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Vol.15 現場はなぜ、「合法的」にがんワクチンを使えないのか

医療ガバナンス学会 (2011年1月21日 06:00)


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東京大学医科学研究所附属病院 内科
湯地晃一郎
2011年1月21日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


朝日新聞社の「がんワクチン報道事件」が問題となっている。
私は記事に掲載された東京大学医科学研究所附属病院に勤務する血液内科医である。病院内のがんワクチンの臨床試験には一切関わりない立場であったが、報道の約1年前、がんワクチンに関わるエピソードがあった。
本稿ではこのエピソードを取り上げ、現場はなぜ「合法的に」がんワクチンを使えないのか考察してみたい。

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2009年x月、東京都内大学病院血液腫瘍内科の勤務医である私に、1通のメールが届いた。それは、同級生の友人からのものだった。

「母が、膵癌だと診断されました。相談に乗ってもらえますか?」

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メールを受け取った30分後に返信し電話番号を聞き、10年ぶりに友人に電話で話した。お母様の病状について伺ったが、膵癌が周辺臓器を圧迫し、他臓器 にも転移しており、進行癌の状態であった。第三者の医師として、また友人として、病状をかみくだいて説明した。突然の告知であり、友人は大変狼狽している 様子であった。

治療方針についての質問があった。化学療法・手術・放射線療法は困難であり、黄疸などに対症療法を行うのが良いだろう、と担当医に説明されたとのことであった。
進行した膵癌の場合、治療選択肢は限られる。また、治療を行った場合も、余命が劇的に延長することは少なく、せいぜい数ヶ月単位の生存期間延長が得られるにすぎない。現在の方針は妥当であり、如何によき時間を、お母様と過ごすかを第一に考えるべきではないかと伝えた。
また、免疫療法をやってみたいという希望が友人のご兄弟からあったため、日経メディカル Cancer Reviewの小崎丈太郎編集長の記事、膵臓癌に対するがんペプチドワクチン療法を実施している全国施設一覧リストを、友人に送付した。

日経メディカル記事

http://pancan.jp/content/view/232/1/

東大 中村祐輔研究室

http://www.ims.u-tokyo.ac.jp/nakamura/main/top.html

がんペプチド療法 治験施設一覧

http://www.ims.u-tokyo.ac.jp/nakamura/main/cancer_peptide_vaccine.pdf

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その翌日、「何らかの積極的治療を行いたい」「自己免疫療法、LAK、樹状細胞療法などの免疫療法を行うのはどうでしょうか」との質問メールが送られてきた。
癌の免疫療法は専門外であるため、同僚の外科医に問い合わせた。膵癌という癌腫に特異的な免疫療法はないため、上述の膵臓癌に対するがんペプチドワクチ ン療法が一番のお勧めである、という話を伺った。友人のお母様は関東に在住でないため、当院に入院することは困難である旨を伝えると、「医科研病院とは別 に、Captivation Networkという臨床共同研究施設の連合体が、膵臓癌患者に対するがんペプチドワクチンの臨床試験を多施設共同研究で行っている。電話して、聞いてみ るといいだろう」と同僚の助言を頂いた。
早速Captivation Networkの担当者に電話してみると、知人の医師であった。スムーズに、現在の臨床試験の実施状況について情報を得ることができた。友人のお母様の場 合、最寄りの病院としては、和歌山県立医科大学附属病院の臨床試験が候補ではないか、という助言を得た。しかし、臨床試験には適格基準・除外基準が存在 し、HLA-A2402(Human Leukocyte Antigen; HLA, ヒト白血球型抗原)という、抗原を有していることが必須の参加条件となるため、臨床試験参加にはHLA検査(42000円・自費)が必須である。
この情報を友人にメールで送った。残された時間は短い可能性があることも付け加えた。

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その後暫く間があき、2週間後に友人から再度メールが送られてきた。
結局、友人のお母様は和歌山県立医科大学附属病院の臨床試験に参加することはできなかった。通院治療を行っているという条件があったため、友人のお母様は参加できなかったのだ。HLA検査も行わなかったとのこと。
友人のご兄弟は和歌山県立医科大学附属病院に電話し、担当医師から大変丁寧な説明を受け、非常に感動したことから、現在入院している病院からの転院も検 討したとのこと。しかし、和歌山県立医科大学は(患者自宅から)非常に遠いこと、その間に病状が悪化したことから、転院は断念したこと、がメールに書かれ てあった。

その後も病状、治療方針についてのメールをやりとりしていたが、PTCD(経皮経肝胆管ドレナージ)、腸吻合術などの後、残念ながらお母様が亡くなられたとの連絡を受けた。心よりご冥福をお祈りした。
最初の相談メールを受けてから、3ヶ月半後のことであった。

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膵臓癌はもっとも予後不良な癌の一つである。
既存の標準療法が無効な場合、治療選択肢は極めて限られるが、がん患者さん・ご家族は、一縷の望みをかけ、治療を模索している。臨床試験はそれに対する答えの一つである。

なぜ、友人のお母様は臨床試験に参加できず、がんペプチドワクチンが使えなかったのか。

それは、適格基準・除外基準の問題であった。
上記の臨床試験では、通院患者が対象、という条件があった。入院中の重症の患者さんは、安全性を評価する臨床試験に参加することはできない。重症な患者 さんの病状が悪化した場合、それが元々有していた病気のせいなのか、投与した薬剤のせいなのか判断が難しくなるためだ。このため、重症な患者さんは日本に おいて、殆どの臨床試験に参加できないことになってしまう。

では、今回の臨床試験が、治験であったとするとどうであろうか。

臨床試験と治験の定義は

臨床試験: 人(患者や健康な人)を対象とした治療を兼ねた試験
治験: 「新薬開発」の為の「臨床試験」

である。

治験においては、より厳密な倫理性・信頼性基準(GCP)を遵守した臨床試験が必要になるため、治験に参加できる患者さんは、比較的元気な患者さんに限 られる。進行癌の患者さんが新薬を使用できる可能性は極めて低い。これは、新薬を投与して具合が悪くなった場合、新薬のせいなのか病状のせいなのか判断が 難しくなるため、治験のスポンサーである製薬企業が、投薬前から具合が悪い患者さんの治験参加に厳しい条件をつけているためである。これは安全性評価の観 点から、当然のことである。

我が国は深刻なドラッグ・ラグを抱える。これは欧米と大きく異なる。例えば、がんワクチンにしても、欧米では10以上の治験が進行中だ。しかしながら、我が国はオンコセラピー・サイエンス社が推進中のものだけである。

実は、日本の臨床試験を考える上で、ドラッグ・ラグは無視できない。欧州では一定の手続きを経れば、未承認薬が使えることになっている。 compassionate use (人道的配慮によって未認可薬を患者に無料配布する制度)という。我が国では、臨床試験が、この代替機能を果たしてきた。日本で使用できない未承認の薬 が、臨床試験に参加することで使用可能となっていたのだ。

臨床医は、医学を進めるための臨床試験というより、患者の治療選択肢を増やすことを念頭においてきた。進行がん患者は何らかの合併症をもつ。治験では、 このような患者は除外しようとするが、臨床試験では、出来るだけ登録できるように配慮することが多い。だからこそ、消化管出血などの合併症が臨床試験の実 施中に生じるのだ。
言葉を替えれば、日本の臨床試験は、既存の治療が無効となってしまった「がん難民」化した患者さんを、治療により救う制度として機能してきたともいえる。

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さて、ここで朝日新聞社の「がんワクチン報道事件」に立ち返ってみる。朝日新聞社は一連の報道で、「薬事法の規制を受けない臨床試験には被験者保護の観 点から改善すべき点がある」ことを伝えたかった、と主張しており、11月10日の朝日新聞朝刊記事で、東京本社科学医療エディター・大牟田透記者は、「新 薬・新治療法を渇望する患者・家族の気持ちは、痛いほど分かります。」としている。

しかしながら、「薬事法の規制」を受けることで、果たして安全性は向上するのであろうか。既に現行の臨床試験は、臨床医・研究団体・学会などのピアレ ビューを受けており、専門者の自律により機能していた。「薬事法の規制」により、煩雑な手続きが増えこそすれ、安全性の質は向上しない。
「薬事法の規制」による「臨床試験の国家統制」は、果たして真の「被験者保護」につながるのであろうか。12月14日のMRIC by 医療ガバナンス学会 No. 378の記事 (http://medg.jp/mt/2010/12/vol-378.html#more) で、北海道大学大学院医学研究科医療統計・医療システム学分野助教の中村利仁医師は、「国家の不作為によるドラッグラグで患者さんが苦しんでいる中、ナチ スドイツを引き合いに出しながら国家による臨床試験の一元管理を主張している朝日新聞の社説は、その根本でヘルシンキ宣言の精神を理解していないか、ある いは少なくとも信じていないということになる」と述べている。私も、この主張に賛同する。

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臨床医として一連の朝日新聞記事を読み感じるのは、患者視点の欠如、現場取材の欠落である。一連の記事では、がんペプチドワクチンの臨床試験に参加した 患者さんが、進行した膵癌患者を有しており、既にがん進行により様々な合併症を生じつつあることが全く考慮されていないのだ。臨床試験では、合併症を有す る進行癌患者でも出来るだけ参加・登録できるように配慮することが多い。だからこそ、消化管出血などの合併症は、起きるべくして起きるのである。

朝日新聞は、消化管出血で入院期間が延長したことを他施設に知らせなかったことを問題視している。が、記事で報じられた患者さんの出血は、膵頭部癌によ る門脈圧亢進に伴う食道静脈瘤から生じていた。他の部分の消化管出血ならまだしも、食道静脈瘤からの出血ならば、膵癌の合併症とがん臨床に携わる医師は 100人中100人が考えるため、出血は他施設に「なぜ知らせなかった」と論じる事象ではない。実際医科研病院の担当医もそう考え、第三者を含む治験審査 委員会に報告し、審議は終了していた。

なぜこのようながんの合併症を、朝日新聞はあえて1面で取り上げる必要があったのか、理解に苦しむ。朝日新聞は、がん進行に伴う合併症を強調・誇張し、 「被験者の不利益になる情報」と読み違え、「不利益情報がきちんと被験者に届くよう厚生労働省が保証すべき」と主張しているのだが、今回の主張には、医学 的誤り、現場との大きな乖離、論理の飛躍がある。臨床試験、被験者保護を主張したいのなら、もっと別の事例があるはずである。

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再掲するが、日本の臨床試験は、既存の治療が無効となってしまった「がん難民」化した患者さんを、治療により救う制度として機能してきた。朝日新聞の一 連のがんワクチン記事報道は、進行癌を有した「新薬・新治療法を渇望する患者・家族の気持ち」、そして臨床試験に携わる現場の医療従事者の気持ちを踏みに じるものであると云わざるを得ない。
朝日新聞には、患者視点・現場取材・医学的根拠に基づいた、日本の臨床試験をより良い方向に導くような報道を行うことを、一臨床医として求めたい。

初出:インフォシーク内憂外患

http://opinion.infoseek.co.jp/

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