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Vol.58 1940年体制と厚労省の低医療費政策

医療ガバナンス学会 (2011年3月8日 06:00)


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鹿鳴荘病理研究所 広島大名誉教授
難波紘二
2011年3月8日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


「1940年体制」という言葉は野口悠紀雄氏(一橋大教授, 公共経済学)が提唱した用語で、1940年(太平洋戦争の前年)前後に確立された官僚統制システムが今も生きており、それが社会経済の発展を阻害しているという主張であった[1]。

【厚生省の誕生】

厚生省が内務省から分離独立したのが1938年1月で、同じ年の4月には「国家総動員法」が公布され、統制経済が始まった。翌年には米穀の配給制が始ま り、40年になると全ての政党が解党し「大政翼賛会」が発足した。翌41年12月8日に日米開戦となると、13日には「新聞事業令」を公布し、地方紙を今 日も続く「一県一紙」に合併させた。
同じ1941年には「悪質遺伝疾患防止のため」、「国民優生法」が公布され精神病患者、知的障害者、癩病を含む身体障害者の断種が合法化された。新設厚 生省を組織するためドイツに留学しナチスの「断種法」や厚生組織のあり方を学び、東大産婦人科から厚生省入りし、「母子手帳」の原型を作ったのが、後の東 北大公衆衛生学教授瀬木三雄である。(「瀬木の世界人口」で知られる)

以上の動きの中に厚労省設置を位置づけると、その目的は「戦争遂行のために健康な壮丁を確保し、兵力の持続的供給のために健康な赤ん坊を多産させる」ことにあったのは疑えない[3]。

【健康保険制度のはじまり】

日本の健康保険制度は「労働運動の赤化」を恐れるILOの勧告(1920)を受けて、1922年に「健康保険法」が制定されたが、対象は年収1200円以下の職工・工夫であった。
(武見太郎が銀座に診療所を開設した1938年の年収が1500円である。「これが上の部に近かったことを記憶している」=「武見太郎回想録」[4]

この法は準備に手間取り1927年から施行された。この時に各県医師会の「団体自由選択制」(医師会が保険診療を請け負い、医師個人は保険医申請をしな い)と「診療行為別点数制」が決まった。県医師会に対しては被保険者数に応じて「人頭方式」で月額の報酬が国から支払われた。従って有病率・重症度に県別 の差があるため、1点単価は県により、開業医により異なった。

この制度を県医師会から公立病院、国公立の大学病院にまで拡張するにあたり、厚労省は「一般診療よりも2〜3割引」を求めた。大学病院は文部省とも相談 し、「学用患者の確保に役立つ」と見て1928年、2割の値引きに応じた。実に「低医療費政策」の根源はこの時の値引きにあるのだ。(甲表、乙表の起源)

1938年7月「国民健康保険法」、1939年「職員健康保険法」(サラリーマンを対象)、「船員健康保険法」が制定されたが、「点数方式」と県医師会請負方式、国公立病院の値引き方式はそのまま残された[3]。

【戦時下の保険医療】

「国家総動員法」の下に1942年には「国民医療法」が施行され、医師・医療が国家統制の下に組み込まれて行き始める。同年に「健康保険法」の大改正があり、「職員保険法」がこれに統合された、下層階級の医療費を中流サラリーマンが負担する仕組みとなった[3]。

医師会はこれまで任意加盟制であり、医師会に加盟せずとも自由診療がやれていたが、医師の日本医師会への加盟が義務づけられ、日本医師会長は厚生大臣が 任命することになった。これまで人頭制で支払われていた診療報酬は、識者の意見を聞き厚生大臣が定める「公定制」となった。「戦争に突入してからの医師会 は、改組を命ぜられて完全に軍の統制下にはいった。」(「武見太郎回想録」[4]

このように「医療行為を点数化すること、点数に単価をつけて、月額診療報酬を算定すること、1点単価が中央省庁(厚生省、厚労省)により一方的に決めら れること=公定、国公立病院がそれを2割引で引き受けたこと」、言い換えると「低医療費政策」と呼ばれるものの骨格は1942年にすでに出来上がってい た、ということができる。「1940年体制」は野口氏が言うよりも、もっと広汎に広がっていたのである。(野口氏の著書では厚生省の誕生も社会保険制度の 導入も論じられていない。実際には保険積立金は戦費としても利用されている。)

【戦後のGHQ改革】

1945年夏の敗戦に伴う反動により共産党系勢力が各方面で力を得た。その「民主診療所」の活動で実現したのが1946年の「生活保護法」である。民医 連系医師は官制医師会に反発して民主的医師会を組織しようとしていた。同時に50年の「2.1スト」は革命前夜の様相を呈し「レッドパージ」の原因となっ た。危機感に駆られたGHQ民政局はH.ワンデルを主席とする「社会保障調査団」を来日させ、日本の医療事情、健康保険の実態等社会保険制度について調査 させ、1947年に「ワンデル報告」がまとめられた。

母体の内務省は各省に分割解体されても骨組みのところで生き残ったが、厚労省官僚システムはほぼ無傷で生き残った。「厚生年金」(1944施行)の積立金 が、戦後の財政投融資の財源として利用されたためである[1]。内務省の解体プロセスを追った保阪も厚生省の解体には触れていない[2]。というよりも書 くべき大きな変化がなかったからだろう。

同じ年に戦争体制の産物である「強制加盟制の日本医師会」が解散させられ、「任意加盟制・投票制」の新日本医師会が発足した。この際に保険診療事務は医師会から各県の「診療報酬支払基金事務所」に移管された。

【戦後の日本医師会と厚生省】

戦後の日本医師会の初代会長は高橋明、2代目が田宮虎雄、3代目が谷口弥三郎、4代目が再び田宮虎雄、5代目が黒澤潤三、6代目が小畑惟清、7代目が田 宮医師会長の時の副会長であった武見太郎である[6]。武見会長の一期目にあたる1957年10月に診療報酬表の「甲乙2表」と「1点単価10円」が決定 された。この時10円で買える商品は巷になかった。(厳密に言えば上野動物園の子供入場料と広島市電の初乗り運賃がある。)

ところが歴代の日本医師会長の誰も戦後の医療体制が「1940年体制」の延長であることに気づかず、システムを変えるのではなく、システムの内部での開 業医の利益を追求した。25年という長期政権を保った武見太郎は、自分の診療所では保険診療をしておらず、保険医療の問題や低医療費の構造的問題には気づ いていなかったと思われる。1951年に日本医師会の「保険医指定一斉辞退」運動が起こったが、不発に終わった。

1951年暮れに、危機を感じた政府は「開業医収入の70%を必要経費とみなす」という医師優遇税制を認めた(1979まで存続)[5]。医薬分業が進 展せず、外注検査も増えたので、開業医には薬価差益、検査差益もあり、保険点数が低いことへの反発をかわすことに成功した。今日、日本の医師に占める開業 医の割合は40%で、勤務医は60%と多数を占めるが、かつて日本医学会会長で東大名誉教授(病理学)の吉田富三を担いで会長選に挑み、惨敗した経験があ り、勤務医の側では誰も「1940年体制」とその遺物に手をつけようとしない。

【老人医療無料から老人保健法へ】

1967年に美濃部東京都知事が誕生し、「70歳以上の老人の医療費無料」政策を実行に移すと、これはまたたく間に全国の地方自治体に波及した。その結果は「老人医療費」の急増である。この動きを受けて、1982年には「老人保健法」が誕生した。

1983年当時総医療費は13兆円であったが、「GDPの伸び率を上回る医療費の伸びは医療保険制度の破綻をもたらす」と主張し、「医療費亡国論」を唱 えたのが、東大法学部を卒業し厚労省に入局した法律系事務官吉村仁である。医療課長、保険局長をへて次官になった。彼の手法は当面の医療費削減にあったか ら、「厚労省の低医療費政策」の張本人のように言う人もいるが、事実はそうではない。「GDPと医療費の間に一定の相関をもたせる」という主張は間違って いない。しかし、医師会と全面対決する彼の主張はバブル経済に突入していた当時の社会情勢では、省内の支持もメディアの支持も十分に受けることはできず、 1986年、10年来抱えていた肝癌のため死去した[6]。吉村も医療に於ける「1940年体制」の抜本的改革までは考えていなかった。

今日国民総医療費は34兆円まで増加し、その三分の一を老人医療費が占めている。しかし18歳人口は120万人と「団塊の世代」の半数以下に減少してい る。若者が負担できる社会保険料には限度がある。総医療費というパイが大きくならない限り、老人へ配分される額が増大すれば、その分だけ小児や青少年や労 働可能成人の医療にまわすべき額(医療費・研究費)が減少するのは当然である。

【必要な長期医療構想のバランスシート】

18歳人口はこれから毎年減少して行く。日本の大学は5年以内に約1割の80校が倒産すると見積もられている。就労総人口の減少は医療保険・社会保険掛 け金の減少をもたらす。他方で人口の年齢別構成は確実に高齢化にシフトする。医療保険制度は絶えざる収入源と支出増加という構造的矛盾を当面20年くらい は抱え込むことになる。

この矛盾を解決するのに、1)保険料をアップするのがよいのか、2)給付を削減するのがよいのか、3)新しい目的税(間接税)を導入するのがよいのか、 4)甲乙2表と1点単価制という1927年に始まり1957年に確立した、現行の診療報酬制度を根本的に見直す方がよいのか、マクロ的長期的視点で検討す る必要があるだろう。

村重直子さんらが辞めたので厚労省は医系技官の不足に悩んでいるようだ。従来の補給ルートは公衆衛生学教室出身の大学院生→厚労省技官:厚労省技官→医 学部公衆衛生学教授という人脈に基づいたものだった。ところがいま基礎教室は医師の教授が少なくなっている。法医学ですらPh.D.が教授になっていると ころが多いという。「医療崩壊」どころか、いまや「医学崩壊」が起きつつある。
医学部に行ったら「医系技官募集」の厚労省のポスターがあった。写真の肖像は後藤新平だった。まさに「大風呂敷」と呼ばれた後藤[7]のような制度改革者の出現が求められているといえよう。

【参考文献】
[1] 野口悠紀雄:「1940年体制:さらば戦時経済」, 東洋経済新報社, 2010
[2] 保阪正康:「そして官僚は生き残った:内務省、陸軍省、海軍省解体」, 毎日新聞社, 2011
[3] 後藤由夫:「医学と医療:総括と展望」, 文光堂, 1999
[4] 武見太郎:「武見太郎回想録」, 日本経済新聞社, 1968
[5] 武見太郎:「戦前 戦中 戦後」, 講談社, 1982
[6] 水野 肇:「誰も書かなかった日本医師会」, 草思社, 2003
[7] 山岡淳一郎:「後藤新平:日本の羅針盤となった男」, 草思社, 2007

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