医療ガバナンス学会 (2010年12月1日 06:00)
ヒポクラテスと「ヒポクラテス全集」:
「ヒポクラテスの誓い」の名訳が載っている小川鼎三著「医学の歴史」(中公新書、1964)から、ヒポクラテスおよびギリシャ医学について抜粋させていただく。
ヒポクラテスは、「紀元前460-450年にエーゲ海のコス島に生まれた。コス島にはアスクレピオスの大きな神殿があり、ギリシャ医学の中心地であっ た。父は医者で、若いころは父からコス派の医術を学び、その後、ギリシャ国内、エジプト北部まで巡歴して他の流儀も学び、豊かな経験を身につけ、遊歴する 医者Periodeutとして生涯を送った。アテネやコスには比較的長く住み、晩年にはテッサリアにゆき、紀元前およそ370年にラリッサにおいて没し た。」
「ヒポクラテスを最高峰とするギリシャ医学の姿が書き残されているのが『ヒポクラテス全集』Corpus Hippocraticumである。これは彼自身が書いたものではなく、その死後のBC三世紀ごろアレキサンドリアの学者たちが編んだものであ る。」((11ページより抜粋)
すなわち「ヒポクラテス全集」とはギリシャ医学の集大成であり、ギリシャ医学の代表として彼の名を冠しているのである。「ヒポクラテスの誓い」も同様で、当時の医療倫理の集大成(倫理綱領に当たるに)に、代表としての彼の名を冠したものである。
「医学の父」はまた「医聖」でもあった:
ヒポクラテスは後世、「医学の父」と呼ばれた。その理由は、今日の医学・医療につながる医術を、それまでの呪術から”最初に完全に”引き離したからである。ヒポクラテスは後世、「医聖」とも呼ばれた。その理由は、今日にも通じる「医師のあるべき姿」を示したからである。
「医師のあるべき姿」とは、「実際には無いが目指すべき姿」すなわち「神のような」医師ということである。「神のような」人は聖人である。当時、医術は 「医神」から教えられたものと信じられていた。そうすることで医術の正統性を主張していたのであろう。「医神」から教えられた医術を行う「神のような」医 師、そのようなヒポクラテスを「医の聖人」すなわち「医聖」と呼んだのである。
呪術から医術へ、根本的な違いは何か:
まず呪術である。「人間に起こる病気は、神の祟り、悪魔の仕業、霊の憑依など、いずれも宗教的な原因によって起こるものと考えられていた。それゆえ、病 気に対する対処法も、神の祟りを鎮める、悪魔や悪霊を追い出す(跋魔術;エクソシズムexorcism)、などの宗教的方法によっていた。つまり、呪術と 医術とは元来同根であり、医術は、そうした呪術から、のちになって分化したものである。」(小俣和一郎著「検証 人体実験 731部隊・ナチ医学」、第三文明社 2003、16ページ)
つぎに医術である。「ヒポクラテスの偉さ、もっと正確にいえば『ヒポクラテス全集』の偉さは、健康と病気を自然の現象として科学的に観察し、医術を魔法 からひき離していることである。(中略)われわれの体には健康に復そうとする自然の力Physisがあり、医者はそれを助けるのが任務である。」(小川鼎 三著、同上;12ページ)
呪術の対象は「神、悪魔、霊」であり、患者ではない。したがって呪術師は「有効性」において責められることはあっても、患者への「有害性」において責めら れることはなかった。医術の対象は「患者」となった。医術は呪術より「有効性」において勝っていたからこそ選ばれそれに取って代わったのだ。しかし、医師 は患者に対する「有害性」において責められることになった。「有害性」には「医術」自体に伴う「医療事故」と、医術を行う医師に伴う「医療過誤」(あるい は医療ミス)がある。
ハンムラビ法典に見られる医療裁判:
医師が患者への「有害性」の故に責められる状況は、歴史にどのように残っているだろうか。その例は「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ法典(紀元前18世紀)である。
「ここには医療費の規定や、医療過誤の罰則も記されている。『医者が治療に失敗したときにはその両手が切り落とされる』といった規定がある。額面どおり に受け取るとメソポタミアの医療裁判は、現在よりはるかに厳しいものであったようだ。」(茨木保著「まんが医学の歴史」、医学書院、2008)
「ハンムラビ法典の趣旨は犯罪に対して厳罰を加えることを主目的にしてはいない。古代バビロニアは多民族国家であり、当時の世界で最も進んだ文明国家 だった。多様な人種が混在する社会を維持するにあたって司法制度は必要不可欠のものであり、基本的に、『何が犯罪行為であるかを明らかにして、その行為に 対して刑罰を加える』のは現代の司法制度と同様で、刑罰の軽重を理由として一概に悪法と決めつけることはできない。」(「Wikipedia-ハンムラビ 法典」より)
このような司法制度ができる前には、私法(リンチ)が存在していたにちがいない。そこには「理不尽な」厳罰が存在したことは容易に想像される。ハンムラビ法典ができて「理不尽な」厳罰から「理解できる」厳罰へと人類の英知は進んだのである。
ヒポクラテスの取った道:
法律により「理不尽な」厳罰から「理解できる」厳罰に変化したが、やはり厳罰は厳罰であった。医術に伴う「有害性」故の責めをゼロにはできないが、しか し、できるだけ少なくすることは出来るはず。ヒポクラテスが考え出したのがそのために「なすべきこと」と「なすべきでないこと」である。そしてそれは自身 の属するコス学派という医師集団の「医師のあるべき姿」となったのであり、さらにそれは医師全体にも通じる「医療倫理」となったのである。
道徳性を高めることとは(ちなみに日本医師会の設立目的の第一は「医道の高揚」である)、道徳違反(倫理違反)をできるだけ少なくすることである。「法 は最低限の道徳」と言われる。「医道の高揚」は同時に法律違反も少なくするのである。その結果は「有害性」の減少であり「信用」の増加である。その究極で は「尊敬」されることにつながる。
医術が呪術から分かれる過程で、医術部分が大きくなるにつれて医術の「有害性」故の責めも大きくなったであろう。医術を呪術から”最初に完全に”切り離 したヒポクラテスは、”最初に最大の”責めを経験したことであろう。そこで、その責めを小さくするために彼が考えたのは「道徳性を高める」ことである。 「医学の父」はまた「医療倫理の父」とならざるを得なかったのである。「医神」から授かった医術を行う「医療倫理の父」が「医聖」と呼ばれたのである。
「ヒポクラテスの誓い」とインフォームド・コンセント:
「ヒポクラテスの誓い」が現在の倫理綱領(principles)に相当し、「ヒポクラテス全集」のなかの「医師の心得」その他で述べられている「医師 のあるべき姿」が現在の倫理指針(code)に相当する。「ヒポクラテスの誓い」は現在の医療倫理のなかで、どのように扱われているのだろうか。あるいは 完全に捨て去られたのだろうか。
戦後の人権運動の高まりとともに患者の人権意識も高まった。そして、患者はinformed consentの概念を患者の人権を守る法理とすることを勝ち取った。その時、パターナリズム(医療父権主義)の象徴のように言われたのが「ヒポクラテス の誓い」である。しかしながら、「誓い」や「全集」に述べられた「医師のあるべき姿」が完全に捨て去られたわけではない。パターナリズムに基づく「弱い患 者を医師が(上から)守る」という「古い医療倫理観」から、「自律した患者を医師が下から支援する」という「新しい医療倫理観」に変わっただけである。医 師の立ち位置が患者の上から患者の下に変わっただけである。すなわち「患者の人権」を医療倫理の第一とすることになっただけである。「医師のあるべき姿」 はもちろんその中に受け継がれているのだ。