医療ガバナンス学会 (2023年2月16日 06:00)
日本バプテスト病院
中峯寛和
2023年2月16日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
● 経緯
維新前後に奈良県で活躍した女性医師とは、榎本 住(すみ)氏(1816 ~ 1893)である。住氏は、奈良県御所(ごせ)市戸毛(とうげ)にある、榎本医院の二代目院長であり、同医院は現在も、住氏の玄孫にあたる榎本泰久名誉院長(六代目院長)とその長男榎本泰三七代目院長により、たゆむことなく地域医療を担っている。筆者は 2004 年に奈良医大 病理診断学講座に赴任したが、その際に上司から、当時は新進気鋭の若手病理医だった榎本泰典氏(七代目院長の実弟)を紹介され、併せて「彼の曾祖母のそのまた祖母(住氏)は、奈良県初の女医といわれている」と教えられた。
● 住医師の生い立ち
住氏は 1816 年に大和の国 葛上(かつじょう)郡戸毛村(現在の榎本医院の住所)に生まれ、父である榎本玄丈初代院長から医術を学んだ。そして住氏は、玄丈が没した 1839 年(住氏23歳の時)には二代目院長を継いでいる。玄丈も住氏も漢方医で、専門は本道(内科)とのことながら、榎本家の蔵書のなかには「解体新書」や華岡青洲の著書もあることから、二人とも西洋医学や外科学の研鑽も積んでいたことがうかがえる(2)。
住氏は若くして夫(玄瑞、医師)を亡くしたが、二人の子供を医師に育てあげながら医道に励み、やがて奈良県初の女医といわれるようになった。しかし、住氏が二代目院長を継いだ時には、日本初の女医とされる楠本イネ氏(1827 ~ 1903, シーボルトの娘、産婦人科医)はまだ 12 歳であったため、西洋医学・漢方医学を問わなければ、日本最初の女医は住氏ということになる(3)。
● 住医師の技量とひととなり
住氏について、葛村史(4)には「平生の行いは闊達敏悟で頭のすぐれた人」と記されている(図 1)(5, 6)。住氏の診察は丁寧で治療は的確であったことから、たちまち名医との評判がたち、近場ばかりでなく遠来の患者が絶えなかった(7)。また住氏は高い品位を備えており、著名な院長などを招いて対診する時も、その上座に座ったといわれる(8)。以下に住氏のおもなエピソードを紹介する。
http://expres.umin.jp/mric/mric_23028-1.pdf
榎本医院から少し東方にある吉野郡大滝村(現在の川上村)に、‘日本林業の父’と言われる土倉(どくら)庄三郎がいた。土倉は吉野郡で造林業を営むだけでなく、土倉式造林法をもとに全国各地に造林業を広めたことで、還暦を迎えた時には山縣有朋から「樹喜王」の祝号を贈られている(9)。住氏は自分より一世代若いこの人の主治医であった(10)。住氏が土倉を往診する際には、4 人が担ぐ専用の駕籠(図 2)に乗り、中間地点で迎えの担ぎ手と交代して、大滝村に行きついたとのことである(11)。
http://expres.umin.jp/mric/mric_23028-2.pdf
土倉はまた教育の重要性を強く唱え、同志社大学や日本女子大学の設立に際して、多額の開校資金を提供している(11)。2016 年に川上村で行われた、土倉の没後 100 年記念式典で、日本女子大学の佐藤和人第十三代学長は「庄三郎さんは日本発展のため、女性の活躍が重要であることを学生に説いていた」と述べている(9)。
筆者の推測ながら、土倉が住氏に自分の健康管理を任せたのには、住医師の技量に満福の信頼をおいていた(11)ことに加え、「女性の活躍が重要」という日ごろの考えを、実践したのではないかと思われる。
明治維新(住氏 48 歳)の先駆けは、1863 年に奈良で勃発した “天誅組の変” とされる(12)。これは、天誅組と呼ばれた尊王攘夷派志士の集団による、討幕を目指した最初の挙兵事件である。そのさなかに天誅組の中心人物のひとり吉村寅(虎)太郎が流れ弾に当たって負傷したが、その応急処置を施したのが住氏であった。ここで注目すべきは、住氏の居所(戸毛村)が幕府領であったことである。幕府側の人間である住氏が、敵と目される倒幕派のリーダーを治療したとなると、後で幕府から訴追を受ける可能性があった。しかし、後年榎本シカノ氏(住氏の孫娘、榎本医院四代目院長、1886 ~1971)によれば「祖母はなかなかのしっかり者で、女丈夫といわれていました。ですから天誅さんに呼ばれたときも、少しも怖がらずに堂々と出かけて行ったそうです」とのことである(13)。
このことから住氏が、敵・味方の区別なく治療するという、今では医師として当然の公正さを、既に備えた人であったことがわかる。因みに、榎本医院が西洋医学主導となったのは、奈良県初の公認女性医師である(2)シカノ院長の時代からである。シカノ氏は東京女子医学専門学校(東京女子医科大学の前身)第 6 期卒業生であり(図 3)(5, 14)、30 期後輩には、 夫の石坂公成とともに IgE を発見し、それに基づいて I 型アレルギーの機序を解明した石坂照子氏(1926 ~ 2019)がいる(1)。
http://expres.umin.jp/mric/mric_23028-3.pdf
住氏は晩年、自身が肺炎を患っていたにもかかわらず無理を押して往診に出向き、その後しばらくして他界した(享年 78 歳)。榎本医院の近くには「女醫榎本住紀念碑」が地元の有志により建立されている(7, 15)(図 4)。ふつうは没後に設けられる石碑が、本人が亡くなる 3 ヶ月前に建てられたことからも、住氏がいかに優れた医師であり、いかに地域医療に貢献していたかがわかる。さらに、これも筆者の推測であるが、この紀念碑建立は、地元住民が住氏の健康を願う気持ちの表れでもあったのかもしれない。
http://expres.umin.jp/mric/mric_23028-4.pdf
● おわりに
少なくとも医療界では、現代でもまだ女性に不利な状況がある(16, 17)が、第二次世界大戦以前は女性の地位は極端に低かった。そんな時代に住氏のような傑出した人物が、ある意味で筆者の身近にいたことは大きな驚きであり、改めて住氏に深く敬服するばかりである。
―― 参考資料 ――
(1)自著.きらめく二人の女性医師とその接点.左京医報(京都市左京医師会誌)2022/6 (674号): 38-36
(2)岩田 誠.榎本 住.In: ヒュゲイアの後裔.女性医師の系譜.中山書店,2020, pp 34-5
(3)木村専太郎.郷土の医傑たち.シーボルトの娘・楠本イネ
http://www.kimurasentaro.com/note_doc/no004.html
(4)葛村史.1957年11月
(5)榎本泰久.幕末を生きた 榎本住の足跡とその後.明治150年記念講演,奈良県御所市,-2018年12月8日
(6)奈良日日新聞 2016年9月11日
(7)松本明知.榎本 住.In: 横切った流れ星.先駆的医師たちの軌跡.メディサイエンス社.1990, pp 106-11
(8)藤森速水.女医 榎本 住女史.醫譚復刊1967, 第35号,2355-7
(9)土倉庄三郎.ウィキペディア
(10)朝日新聞.2007年2月16日
(11)吉條久友.医学的思想 奈良(II)三人の医師をめぐって.「醫譚」復刊第105号/通巻122号,1954, 149-53/8531-5
(12)天誅組の変.ウィキペディア
(13)南山燃ゆる時.天誅組日常
(14)吉岡彌生 (よしおかやよい) その2.掛川市ホームページ
https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/8015.html
(15)種村道雄.奈良百名脾.全国書誌番号(JPNO)20723917, 2004, pp 229-31
(16)東京医科大学 女子の合格抑制 一律減点,男子に加点も.毎日新聞 2018年8月2日
(17)2018年における医学部不正入試問題.ウィキペディア