医療ガバナンス学会 (2011年3月3日 06:00)
綾瀬ハートクリニック
(東京女子医科大学付属日本心臓血圧研究所 循環器小児外科元助手)
佐藤一樹
2011年3月3日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
(1) 当事者への人権的配慮と院内事故調査報告書の作成・公表の問題点
本件報告書の冒頭には宛先があり、秘密裏の臨時役員会下部組織としての性質のため、「吉岡博光理事長殿、濱野恭一専務理事殿」宛てになっています。東間 委員長と笠貫所長から患者側に手渡された時点で、報告書の存在を大学内で知っていたのは、この二人と吉岡理事長、濱野専務理事、尾崎委員、楠元委員、金子 誠司管理課次長の7人だけした。児玉弁護士は所属する法律事務所の水沼弁護士を委員会に出席させていたので、おそらく知っていたでしょう。
当事者の私がこの報告書の存在を知ったのは、遺族に渡された後でした。突如、出張中の病院に郵送されてきた報告書の内容のいい加減さには驚きました。大 学側と私の連絡窓口であった金子次長に内容について苦情を訴えましたが、「佐藤先生には色々とご不満もあると思いますが、既に遺族に渡してしまったから」 という理由で一切取り合おうとしませんでした。人権無視です。
2001年年末に患者側が報告書をメディアに暴露して報道騒ぎになるまでは、理事会にも教授会にも提出されず、心研心臓血管外科遠藤真弘教授ですら、報道後に「国民とともに知った」のです。
(2) 報告書の危険性:患者側とメディア
内部報告書が、患者側の手に渡れば、先ず「民事紛争の戦略」に使用される可能性があります。メディアに暴露して、警察に告訴して、示談を迫れば時間も手 間もお金もかかる訴訟を起こす以前に終結することができます。企業間の紛争にかかわってきたある弁護士さんは、「お医者さんは世間知らずですから、そんな こと想像できないんでしょ。企業間の争いでは、もっと醜いことがおこなわれますよ。」とお話されていました。
報告書が告訴によって警察に提出された後の危険性については、「診療研究」誌第447号に掲載された「被告人の視点からみた医療司法問題の実際」[5]で詳細を論じました。ここではメディアの手に渡った場合について述べます。
私が逮捕された21世紀初頭の日本の医療報道では、医療事故が起こると全例が「医療過誤」扱いされていました。この「医療過誤」の大看板を盾に、患者の 死亡や障害は現場医師に責任、ヒューマン・エラーがあるかの報道が目立っていました。内部調査報告書を手にした彼らは、無防備にこれを信じ報道合戦となり 書籍にもなりました。
根拠のない記載を衝撃的に書く例として読売新聞の鈴木敦秋記者執筆の『大学病院に、メス! 密着1000日 医療事故報道の現場から』があります。「こ の(女子医大事件の報道)記事を見て、南淵(明宏)医師は、『誰か新米の記者が、勘違いして書いたな』と面白がっていた。人工心肺装置のポンプの回転数を 上げすぎて血液が循環しなくなり、現場がパニック状態になったと書いてあるが、そんなことは逆立ちしても起こりえないと思ったのだ。ところが、これは紛れ もない事実だった。」この書籍の他の部分を読むと著者の鈴木記者は、南淵医師のことを優秀な医師と思い込んでいます。その南淵氏をして「逆立ちしても起こ りえないこと」が「紛れもな事実だった」と断言するからには、根拠を示すべきです。南淵医師は本件刑事事件の一審でも控訴審でも検察側証人として公判で尋 問され、VAVR式人工心肺装置の知識が全く欠如していることをさらけ出しましたが、それは鈴木氏の書籍が出版された後の話です。このように取材もせず、 何も調べずに、平気でこのような報道をするメディカル・リテラシーや科学的思考力が欠如している記者が多いのです。
「このような医療報道が患者側のクレーマー化を助長し、医療現場の士気を大きく低下させた」という指摘は、客観性を失っているとはいえません。メディア 活動の最大の動機は商業主義です。特に社会部の「事件記者」は、社会的な報道意義より衝撃性を重視し、正確性より話題性・速報性を優先する記事を書きま す。彼らなりの動機として単純な正義感は確かに存在します。しかし、非専門家であるための医療知識欠如や判断力のなさ以前に、ほとんどの記者は医療と社会 のつながりに対する大局感や報道の影響への想像力が極端に脆弱、あるいは皆無と言えます。「世間に存在する悪は、大半がつねに無知に由来するもので、明識 がなければ善い意志も悪意と同じほどの多くの被害を与えることもありうる(カミュ著『ペスト』)」のです。
現在国際医療福祉大学大学院教授の元フジテレビのキャスター黒岩祐治氏は、
「報道した内容がどのような影響を与えるか想像する力が、報道側に欠如している」「医療事故報道であれば、弱者である患者側に立ち『病院は何をやっている のか』と糾弾すれば、ジャーナリズムを果たしたと勘違いしてしまう。それが委縮医療を招き患者を困らせる結果を招いていることに気づいていない」と述べて います[6]。
残念ながら、このような認識が現役の記者に欠如しているのは、2009年3月の私の控訴審無罪報道の時点では全く変わっていません。読売新聞の木下敦子 記者は、書いた東間医師自身が既に「結論に根拠はない」と明言していた内部報告書と心臓外科関連が作成した「三学会報告書」や高裁判決を同等の価値と扱っ た記事を書いています。
(3) 報告書が公になった後の病院の姿勢
内部報告書をめぐる病院内での現場医療者と組織との間の利益相反の接点、最後の砦は、医局の主任教授や、センター長、診療部長などの中間管理職です。こ れが、どちらについたかが、「福島県立大野病院事件」と本件の大きな違いです。私と同様に起訴された加藤克彦医師の所属する福島県立医大の故佐藤章教授は 立派な方でした。現場医師の人権を尊重する立場から「周産期医療の崩壊をくい止める会」を立ち上げ、当時の川崎二郎厚労大臣を動かし、仙谷由人氏をはじめ 舛添要一氏、枝野幸男氏ら実力者が事件を国会でとりあげるようになりました。
これに引き換え私に対する黒澤教授からのパワーハラスメントは小説「白い巨塔」程度からは想像できないほど、酷いものでした。「『内部報告書』は厚生労 働省に提出した。今、特定機能病院の認定を剥奪されるかどうかのぎりぎりのところである。『内部報告書』は間違っているが、こんな大切な時に女子医大心研 の内部に別の意見があって、『内部報告書』を批判する動きがあることがマスコミに知られたら大変なことになる。特定機能病院の問題が終了するまでは、『内 部報告書』を批判する書類を作成してはいけない。」「君も日本国内で心臓外科を続けたいのなら、私の言うことを聞いて『内部報告書』を批判しないように。 批判をすると私の力で君は心臓外科を続けられなくなるだろう。」黒澤教授の行動はこのような直接的な脅しだけではありません。2003年5月15日、日本 心臓血管外科学会、日本胸部外科学会、日本人工臓器学会の3学会が、合同して女子医大の内部報告書を断定的に否定し、「原因は吸引回路の回転数が非常に高 かったためではなく、陰圧吸引補助ラインに使用したフィルターが目詰まりを起こし閉塞したためである」とレポート[7]を発表する直前になり当時女子医大 に駐在していたNHKの番組スタッフとともに、3学会の委員の前に登場して強引に「ためで」を「可能性が」に変更するよう迫りました。さらに、刑事判決の 一審無罪判決後も、私が心臓血管外科専門医を申請すればその認定を阻止しようと活動しました。永久にゆるされない行為です。
おわりに
「郵便不正押収資料改ざん事件」の検察、「東京女子医大心臓手術事件」の学校法人 東京女子醫科大学の共通点は、組織監督責任を認める代わりに問題のあった現場で働く個人(検事・医師)の犯罪、過失と認定したことです。
検察は「検察本来の仕事」である「捜査手法」の問題を棚上げたため、社会の厳しい眼が「検察のシステム全体」に批判を浴びせています。
東京女子醫科大学は、「病院本来の仕事」である「手術方法や医療機器取扱い」と同時に誤った内部報告書の「調査手法」の二つの問題を棚上てきました。
今回の民事訴訟で調査報告書の誤りは認めました。しかし、私の知る限り、報告書の「調査手法」についての反省は東間医師の私見のみです。大学としては何も行っていません。
東京女子医大が作成した内部報告書によって私が被ったような被害が今後二度と発生しないためには、事故調査委員が人権意識のある「公正」な視線を持った調査が必要です。「院内事故調査報告書が公正である」と判断されるための絶対的必要条件を簡潔にすれば以下の通りです。
1.報告書作成終了前に、関係する現場医療関係者から意見を聞く機会を設けること
2.報告書に対する当事者の不同意権と拒否権を担保し、不同意理由を報告書に記載すること
この二つが遵守されない事故調査報告書は、無効とすべきです。
以上
(参考文献)
[5] 佐藤一樹:被告人の視点からみた医療司法問題の実際. 診療研究, 447, 5-15, 2009.
[6] 特集「日本の医療 ここがおかしい」9公平性・正確性欠く医療報道-報道で医師の士気が低下 日経メディカル, 63. 2011年1月号
[7] 日本胸部外科学会, 日本心臓血管外科学会, 日本人工臓器学会: 3学会合同陰圧吸引補助脱血体外循環検討委員会報告書. 2003.
「診療研究」2011年3月号掲載