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Vol.24090 杏林大学割箸事例での無過失補償救済と訴訟禁止

医療ガバナンス学会 (2024年5月15日 09:00)


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この原稿は月刊集中5月末日発売号に掲載予定です。

井上法律事務所所長
弁護士 井上清成

2024年5月15日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

1.杏林大学病院割箸看過事件

平成11(2009)年7月10日(土)午後6時過ぎに、盆踊り大会のボランティアをしていた母親に同行していた4歳児が、綿あめの割りばしを口にくわえたまま転倒し、その割りばしが児の軟口蓋に突き刺さり、児は杏林大学病院に救急搬送され、耳鼻咽喉科の当直医の診療を受けたが、割りばしはすでに抜けていて裂傷は止血していたので、軟口蓋損傷と判断されて自宅に帰ったところ、翌朝9時に死亡したという事例が、通称、杏林大学病院割箸看過事件と呼ばれているものである。
その後、司法解剖で、児の頭蓋内に長さ約7.6cmの割りばしが残っていたことが判明したため、当直医はCT検査を行うべきであったなどとして、東京地方検察庁の検察官は当直医を業務上過失致死罪で起訴し、児の遺族は東京地方裁判所に損害賠償請求訴訟を提起した。結果は、刑事は一・二審ともに無罪で、民事も一・二審ともに請求棄却(児の遺族敗訴)となって刑事も民事も確定し、事件はすべて終了したらしい。

当時は、医療バッシングが酷い時代であったので、刑事起訴や民事訴訟となったのではあろうが、今から振り返って見ると、刑事・民事の事件化は、素朴に、余りにも無理なことだったようにも感じられる。また、事件化まで選択してしまったために、逆に言えば、児の遺族にとっては更に一層、辛い事態を自ら招いてしまったようにも思う。二重三重に救いようのない辛い状況に陥ってしまったのではあるが、現在の我が国の法制の下では、その救済は厳しい。

たとえば、責任追及から離れ、専ら医療安全の確保を目的としている医療事故調査制度をもってしても、普通に当てはめれば「医療事故」に該当しないので、無理であろう。なぜなら、もともと死亡原因が「原病の進行」または「併発症(提供した医療に関連のない、偶発的に生じた疾患)」になるので、「医療に起因した死亡」の要件を欠くことになってしまうからである。

ところが、もしもこの杏林大学病院割箸看過事例を、ニュージーランドの無過失補償制度に当てはめてみたとしたらどうであろうか。結論は、補償対象となりうるところであろう。そうすれば、児の遺族は、杏林大学病院割箸看過事例で現実に生じてしまった二重三重の辛さよりは、多少は救われるのではないかと感じられる。

このような観点から、一般社団法人日本医療安全学会主催の第10回日本医療安全学会学術総会において、令和6(2024)年4月13日(土)に、筆者と古宇田千恵氏(出産ケア政策会議・代表、日本妊産婦支援協議会りんごの木・代表)とが共同で、「無過失補償制度と共に訴訟禁止を―杏林大学割りばし事件を参考に」という一般口演を行った。幸いに、同学会からの理解を得られて、学術貢献賞を頂戴したところであるので、その要点を次に述べてみたい。

まずは、一般口演の抄録を、そのまま引用する。

「無過失補償制度と共に訴訟禁止を―杏林大学割りばし事件を参考に

【目的】わが国における医療事故紛争の解決における過失責任主義の限界から、海外の無過失補償制度が着目されてきた。本研究は、海外の制度を参考に、わが国における医療事故紛争の解決について国情にあった制度改善に資することを目的とする。

【方法】ニュージーランドの事故補償法(Accident Compensation Act 2001)と関連制度の下では、わが国で起きた「杏林大学割りばし事件」はどのように扱われるかを検討する。

【結果】事故補償法では関連する訴訟を一切禁止するため、当然訴訟はなされない。医療事故や医療過誤等に起因する損害について補償するとしても、杏林大学割りばし事件のような事例は、それが医療起因性に欠ける併発症(偶発症)であるとも思えるので、医療補償の対象にはならないであろう。
しかし、「医療事故(治療行為の過程での傷害)」の項目には該当しないが、別途「非稼得者(子供などの非稼得者が負った傷害)」の項目が存在するため、補償が認められうることとなる。つまり、「医療補償」と共に「生活補償」を併存させることにより、広く補償が可能になるのである。また、事故補償法とは離れて、「患者の権利」が侵害された場合に患者を救済するアドボカシーサービスを利用する手立てもあるだろう。

【考察】「無過失補償制度と共に訴訟禁止」を導入するためには、広い補償と「患者の権利宣言」を併せて導入することが求められる。」

2.ニュージーランドの「2001年事故補償法」

次は、ニュージーランドの「2001年事故補償法」の要旨を紹介するが、この法律こそが「無過失補償制度」と共に「訴訟禁止」を定めたものなのである。
ニュージーランドの「2001年事故補償法」
(Accident Compensation Act 2001)
Version as at 6 September 2023

「第317条 人身事故に関する手続き
(1)何人も、法の規則または制定法に基づくか否かを問わず、本法とは無関係に、以下の事項から直接的または間接的に生じる損害について、ニュージーランドの裁判所において訴訟を提起することはできない。
(a)本法律の対象となる人身傷害
(b)旧法の対象となる人身傷害
〈以下略〉」

「第20条 ニュージーランドで被った人身傷害の補償
(特定の犯罪行為による精神的傷害または業務上の精神的傷害を除く)
(1) 以下の場合、人身傷害の補償を受けることができる。
(a) 2002年4月1日以降にニュージーランドで人身傷害を被った場合
(b) 〈略〉
(c) その人身傷害が(2)項のいずれかに記載されている場合

(2) 第(1)項(c)は以下の場合に適用される。
(a)本人に対する事故によって引き起こされた人身傷害:
(b)本人が被った治療傷害である人身傷害:
<以下略>」

「第25条 事故
(1)事故とは、以下のいずれかの事象を指す:
(a) 徐々に進行する過程を除く、特定の出来事または一連の出来事であり、以下を含む。
(i) 人体の外部に力(重力を含む)または抵抗が加わること
(ii) 人体の外部にある力(重力を含む)または抵抗を避けるために、人体が急激に動くこと
(iii)身体をねじる動きを伴うもの <中略>
(f)陣痛の開始から分娩の完了までのいずれかの時点で、人体内部に力
または抵抗が加わり、その結果、出産する人に別表3Aに記載される
傷害が生じること。
<以下略>」

「別表 3A 母体の出産時の傷害
膣前壁脱、膣後壁脱または子宮脱
尾骨骨折または脱臼
肛門挙筋剥離
分娩時肛門括約筋損傷による裂傷 会陰、陰唇、膣、外陰部、クリトリス、子宮頸部、直腸、肛門または尿道に達する裂傷
産科瘻孔(膀胱膣瘻、大腸膣瘻、尿管膣瘻を含む)〈以下略〉」

「第32条 治療傷害
(1) 治療傷害とは、以下の人身傷害をいう。
(a) 以下を行った人が被った傷害
(i) 1人以上の登録医療専門家に治療を求めること
〈中略〉
(b)治療が原因である、かつ
(c)以下を含む治療の全ての状況を考慮したうえで、治療が必要でない部分または通常の結果ではないこと
(i) 治療時のその人の基礎的健康状態、かつ
(ii) 治療時の臨床知識
(2) 治療による傷害には、以下の種類の人身傷害は含まれない
(a)完全にまたは実質的にその人の健康状態に起因する人身傷害
〈中略〉
(3)治療が所望の結果を得られなかったこと自体は、治療による傷害を構成しない、治療傷害とはならない。〈以下略〉」

3.ニュージーランドの法的テクニックを参考に

もともと無過失補償制度は、個別的な制度である労災補償制度や自動車事故損害賠償責任保険制度をその典型として、それら個別的なものから発祥している。ニュージーランドでは、その後に、いわゆる生活事故(自損事故も含む。)と相まって、全般にわたる一般的な無過失補償制度を形作って来たとも言えよう。その上、我が国では、労災補償も自賠責も産科医療補償もすべて、全部補償でなく一部補償に留め、その余の残部補償は損害賠償訴訟にかからしめているところ、ニュージーランドでは全部補償としてしまって、残部の損害の賠償請求訴訟は禁止したのであった。
前者の生活補償も含めた全般的な分野の補償、及び、後者の訴訟禁止を伴う全部補償という2つの法的テクニックには、我が国においても見習う価値のある知恵がある。

杏林大学病院割箸看過事例に当てはめてみると、ニュージーランドでは、医療補償ではなく自損事故的な生活補償として補償することになろうし、また、子供などの非稼得者の補償としての財源措置をして全額補償(残部損害訴訟の禁止)に漕ぎつけていくことになろう。

それらの法的テクニックは、我が国と対照しても、合理的なものと思われる。最も大きな発想の転換は、杏林大学病院割箸看過事例のような治療不作為型については、無理やりに「医療」からの起因性にこだわってその範囲を拡大することなく、広い「医療」補償でなく、狭い「治療傷害」補償に限定した上で、「治療」との因果関係を否定して「治療傷害」から除外してしまい、その代わりに、端的に「生活事故」(それも自損事故)として扱って、補償の範囲内に組み込んだことであろう。
我が国の場合は、「治療」の不作為のタイプについても、何とかして「医療」(正確には、「医療の機会」)からの起因性を認定しようとこだわり過ぎることが問題であるように感じられて仕様がない。

また、補償はあくまでも被害の救済だと割り切り、医療者への制裁や謝罪・反省要求は補償(この場合は、訴訟のこと)の目的・機能から外してしまうことが、逆に、より広範かつ適切な被害救済につながるものと考えられる。さらに付け加えれば、ニュージーランドでは訴訟が禁止されながら「患者の権利宣言」が制定されていることから分かるとおり、医療過誤損害賠償請求権そのものは必ずしも患者の基本的人権そのものとまでは言えないので、全部補償かつ訴訟禁止としつつ、我が国でもそれと相まって(医療過誤訴訟の権利を除いた)本来の「患者の権利宣言」を制定してしまうのも、現実的に合理的な選択の一つであると評しうるところであろう。

 

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