医療ガバナンス学会 (2025年3月25日 09:00)
ほりメンタルクリニック
院長 堀 有伸
2025年3月25日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
淡々と一日クリニックで外来を行って終わり。やはり数名、この時期に震災のことを思い出して具合が悪くなる方はいた。それでも、その強さは年々和らいでいるように思う。自分の方の力みや思い入れの強さが、はっきりと弱くなった。変にたかぶらずに済むのはよい。
簡単に自己紹介をしたい。平成9年に東大医学部を卒業して、精神科医になった。いろいろと考える方で、精神医学の中でも、哲学的な議論や精神分析などに興味を持ったし、当時は精神医学の中でもそういう分野の影響力が強かった。それと関連した勉強をしながら、東京中心に大学病院精神科、精神科病院、総合病院精神科などに勤務した。精神科の長期入院の問題や、経過が思わしくないうつ病の患者さんたちのことを考える中で、社会に対して批判的な見方が強まっていった。
平成23年に東日本大震災・原発事故が起きた。衝撃的だったが、直後には落ち込むばかりで動けなかった。それでもようやく秋になって、友人らの縁で福島県の相双地区を訪れた。そこで見聞きしたことが、あまりに衝撃的だった。大学病院に哲学的な精神医学の居場所もなくなっていた。
平成24年4月から、福島県南相馬市に移住し、震災での休業を経て再開を目指す精神科病院で勤務を始めた。そこに3年と少し勤務した。大変多くの人にお世話になった。意外なことに、在職中にもっとも多く診た入院患者は、認知症による行動異常が強い人々だった。弱者に災害の影響は強く現れる。震災による環境の激変になんとか抗っていた人々が、年ごとに力尽き、事例化していったのを見ている気持ちだった。その頃から、「認知症・高齢者への対応を手厚く行うべき」と発信したが、当時はあまり顧みられなかった。他にもいろいろな話題があったので、埋もれたのだろう。
平成24年の移住直後に、原発から20km圏内の避難指示が出ている地域への一時立ち入りが許可された。すぐに、荒れ果てた故郷を間近にした方が自死したニュースが入った。これに対してなんとかしなければならない、と思った。当時は今よりもFBのようなSNSの良い面が現れていたと思う。そこでの呼びかけに多くの人が応答してくださり、自殺予防など地域のメンタルヘルスのために活動する団体が立ち上がった。地域の人と一緒に3年ほど継続したラジオ体操は、喜ばれた。
自殺予防にコミュニティ・モデルというものがあり、孤立すると人は自死を含めたメンタルヘルス上の問題を生じやすくなる。だから、コミュニティのつながりが、メンタルヘルス面での対策として重要と訴えたところ、強い支持を受けることができた。
ところが勤務医以外の社会経験がほとんどないことの力不足がここで明らかになった。みんなのとなり組という名前でNPO法人にしたのだが、その後は法人としての活動の形式を整えることに苦心することになった。次第に、活動のために集まってくれたメンバーとの距離が遠くなり、ついに解散することになった。いろいろな人に迷惑をかけてしまったと悔いることが多い。
震災で移住した頃から、日本社会の問題点と考えていた内容を、原発事故との関連で論じる文章をネット上で発表し、それなりの反応があった。『日本的ナルシシズムの罪』(新潮社)や『荒野の精神医学』(遠見書房)などの書籍を出版し、MRICや講談社現代ビジネスなどの媒体にも考えを発表できた。これは最近まで続けて、書き切った感触を持っている。社会批判は重要であるし、意味のあることを書いてきた自負もある。しかし批判を軸に発言を行っていると、自身の手元のNPO法人や診療所の経営まで難しさが出ることを感じていたので、卒業できたことを嬉しく思っている。
批判を軸に発信を続けると、やがて批判の対象が無くなれば支持も失われる。すると、周囲には権威批判を続ける人が増え、創造的な行為は難しくなる。自分自身も批判の矛先を向けられないよう、次の批判対象を探し続けることになってしまう。
いろいろあって、南相馬市内の精神科病院を辞めた。この事情は、20年くらい経過したら話してもよいかもしれないと思っている。
その後どうするか考えた。まだ地域は立ち直っていることからは程遠いことを感じた。お金を他所から出してもらう活動には、結局は自由がないという思いが強かった。そこで、地域の有力な方のご支援もいただけることになり、南相馬市鹿島区に2016年4月にほりメンタルクリニックを開業した。こちらも、多くの方々に助けていただいた。
開業した後に、グロービス経営大学院に入学するという決断をした。ずいぶんと大変だったが、卒業した。開業した後に「自分は、ここを潰すのではないか」と不安が高まったからだ。NPO法人の代表をしていた頃、良い感じで社会的な事業を展開している方々の仕事に触れたことがあったのだが、そういった人々は当たり前だけれど経営のことをしっかりとわかっていた方々だった。自分はそれと比べるとスタートラインにすら立てていないと悟った。
入学した後も大変で、生まれてはじめて財務三表を見て、呆然とするところからのスタートだった。マインドが違っていた。そもそも「利益を上げる」ということに罪悪感を持ち過ぎるところの矯正から必要だった。それまで積み上げてきたものと経営の勉強は、「火の呪文と水の呪文を同時に唱えてはならない」といったレベルで頭と心の中でぶつかることがあった。ずいぶんとクラスで頓珍漢な発言をして先生やクラスメイトを困らせたと思う。それでも、受け止めてくれた皆様に感謝している。何とか卒業したので、一応MBAホルダーではある。
PTSDの重症例の治療を担当する立場となり、それに対応するための認知行動療法の一種である持続エクスポージャー法と出会ったことも大きな転機だった。関連する研究機関や学会の先生方のご指導をいただいた。自分の治療実践の軸足は、現在では、精神分析的なセンスのものから認知行動療法の技法を意識したものに移っている。
それ以前の私が習った精神療法では、頑ななほどに患者さんに具体的な指示や直接的な共感を示すことに慎重だった。これは、フロイトの自由連想やロジャーズの来談者中心療法の影響があったと想像している。医者が直接的な指示や支援を行うことで、治療者の権威が患者さんの主体性を抑圧することになると考えていたのだと思う。
しかし、自分が患者の立場だったらどうだろう。経験の少ない領域で困った事態になり、その分野の専門家に相談した場合には、いろいろと直接的に教えて指示して欲しいのは当然ではないだろうか。それにある程度は応えるかのように、認知行動療法では、かなり積極的に病気や治療技法について説明するし、治療者がしっかりとセッション中の時間の使い方を構築してリードする。
その後持続エクスポージャー法だけではなく、広く幼少時期からの出来事のパーソナリティー全般への影響を、認知行動療法の技法を軸に他の技法も統合してアプローチするスキーマ療法という技法に出会い、現在はこれを習得すべく励んでいる。
普通の医学論文を書くことも、遅ればせながら福島に来て身につけつつある新しい習慣である。私が修行をはじめた頃の精神科では、特に東大では、研究論文を書くなどは患者さんを利用して搾取することだ、くらいの批判的な意見を持っている先生も少なくなかった。当然、福島に来た時の私には、論文を書くスキルは全くなかったし、今でも全くたいしたことは無い。それでも勉強し直そうと思ったのは、目の前で坪倉先生や尾崎先生のような福島に入った東大の先生方がものすごい勢いで論文を書いているのを見て、「ああ、こういうことも必要で大事なのだ」とようやく気づいたという事情がある。
移住直後、放射線の健康影響に対して漠然とした不安を抱えていた。しかし、坪倉先生方の研究でホールボディーカウンターのデータが示され、客観的なエビデンスが明らかになった。その瞬間、自分自身も周囲も不安が和らいだ。この経験は、私にとって極めて大きなものだった。
エビデンスの力は、本当に大きい。
社会活動家になりたいという夢も、自分のどこかにあったのだと思うが、これは終わったことを最近つくづく納得した。一部の反原発運動の活動家が、鼻血が出ているなどと被災地での放射線被害を喧伝した時に、私はそれを激しく批判した。そんなことをしたら活動自体が社会から信用されなくなるだろうという思いだった。しかし、彼らは聞く耳を持たないし、そういう層に受ける発言ができないと、あの業界では生きていけないのだと、その後の数年でよく分かった。
一時期は「被災地で頑張る精神科医」としてメディアで取り上げられたことも続いたのだが、私は、今ではその分野ではいなかった人になっている。「経営も成り立つようにしないと」などと書いているのも、あの業界的にはアウトだろう。
終わってよかった、と思う。
そもそも、私は不用意な発言が多く、社会活動の場には向いていなかったのだろう。
通常の精神科臨床の場で、自分が足りないことに気づいた点を学び直しながら、しばらく静かに目の前の仕事に取り組んでいきたいと考えている。
拙文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
多