医療ガバナンス学会 (2025年4月7日 09:00)
空港バスで天文館に降り立った瞬間、「鹿児島は何か違う」と直感した。これまで訪れたどの地方都市よりも活気があり、人通りも多かった。しかし、それだけではない、言葉では説明し難い独特の雰囲気があると感じた。その正体を探ることを、今回の「地域実習」のテーマとした。
鹿児島を訪れるのは9年ぶりである。中学の修学旅行で知覧を訪れて以来のことだ。今回はさらに奄美大島にも足を延ばした。奄美大島は択捉島、国後島、沖縄島、佐渡島に次ぐ日本で5番目に広い島であり、明治以前は薩摩藩に支配されていた。薩摩は黒糖の密輸出によって多くの富と武器を蓄え、それが明治維新の原動力となったことはよく知られている。しかし、実際には密貿易は奄美だけでなく、他の地域でも行われていた。
「地域実習」の最後には、加治木島津家第十三代当主・義秀先生、久崇先生親子が主催する鹿児島ツアーに同行させていただいた。総移動距離は400kmを超え、訪れた場所は多岐にわたるが、その中でも特に印象的だったのが坊津である。
坊津が密貿易の拠点であったことは、今回初めて知った。「なぜこんな辺鄙な場所で?」と思うかもしれないが、よく考えると坊津はアジアの中心に近い。一方で、江戸は日本の中心でありながら、アジアの視点では極東に位置していた。明治期に東京奠都が決定された際、「江戸は帝都とならざれば市民四方に離散して寥々東海の寒市とならん」という判断があったことも、京都生まれの者として付け加えたい。
坊津歴史資料センターには、一乗院が所蔵していた仏具なども展示されていた。一乗院はかつて坊津に存在し、江戸時代には島津家の尊崇を受けた仁和寺の別院であった。しかし、明治政府による廃仏毀釈の際、薩摩藩は他藩に示しをつけるために率先して仏教寺院を破壊した。私は真言宗の学校である洛南高等学校を卒業しており、この歴史を知ったことで親近感を覚え、学校で学んだことを思い出しながら解説パネルを読んだ。
薩摩は鎖国下においても琉球や奄美、坊津を通じて密貿易を行い、外国の情報や物資を得ていた。それだけでなく、薩摩には400年近く覇権を争った大隅の肝付家から野太刀自顕流を学ぶ謙虚さがあり、薩英戦争後には英国へ密留学する大胆さも持ち合わせていた。これらの要素が融合し、結果として明治維新を成し遂げる原動力となったのだ。
今回の実習を通じて、鹿児島の独特な雰囲気の背景には、このような歴史が刻まれていることを実感した。薩摩の歴史と文化に触れたことで、単なる観光では得られない深い学びを得ることができたと感じている。