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Vol.29 医療現場を分かっていない「あら探し」の報道を憂う

医療ガバナンス学会 (2011年2月6日 06:00)


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がんワクチン報道を巡って東大医科研が朝日新聞を提訴

武蔵浦和メディカルセンター
ただともひろ胃腸科肛門科
多田 智裕

※このコラムはグローバルメディア日本ビジネスプレス(JBpress)に掲載されたものを転載したものです。

http://jbpress.ismedia.jp/

2011年2月6日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


朝日新聞と東大医科研の争いが、ついに法廷闘争に突入しました。
2010年10月15日、朝日新聞は朝刊1面で「東大医科研でワクチン被験者出血、他の試験病院に伝えず」という記事を掲載しました。
それは、こういう内容でした。東京大学医科学研究所の附属病院が2008年に「がんペプチドワクチン」の臨床試験を行いました。その際に発生した被験者の「重篤な有害事象」(消化管出血)を、同種のペプチドを使う他の試験病院に伝えていなかった、というのです。
本記事内で朝日新聞は「薬の開発優先、批判免れない」と結論付けていました。翌日にも「東大医科研/研究者の良心が問われる」という社説を掲載し、東大医科研を厳しく批判していました。

■「事実誤認」だと医療界が一斉に抗議

この報道に対して、関係者や患者団体からは一斉に抗議がおこりました。
東大医科研は「法的、医学的にも倫理上も問題ない」として反論しました。日本癌学会は抗議声明文を出し、「大きな事実誤認に基づいて情報をゆがめ、読者 を誤った理解へと誘導する内容」と非難しました。日本医学会も「事実を歪曲した朝日新聞がんペプチドワクチン療法報道」とコメントを出しました。
さらに、がん患者団体も、「がん臨床研究の適切な推進に関する声明文」にて「誤解を与えるような不適切な報道ではなく、事実をわかりやすく伝えるよう、冷静な報道を求めます」と表明しています。

こうした非難を受けて、朝日新聞は11月30日に、「何が起きた?/どこが問題か/社説の意図は」と題して、これまでの経緯の説明と、医療界からの非難に対する反論を述べました。
さらに12月6日には、記事内に掲載した関係者のコメントを「捏造の疑いが強い」と指摘した医師らに、訴訟を視野に入れた内容証明郵便を送付しました。
そして12月8日、東大医科研の中村祐輔教授らは、朝日新聞社と記事を執筆した記者に損害賠償と謝罪広告掲載を求め、東京地裁に提訴したのです。

■ 法的に問題はなかった

新薬を開発する臨床試験中の「重篤な有害事象」が、朝日新聞の記事のとおり「違法」に隠蔽されていたとするならば大変なことです。
しかし、実際には東大医科研には法的に伝えなければならない義務はありませんでした。
非常に細かな言い回しの違いになりますが、朝日新聞が「副作用情報を報告しなかった」と報じているのは、「同種」のワクチンを使用している他施設に対してです。「同一」のワクチンを使用する他施設に報告していなかった、というわけではないのです。
東大医科研は、法的には全く問題のないことを行っていました。それにもかかわらず、朝日新聞から「被験者の安全や人権保護」をないがしろにしているかのように伝えられ、「良心」まで問われてしまったのです。

■ 報告されるべき「重篤な有害事象」とは

治験薬の副作用情報は、医療機関に事細かに提供されます。例えば「ドイツで薬を飲んだ方にめまいが出たという副作用報告がありましたので、報告いたします。内服中止にて1日で症状軽快したとのことです」という感じです。
「重篤な有害事象」は、もちろん副作用情報として提供されます。重篤な有害事象というと、一大事のように思うかもしれません。でも、それは「入院加療が必要な症状が出現した」状態を指しています。

重篤な有害事象の報告の一例を挙げると、次のようになります。「アイルランドで潰瘍性大腸炎の治験薬を飲んでいた63歳の男性が、肺炎で入院したとの報告がありましたのでお知らせいたします。詳細な経過については現時点では不明です」
医学的には、腸に直接作用する薬を飲んで肺炎になるのは考えにくいことです。しかし、情報が不十分なため、「因果関係はない」と断言することはできません。そこで、副作用情報として「関連性が否定できない」という判定になるのです。
実際に、潰瘍性大腸炎の治験薬の副作用情報には、「頻度不明(非常に低い確率という意味)で、間質性肺炎を起こすことがあるかもしれない」と記載されています。

■ この場合は「伝えない」のが医療現場の常識

こうした副作用情報が報告されると、責任医師は「治験計画書の改訂が必要か」「患者さんへの同意説明文書の改訂が必要か」を検討します。
副作用情報が「未知の事象」であったり、関連性が疑われる場合には、同意説明文書は即座に改訂され、審査委員会にかけられることになります。
逆に、責任医師が「未知の事象ではない」、もしくは「関連性が強く疑われない」と判断した場合には、同意説明文書は改訂されないということです。ですから、先に挙げた潰瘍性大腸炎の治験薬の副作用報告例では、治験同意文書はおそらく改訂されないでしょう。
東大医科研の場合、がんペプチドワクチンの投与と消化管出血の関連性は明白ではありませんでしたが、実際には患者に対する説明同意文書は改訂されています。「被験者の安全と人権を守る観点」からすれば、適切な対応であると思います。

朝日新聞は、副作用情報が、「同種」のワクチンを使っている他の施設に報告されなかったことを非難しています。でも、「未知ではなく、因果関係が強く疑われない場合」には、そこまでしないのが医療現場の常識です。
法的に問題がないことはもちろん、現場の医師からすると「医の倫理上問題がある」とされる話でもないのです。

■ 医療現場の実情を考慮して議論してほしい

私には、今回の出来事は、まさに今の医療をめぐる訴訟や報道のあり方を象徴しているのではないかと思えてなりません。
朝日新聞が主張するように、すべての臨床試験において「不利益情報がきちんと被験者に届くよう厚生労働省が保証する」ためには、薬や医療機器の審査をする独立行政法人の「医薬品医療機器総合機構」を強化し、担当者を少なくとも今の数倍には増やす必要があります。
しかし、数倍のコストをかけたとしても、「同一」ではなく「同種」の薬剤の副作用情報まで、さらには「同種」の試験にまで、情報を周知徹底するのは極めて困難でしょう。全国各地の責任医師のアポイントを取って、直接伝えて回るのは莫大な労力を要します。

「医療は100%を目指してできる限りのことをすべて行うべきである」という意見もよく分かります。また、「臨床試験において信頼できない部分がある」という指摘については、医療従事者側の情報発信が不足しているなど、反省すべき点があるのかもしれません。
でも、日本の医療は厳しい境遇の中で、高い水準で、おおむね適正に行われています。
報道機関には、現場の実情を無視した「あら探し」をするのではなく、現場の意見を聞いて、実現可能な地に足のついた議論をしてほしいと思います。

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