医療ガバナンス学会 (2024年6月4日 09:00)
医療法人社団オレンジ
オレンジホームケアクリニック
小坂真琴
2024年6月4日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
ポジティヴヘルスはオランダで生まれた概念である。健康の定義といえばWHOが提唱する「単に疾病がないだけでなく、身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態」がある。しかし、本当にその定義に当てはまる「健康」な人間はいるのだろうか。ポジティヴヘルスは、そうした疑問から端を発し、「社会的・身体的・感情的問題に直面した時に、適応し、本人主導で管理する能力」という、健康の新しい概念として生まれた。2011年にはポジティヴヘルスに関するヒューバー医師の論考が「英国医師会雑誌」に掲載された(2)。
私は、他17人の研修生と共に、4月の上旬に軽井沢で、中旬に福井でそれぞれ丸一日の研修を受けたのち、本場の地であるオランダを訪れた。現地でのプログラムをコーディネートしてくださったのは、『オランダ発ポジティヴヘルス 地域包括ケアの未来を拓く』『暮らしに広がるポジティヴヘルス オランダ発・レジリエントな健康の形』(いずれも日本語)を執筆されているシャボットあかねさんと、現地の家庭医(GP)であるカロリン医師だ。
ポジティヴヘルスは、「クモの巣(簡易版が図1)を用いて自分自身について話す」という具体的な一つの行動を基礎としている。クモの巣とは、自分の健康状態を6軸に分解して、自分で点数をつけてみるツールだ。この際、他人との比較は全く必要ない。低い点数があったとしても、本人が重要でないと考えるならばそれは問題ない。
http://expres.umin.jp/mric/mric_24107.pdf
図1 クモの巣(簡易版)
そして、記入した点数について聞き手に対して話すのだ。高い点数を取ることではなく、この会話自体を目的としている。面白いのが、私の場合「生きがいはありますか」と問われると恐らく絶句してしまうが、生きがいについてひとまず10点満点で点数をつけてしまえば、「なぜ前回より少し上がったのか」など色々と考えて話すきっかけが生まれてくる。自分で体験しながら、よくできたシステムだと感心した。
会話を通じて自分の体の状態をより総合的に把握することができて、次に何をすべきかが分かるのだ。あとはその実行をサポートするという、あくまで本人主導の取り組みだ。オランダでは国や地方自治体のコンセプトとしてもポジティヴヘルスが取り入れられ、さながら日本におけるSDGsのような様相を呈している。しかし、ある取り組みが生み出す結果を重視して分類するSDGsと異なり、本人主導というそのプロセスに焦点を当てるのがポジティヴヘルスの特徴だ。その裏返しとして、万人に適応できる訳ではなく、本人にその準備ができている場合にのみ有効だという。
個人レベルでは、オランダの家庭医と患者の間での対話にもこの「クモの巣」が用いられるという。日本にも、患者の状態を総合的に評価する指標として例えば高齢者総合機能評価が存在する。しかし、これと上述の「クモの巣」を見比べると、総合機能評価は、6軸のうち「身体状態、心の状態、日常生活機能」の3つに偏っていることがわかる。病気だけでなく患者さん全体を診る大事さが強調されてきた日本においても、その視界をさらに1段階広げる役割を果たしうると思う。
オランダ研修では、ポジティヴヘルスを体現している多くの施設を訪れたが、その中でも特にポジティヴヘルスを実践し、かつ医療体制にも影響を及ぼした点で特筆すべきユング医師の活動を紹介したい。彼は家庭医(GP)の一人だ。
彼が具体例として挙げたのは70代の糖尿病の患者だった。ユング医師は一緒に森の中を歩きながら、食事について話す時間を取った。その後しばらくしてからの再診で血糖値が劇的に改善していた。患者の話では、その散歩で歩く楽しさに目覚め、友人と共に日々の日課として歩くようになったという。あるいは、腰や首の肩の痛みで受診を続けていた患者と対話を深めていくと、孤独感が課題として上がった。コミュニティセンターでクッキーを焼く活動を紹介してからは、受診に訪れなくなったという。
いずれも結果として、病気に対する効果は絶大な介入だった。日本で「社会的処方」と言われるものに近い部分もある。しかし、ユング医師がすごいのはこれに財政的な裏付けを確保したことだ。
オランダでは保険会社とそれぞれの家庭医の交渉によって点数が決まっている。つまり、同じ処置をしても契約内容によっていくらの金額がつくか変わってくる。また、日本との違いとして、家庭医については診療を受けに来るかどうかに関わらず、登録された住民数分だけ家庭医の収入が入る。
ユング医師は保険会社と直接交渉に乗り出した。「私たち(医師)こそが薬だ」という考えのもと、保険のメインを検査や処方に対する出来高支払いから住民一人当たりの支払いへと変更し、一人当たりの診察時間を10 分から15分に延ばすよう契約した。
その結果、診察代は37%上昇したが、薬代は15%減少し、病院への紹介は2年間で20%減少し(オランダでは家庭医の紹介がなければ専門医の診察は受けられない)、医療費も合計として一人当たりやや減少した。この取り組みによって、保険会社は国全体として家庭医の診察時間の単位を延長することも決定した。「家庭医にとって非常にありがたい変更だった」とカロリン医師はコメントしていた。
この研修を通じて、診察中の対話が治療の中核となる可能性を改めて感じた。一方で、現在の自分のような後期研修医が行う病院での外来は、いかに業務をスムーズにこなすか、安全にこなすかに意識が傾きがちで、検査や処方を濫発するリスクが常にある。紅谷医師はこれを「後期研修の罠」と呼ぶ。今このタイミングでポジティヴヘルスに触れることができた意味を見直し、改めて自分の言葉の力、そして何より「聴く力」を信じて普段の診療にも臨みたいと感じた。
ポジティヴヘルス研修は来年も開催される予定だ。この記事を読んで関心を持たれた方は、ポジティヴヘルスジャパンの問い合わせ先 ( office.positivehealthjapan@gmail.com )にぜひご連絡いただきたい。
参考文献
(1)ポジティヴヘルスジャパンHP https://japanpositivehealth.wixsite.com/website (2024年5月27日閲覧)
(2)Huber M, Knottnerus JA, Green L, van der Horst H, Jadad AR, Kromhout D, Leonard B, Lorig K, Loureiro MI, van der Meer JW, Schnabel P, Smith R, van Weel C, Smid H. How should we define health? BMJ. 2011 Jul 26;343:d4163. doi: 10.1136/bmj.d4163. PMID: 21791490.