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Vol.57 論文採点から読み解く医学生の実態

医療ガバナンス学会 (2011年3月7日 06:00)


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獨協医科大学神経内科
小鷹昌明
2011年3月7日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


過去数年間、本学の入試小論文を作成し採点をしていた(複数人いる中の1人に過ぎなかったが)。2000-3000字程度の単文を読ませて、論題を与えることで自分の考えを述べてもらうという、よくある形式である。
そこで、本稿では医学部受験生について、論文記述から読み解く医師将来像について考えてみたい。

いきなりだが、医学部受験だけあって頻度としてけっして多いというわけではないが、「ハッキリ言って」、「ざっくり」、「(文頭から)なので」、「自分 的には(”私的”ではなく)」といった流行語的なNGワードを連発したり、「”手段”を”主段”」、「”主張”を”手張”」、「”無理”を”無離”」、 「”世間”を”世見”」、「”授業”を”受業”」、「”実習”を”実修”」、「”解剖”を”解倍”や”解培”」、「”高齢者”を”高断者”」と書いたりす るような学生は、いつの時代にもいる。

ボキャブラリーの多寡に関しては、接続詞をみればすぐに判る。直前の文と整合的に用いる「それ故に」、「このことと矛盾なく」という語句や、直前の文と 逆を述べたい場合の「しかしながら(”しかし”ではなく)、「他方」、「対称的に」などや、離れた文との関係を述べるための「上で述べたように」、「前述 の」、「後にみるように」などは、まず使われない。

もっとも、その程度の誤字ではたいして驚かなくもなったが、「医師の”師”の旁を”市”」や「”患者”を”看者”」と書いて、いきなり地雷を踏んだり、いくら急いでいるからといって「”比較的非日常”を”非較的比日常”」と書いたりする輩もいることはいる。

もちろん、薫風香る初春の木漏れ日の下でマイルス・デービスを聴き、谷川の水を飲みながらリルケの詩集を読み、「大きな世界が自分の衷に入って来ると、 世界は海のように深くなる」という感慨に浸りながら、日々の出来事を綴られる受験生もおそらくは、高校生の1.5%程度はいると思う。

そんな「静謐の中に漂う鼓動」といった切り口を醸し出す論文も、100人中1人か2人くらいの割合で見つけ出すことは可能だが、たいていは可もなく不可もないストックフレーズのオンパレードである。お行儀が良いというか、そつがないというか。
論文の中に出てくるキーワードの上位3つと言えば、「コミュニケーション力」、「良医」、「人間力(性)」ではないか。

そもそも大学側が受験生に、わざわざ「小論文」を課すのはなぜか。
それは、「ペーパーテストでは判断できない基礎学力や学問に対する関心、論理的な思考力を有するかどうかの評価」が一般的な理由であろう。さらにもう一 段加えるならば、「実社会で高い評価を得るような新規の発想を見出せる有望な人材を探している」ということもあるかもしれない。
採点の際には、「オリジナリティー」や「独創性」、「ユニークさ」というような要素も注目されているのではないか。それは、学問を発展させていくには、これまでにない発想、これまでにない視点が必要不可欠だからである。
それはそれでいい。納得するところである。

しかし、いくら文章がまとまっていたとしても、「これだけ書いておけば下手な査定は受けない」という要領を習得しただけで医学部受験を乗りきろうとする態度を、私は高く評価する気になれない(というのが本音である)。
彼らは、論題に対して疑問を投げかけ(あるいは賛同を与え)、具体例を紹介しつつ、それについての一般的見解を示し、トリビアな知識をひけらかすか、私 なりのちょっと違う視点からのコメントを添え、最後にどうでもいいような結論で締める(「...そんな立派な医師になりたい。」とか)。

と、ここまで述べてから言うのも何だが、本稿では漢字能力がどうだとか、発想が貧困だとか、論述思考能力がどうだとか、そのような枝葉末節の問題を論じようというものではない。

さて、「あなたは将来どのような教育を受けたいか?」という論題に対する回答の中から、いくつか”締め”の言葉を一部改変して紹介する。

○「教養と実用のつながりが目にみえる教育や、机上で学んだことが臨床の場で活かせることがわかる教育を望む。」
○「教科書に載っていること以外の知識を手に入れることで、試験を合格して医師になったときに他の人よりも早く社会に貢献できる。」
○「教養を学ぶときには、それが医療の現場とどのように結びついているのか、実用を学ぶときには、それまで学んだ教養の何がどのように活かされているのか、ということが明白な教育を受けたい。」

「勉強したことが実際の現場で”即戦力”として役立つことを熱望する」という彼らの主張はわからなくもない。「心意気」を感じる意見は大変素晴らしい。しかし、この論説から感じ取れることは何であろうか。

大学の卒前教育は、言うまでもないことだが「医師になるため」ということが前提である。だから教師たちは、まず医学に関係するさまざまな領域についての 教養や基礎を伝えようとする。生命倫理や社会福祉、哲学、医学概論、細胞生理学、医科生化学、人体発生学、解剖学、組織学、微生物学、病理学、薬理学など を、順序立てて教えていくカリキュラムが組まれている。
しかし、「目標が明確にあるのだから、それに関する学業に無駄などない」と考える講師陣の思惑を、入学と同時に見事に打ち砕いてくれるものがいる。彼ら は、「こちらの話しが、自分たちを聴き手に想定していない」ということと、「この話しは、いつかどこかでやり直しが利く」ということに気づいた瞬間に、眠 る。

それはそうだろう。学生たちは、入学前から宣言している。「臨床の現場で役に立ちそうなことは聴くし、役に立たなさそうなことは聴かない」と。「仕事ですぐに使えそうなことを教えてくれるならば、それと等価な授業態度を提供する」と。

両親がクリニック開業などの医師である家庭であればあるほど、教養科目の必要性は感じない。医学部の特殊性を過大に想像しながら入学してきた学生の最初の講義が、高校の延長のような教科では真剣になれないのも当然である。
「医師として、臨床で役に立つことを教えてくれ」という学生からの要望に対して、多くの基礎講座の教師たちは絶句してしまう(公衆衛生学の先生が悲嘆して いました)。「幅広い知識を備えておけば、将来医者になったときに必ず役に立つ」という回答は、「将来、徴兵されるかもしれないから体を鍛えておけ」とい うのと同程度の別次元の話しである。

そこで、学生たちは、この問いを唱えることの有効性を肌身で感じることになる。教師を絶句させるほどのラディカルでクリティカルな問いであることを知る。
そして、あらゆる機会に「これは役に立つか」という判断で物事を評価し、満足のいく回答が得られなければ、それを打ち棄てていく。しかし、「役に立ちそ うなことばかりを選んでいたら、役に立たないことの判断が甘くなるし、無駄がどういうものかを知らなければ、無駄のない作業はできないという仕組みでしか 学習は成り立たない」ということに、当の本人は気付いていない。結果的に、遠回りの学習にしかならないことを理解できない。
「医学に関係ないことなどない」という教師の問いかけに対しては、「医療に直接的には役に立たない」と応じ、「医療に役立つではないか」という意見には、「現場の診療には役に立たない」と構え、「診療に役立つではないか」には、「興味のある診療科ではない」と答える。

「では、どうしたらいいのか?」という問いに対して、経験的なことをひとつ紹介する。
医学生の特に低学年の学生にとって、もっとも学習意欲の沸くときは、5、6年生あたりが医学について対話している現場を垣間見たときである。5年生の先 輩が「あっ、今日、”医療最前線”見なきゃ」と言って、飲み会を早めに抜けて帰ったときや、「今日、BSLでガストリック・キャンサーのオペを見学した ら...」と話している、生意気な会話を横で聞いたときなのである。
これは、もう低学年の学生から見れば、先輩たちは羨望の的である。「僕も、あと3-4年したらあんな知的な大人になれるのかなぁ」と思ったものである。

等価交換の価値だけを判断材料に医師国家試験に役に立つ勉強をして、医師になった彼らは、やはり現場を混乱させる。それは、役に立つことを一旦棚上げにしておく素性を学ばなかったからである。どうなるかわからないものを、ペンディングしておく習慣がないからである。
医師になってもしばらくは、診療に必要な最低限の正しい知識と技能とを、きわめて均質的に習得する。役に立つと思っていたことが、たいして役に立たな かったり、努力相当の評価がなされなかったりした場合に、思考転換が上手くできない。当然、「給料が安い」と批判するし、理不尽な人事にも耐えられない。
拡張型心筋症におけるバチスタ手術の知識が実用されることは、彼にとっては100万年先の話しである。

「教養課程を疎かにした帰結である」とか、「専門教育に偏り過ぎた弊害である」とか、そんなことを議論しても始まらないし、「努力の必ずしも報われる仕事ではない」とか、「正当な評価を受ける職場ではない」とか、そんなネガティブなことを言いたいわけでもない。
そもそも、この医師不足の時代に医療界が求める人材は、突き詰めれば「よく働けるか」ということである。しかも、「忠実に、素直に働けるか」ということである。だから私たちは、学生に対して「入学のときには随分、殊勝なことを言ったではないか」などと本来は言えない。
でもだからこそ、「医学の勉強や医療の実践は、等価交換ではない」ということを早い段階に知らせておいた方がいいし、それにはまず、「変に”孤立”した 性格(”孤立”が正しくないのなら”自立”と言い換えてもいい)を修正しながら、無駄か無駄でないかを考えるまでもなく、私たち教員とウダウダ愉快に過ご すところから学園生活を始めた方がいい」ということを指摘しておきたいだけである。

小論文の話しに戻る。
そつなく書けている論文を、もちろん不当に評価したつもりはない。
彼らは、小論文に必要なものとして、おそらくは「”自分の主張”と”それが正しいという根拠”とを明示しろ」という教育を受けてきたのではないか。自分 の主張、つまり「何を訴えたいか」がはっきりしていなかったり、根拠が欠けていたりするようでは、採点者を説得させることはできない。だから、限られた文 字数で論旨を明確にする必要があり、どうしたって簡潔で断定的な論述にならざるを得ない。
私もこの歳になって、ようやく人生の喜怒哀楽や人情の機微に触れて、その都度思考を重ねてきて、やっとこのような「言い淀むような分別のない文章」を経験的に書けるようになった。受験生が「分別のある」文章しか書けないのは当然である。
だから、上手にストックフレーズを組み合わせたとしても、せめて少しでも自分の経験に基づいて論の結ばれている記述には好印象を受ける。

いろいろと論文採点から感じた私的な意見を述べたが、実際の採点は一定の基準に則り、あくまで公正に採点をしてきた(誤解のないように)。
ただ、他大学における多くの入試委員の諸先生方のために一言申し添えさせていただくならば、採点者を、「論理的で常識的で理性的で極めて温厚な学者だ」 と勘違いしてもらっては困る。何十編も読んでいると、「一言で言ってくれ、もう飽きたんだよ」という気持ちになってくることがないわけではない。
きれい事に終始した合格答案集ばかりを読まされているような採点を繰り返していると、結局の所、小論文はあまりにもトリッキーな思考や無節操な態度、偏執的な人格の持ち主を察知して、振り落とすためだけに機能しているのではないかという感覚になってくる。
それなら、いっそのことロールシャッハでもやれば、余程その意義は達せられるのではないかという気分になってくるが、そこはぐっと気持ちを入れ替えて、やはり耐えに耐えて冷静に公平に論評していることを、どうか解ってください。

最後に、本稿に記す内容はすべて私、個人の見解であって、所属する大学組織の見解とは何ら関係を持たない。したがって、一切の責任は”小鷹”個人にあることをお断りしておく。

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