研究をする場合の他施設への重篤な有害事象の報告義務」を定めている。朝日新聞が今年5月下旬 から中村教授と臨床試験実施時の山下直秀医科研病院長に取材を申し込んだところ、清木元治医科研所長名の文書(6月30日付と9月14日付)で「当該臨床 試験は付属病院のみの単一施設で実施した臨床試験なので、指針で規定する『他の臨床研究機関と共同で臨床研究を実施する場合』には該当せず、他の臨床試験 機関への報告義務を負いません」と答えた。
しかし、医科研は他施設にペプチドを提供し、中村教授が他施設の臨床試験の研究協力者などを務め、他施設から有害事象の情報を集めていた。国の先端医療開発特区では医科研はペプチドワクチン臨床試験の全体統括を担う。』

http://www.asahi.com/science/update/1014/TKY201010140469.html

つまり東大医科研は、厚労省の倫理指針に基づき治験患者の消化管出血情報を他施設に報告すべきなのに報告しなかった、その責任者は中村祐輔教授である、ということをほのめかす内容となっている。
他方、東大医科研が同じく10月15日に開いた会見では、今回の有害事象が生じた治験は東大医科研付属病院が単独で実施した研究プロジェクトであり、東 大医科研ヒトゲノム解析センター中村祐輔研究室が実施するがん治療ワクチンの多施設共同研究プロジェクト(http://www.ims.u- tokyo.ac.jp/nakamura/main/cancer_peptide_vaccine.pdf)とはまったく別のプロジェクトであるこ と、したがって他施設に報告する義務は存在しなかったことが明らかとなった。

また、治験に使用したがん治療ワクチンは中村祐輔教授が開発したものでも特許権を保有するものでもない、などの諸事実が発表され、朝日新聞の記事に大きな事実誤認や論理の飛躍が見られたことが明らかとなった。
結局、朝日新聞の記者が何を意図してこの記事を書いたのか、今もって不明のままだ。しっかりした事実調査もせず、先端医療の危険性を煽り、中村祐輔教授への個人攻撃を意図していたと取られても仕方のないような内容となっていた。

2.科学・技術ガバナンスはアクセルとブレーキの使い方次第

そもそも科学・技術のイノベーションにリスクは不可避だ。この事実は有史以来の科学史・技術史を眺めても明らかだろう。特に現代の科学は、メガサイエン スともいわれる研究インフラの巨大化や、研究技術の高度化・集積化が著しくなっている。また新技術が生まれた結果に対する物理的・社会的リスクだけでな く、新技術が生まれるプロセスの実験・治験段階に発生する物理的・社会的リスクにまで、我々が認識できるリスクの範囲が拡大してきてしまっている。

我々はそうしたリスクを引き受けながら、それでも科学・技術のイノベーションを促進しつづけていくのか、という近代批判的な問いももちろん可能だろう。 今回の朝日新聞はそうした直観にどこか通じるものがある。しかし近代の科学・技術の科学・技術たるゆえんは、我々の直観や科学者個人の倫理観を超えて、独 自の「科学・技術システム」として自律的・自己増殖的に進化を重ねていくという点に見出される。これを科学者個人のモチベーションに置き換えれば、科学者 の「知的好奇心」とでも呼ぶべきものへと翻訳可能かもしれない。つまり、我々人類は、一度その一端を知ってしまった事実や世界―たとえばゲノムであり宇宙 の神秘でもあるだろう―への好奇心、探究心を止めることはできない。もちろんここには、産業資本主義に独自の利益最大化システムも絡み合っており、科学者 個人の心理的なモチベーションにすべてを還元することは不可能である。

それでは我々こうした自己増殖的な近代科学・技術システムに固有のイノベーション・プロセスとどう向き合うべきなのか?今回の朝日新聞記事に垣間見える ような、単なる直観的な違和感に基づく(いわば手続き論的な)ブレーキだけではこのシステムを上手くガバナンスできないことは明らかだろう。
当然、手続き的な正当性も必要ではあるが、科学・技術システム独自のイノベーションのプロセスをしっかり吟味し、どの方向にそれを導くか、そのアクセル の取り方、舵の取り方こそ最大の課題といえるだろう。具体的には、今回のがん治療ワクチンでいえば、単なる人体実験的な治験ということはありえず、あくま で患者の視点に寄り添った、患者のためのイノベーション促進のための舵取りであるべきことは論を俟たない。

今回の朝日新聞記事は、前者の人体実験的疑念に貫かれているように思われるが、中村祐輔教授が元々優秀な臨床医であり、末期の若年がん患者らとの対話の中 で先端がん治療研究の道を志したことは知る人ぞ知る事実である。中村教授による、患者の視点に寄り添った、患者のための医療技術イノベーションを心から期 待したい。

3.最後に:生老病死とがん研究の今後について

私も個人的に2年前に父をがんで失い、現在も母が再発がんと闘病している環境にある。おそらく今後数十年以内に、両親が向き合ったがんに対する治療技術 も相次ぐイノベーションによって様変わりしていることだろう。よく末期がん患者に対する死生観の必要性が説かれている。宗教的な規範の希薄なわが国におい ては確かにそうした側面もあるだろう。しかし科学・技術の背景にある自然に対する好奇心は、各人の中にある自然としての肉体(human nature)に対しても向けられるべきであると思う。
つまり自然の中の一部に過ぎない自らの肉体的な生老病死の現実とそのプロセスを理解し、それを受け入れること、その上で医療的な介入という選択肢もあり うるが、それは単なる技術に過ぎず、肉体(自然)の限界それ自体を変えることはできないということ、そうした各自の肉体も含めた自然理解の促進こそ、実は 科学・技術(特に自然科学のそれ)がはらむ問題と限界を理解することに繋がるといえるだろう。まっとう(decent)な科学・技術ガバナンスとは、そう したまっとうな自然理解に基づくガバナンスに他ならないのだ。

現在、政権交代後の医療改革の中で最大の山場の1つである国立がん研究センターを始めとするナショナルセンターのガバナンス改革が進む中、国立がん研究 センターの嘉山理事長の改革手腕には全国の医療者や研究者、永田町の医療政策立案者たちが熱い注目を寄せている。人事的な内部闘争が聞こえ漏れる中、患者 の視点に寄り添った、まっとうな世界最先端を行くがん研究拠点づくりを実現するためには、嘉山理事長の力強いリーダーシップと、同センター研究所所長でも ある中村祐輔教授の世界に誇る研究実績のチームワークが不可欠だろう。
日本人ノーベル賞受賞が話題をさらった今日この頃、がん研究も含む今後の科学・技術ガバナンスのあり方について皆さんにもぜひじっくりとご一考いただきたい。

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