医療ガバナンス学会 (2025年1月7日 09:00)
オレンジホームケアクリニック
医師 小坂真琴
2025年1月7日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
私は、初期研修医2年目だった2024年1月末に輪島市の福祉避難所「地域生活支援ウミュードソラ(以下ウミュードソラ)」に5日間ボランティアで入った。学生時代に研究でお世話になっていた医療法人社団オレンジの紅谷先生の紹介だった。精神疾患を抱える避難者とそのご家族、認知症で夜間になると徘徊される避難者、福祉避難所に来てから新型コロナに感染し回復を待つ避難者など様々な方がいらした。
研修医ながら「医師」として現場に赴いたが、必要なのは生活の継続であり、医師だからこその出番は幸運にもほとんどなかった。訪問看護師や介護福祉士、栄養士の方々が活躍する横で、粛々と災害前から服用していた薬と同じ内容の災害処方箋を切り続けていた。
お世話になった福祉避難所「ウミュードソラ」を統括していたのが、地元の訪問看護師である中村悦子さんだ。以来長らく、輪島を訪れるたびに中村さんにお世話になっている。地域内に長年築きあげたネットワークがあり、かつ全国にも交友関係がある中村さんの存在は、能登の「関係人口」を作る上で重要なハブ機能を果たしているように感じた。リベルタ能登を訪れるたび、全国各地からの訪問者にお会いした。リベルタ能登で看護師として働く方の中にも、震災後に移住してきた方が複数いた。
元々病院でNST(栄養サポートチーム)として活躍されていた中村さんは、震災後の訪問看護においても栄養状態のフォローをこまめにされていた。
被災地では、炊き出しなどの支援が炭水化物中心に偏ってしまう、栄養バランスの取れた配食サービスが停止してしまうと代替策がない、仮設住宅に入ると住み慣れた自宅のキッチンと勝手が異なり自炊をやめてしまう、といった複合的な理由で栄養状態の悪化が起こっていたという。同行させて頂く中で、訪問看護のための訪問のついで、という形で高タンパクのレトルト食品を手渡して帰ったり、ステーションに届いた栄養補助食品を箱単位で近隣の高齢者施設に届けたりされていたのが印象に残った(1)。
「(福祉避難所から)仮設住宅に入って人の目が届きにくくなってからが危ない」と序盤から仰っていたが、実際に仮設住宅への入居が進み始めた5月頃から心不全の悪化や腎不全の症例が数例あったようだった。
その後各月の訪問で私が出会った方々は、それぞれに大きな課題に直面しながらも前を向いていたのでその一端を紹介したいと思う。
8月は「間垣の里」として有名な大沢・上大沢に伺った。日本海の冬に吹き付ける厳しい風から集落を守るため、竹垣を集落の周りに巡らせている。朝ドラ「まれ」のロケ地となった場所でもある。集落の近くの駐車場には、自衛隊が減りで救出する際の目印となった大きな円とSOSの文字が残っていた。伺った日はちょうど年に1回の夏祭りだった。例年の夏祭りでは相撲の土俵も出されて大賑わいを見せるそうだが、今年は根本だけになった静浦神社の鳥居の横で、全国から集まったライオンズクラブの方々がかき氷・焼肉・ライスバーガーが出すささやかなものだった。
しかし、被災後9人しか残っていなかった集落の夏祭りに20人以上が集まり活況を呈した。地元の方が「なかなか集まれなかったから良いもんや」と笑顔で語っていたのが印象に残った。厳しい状況の中でも人が集まる機会となる祭りの意義を改めて強く感じた。
9月中旬、再び輪島を訪れた。福祉避難所「ウミュードソラ」で暮らしていた宮腰さんと久しぶりに仮設住宅で再会を果たした。寿司職人を長らくされていた彼は、1月の福祉避難所で、自宅から持ってきた寿司桶を使って稲荷寿司を振る舞ってくれた。私も1貫ご馳走になった。
その思い出話から始まり、二次避難で行った富山県高岡市でも寿司を振る舞った話を聞かせてもらい、その時に取材を受けた記事を見せてもらった。「福祉避難所で出会った人がまた会いにきてくれるのが嬉しい」と話す一方で、「仮設住宅に移ってから周りの人とは全然話す機会がない」と語っていた。「今度は酒を持って泊まらせてもらいに来ます」と約束をしてその場を去った。1週間後、能登を襲った豪雨でその仮設住宅も腰の高さまで浸水した。
10月上旬、豪雨に見舞われた後の輪島を初めて訪れた。市役所の対岸の浸水した地域は泥がところどころに残り、ヘドロの匂いが立ち込めていた。豪雨1週間前に伺った仮設住宅は全員が避難し、宮腰さんは再び福祉避難所に暮らしていた。浸水後、警察に救助され、病院、小学校を転々とし再び福祉避難所に行き着いた経緯を教えてくださった。「(福祉避難所にいると)人とは話すが、やはりプライベートな場所が確保される仮設の方が良い」と話しながら、手持ちの栄養補助食品を勧めて私を来客としてもてなしてくださった。年明けまでには再び仮設に戻れそうだと前を見据えていた。
翌日は中村さんの紹介で、輪島市町野町にある広江歯科の泥かきに急遽参加した。本来は家の基部より数十cm低いはずの裏庭に、山からの土砂が流入し、中庭から裏庭への排水溝が機能しなくなっていた。リベルタ能登の深川さん、そしてオレンジの西出さんと共に裏庭の水がはけるように水路を掘り進めていった。ヘドロは非常に重く、作業は困難を極めた。地震を受けて建物を再建したところで豪雨被害を受けた広江歯科の方は「12月には再開するつもりで進めていたがどうなることか…」と言葉を失っていたが、その後予定通りに12月に再開されたニュースを見て、驚くと同時に心から嬉しく思った(2)。
この1年、最も驚かされたのは中村さんをはじめとする能登の皆様の力強さだった。特に一番お世話になった中村さんは、その存在がなければ、何人分もの健康の回復・心の復興がさらに遅れていただろうと思う。そして私が上記のような様々な現場に接することができたのもひとえに中村さんのご縁のおかげである。
中村さんのオンラインでの講演を伺った際に心に残った言葉がある。「ふるさとで生きていくのを支える、ではなくどこでも生き抜ける力をつけてもらうのが大事」。私は訪問診療を始めて9ヶ月、「慣れ親しんだ家で過ごしたい」という思いを実現させることがコアな価値として認めていたが、それがあっけなく奪われる災害を前にして必要なのは、まさに状況に合わせて生き抜く力だろう。それぞれの場所で奮闘する能登の皆様の姿がそれを教えてくれた。