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Vol.25061 白内障と闘い色彩を取り戻した画家〜クロード・モネ〜 芸術の中の医学①

医療ガバナンス学会 (2025年4月4日 09:00)


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谷本哲也

2025年4月4日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

●日本人に今も愛されるモネ
フランス人画家オスカル=クロード・モネ(1840–1926)は、たとえ芸術の知識がノートの隅に描いた落書き程度だったとしても、おそらく一度は聞いたことのある名前ではないでしょうか。「あの睡蓮をたくさん描いた人だ」と覚えているかもしれません。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Claude_Monet,_French_-_The_Japanese_Footbridge_and_the_Water_Lily_Pool,_Giverny_-_Google_Art_Project.jpg

「印象派」と聞いてモネの名前を思い浮かべる方もいることでしょう。でも、モネが絵筆の天才というだけでなく、病を押して創作に取り組んでいたことをご存知でしょうか?彼は最晩年まで白内障と闘いながら画業に打ち込み、その意志の強さは難聴の苦難の中で作曲に取り組んだルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンにも比肩できるほどなのです。

モネの死後、時代が進んだ2025年の今でも、その遺産は日本でもしっかりと息づいています。東京都上野にある国立西洋美術館では、昨冬に展覧会「モネ:睡蓮のとき」が開催され、美術愛好家も気軽な来館者もこぞって足を運び大きな賑わいを見せました。
https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2024monet.html

また、埼玉県所沢市の角川武蔵野ミュージアムでも、体験型プロジェクション・マッピング展「モネ イマーシブ・ジャーニー 僕が見た光」が開催されていました。まるでモネの絵の中に入り込んだような体験ができ、色彩と光が渦巻く空間を楽しめる展示です。これなら、視界がぼやけがちなモネ自身も驚くことでしょう。私も両方の展覧会に足を運びましたが、パリ北西へ電車で1時間ほどの郊外にあるジヴェルニーで、まるでモネと一緒に週末を過ごしたかのような気分で帰途につきました。
https://kadcul.com/event/192

●モネと日本
モネと日本のつながりは、彼の没後1世紀を経た現代の展覧会にとどまりません。彼自身が生涯を通じて、日本美術に深い関心と敬意を抱いていたことは広く知られています。特に19世紀後半、ヨーロッパでは“ジャポニスム”と呼ばれる日本文化ブームが巻き起こり、多くの芸術家たちが魅了されましたが、モネもその熱心な支持者の一人でした。

ジヴェルニーにあるモネの自宅を訪れると、そこには葛飾北斎や歌川広重をはじめとする江戸時代の浮世絵が壁という壁にびっしりと飾られ、まるでギャラリーのような空間が広がっていたそうです。そのコレクションには200点を超える浮世絵が含まれ、審美眼と情熱の深さを物語っています。浮世絵の大胆な構図や平面的な色彩、自然や季節の移ろいを詩的に表現する感性は、印象派を代表するモネの作風にも大きな影響を与えました。特に、遠近法を排し、画面全体にリズムを生むような構成は、彼の連作「睡蓮」などにそのエッセンスが見て取れます。

また、モネが自ら設計した庭には、「日本風の太鼓橋」や池があり、彼はここを理想の風景画のモデルとして繰り返し描きました。その橋は、まるで異国の静謐な庭園に足を踏み入れたかのような趣があり、モネの作品の中でも象徴的なモチーフとして数多く登場します。

もしモネの時代にインスタグラムが存在していたならば、彼のフィードは「#ジャポニスム」「#浮世絵」「#太鼓橋」などのハッシュタグで溢れ、世界中のフォロワーを魅了していたことでしょう。日本への情熱をアートに昇華させたモネのまなざしは、今なお私たちに異文化をどう愛し融合させるのかを問いかけているのかもしれません。

●白内障:モネの世界が黄色に染まったとき
話をモネの白内障との闘いに戻しましょう。1904年、64歳ごろから症状が出始め、72歳のとき、モネは両目に白内障があると診断されました。白内障という病気はご存知でしょうか?高齢者に多い疾患で、目の中のレンズ(水晶体)が白く濁ってしまい、視力が障害されてしまうものです。汚れた窓ガラスを通して見るような視界を考えてみると景色はどう見えるでしょう。しかも、その窓ガラスが自分の目そのものなのです。

白内障を患うと一般人でも大変ですが、画家モネにとって、これは単なる不便では済まされませんでした。彼の芸術は、色彩、光、そして細部を見分ける力にかかっていたからです。輝く青で描かれた睡蓮を制作している最中に、すべてがくすんだ黄色に変わってしまうというのを想像してみてください。それがモネの直面した現実でした。

白内障発症の前後で彼の作品を比較すると、その変化がよくわかります。「睡蓮の池と太鼓橋」の連作を見てみましょう。59歳のモネが描いた橋は、緑と青の美しさが際立ち、生命力に満ち溢れた傑作です。しかし、70代後半に描かれた同じ橋は、黄色やオレンジ、茶色が色彩の主調を占め、ぼやけた風景となっています。モネは抽象表現に挑戦していたのでしょうか?そうではありません。彼は見たまま、いや、白内障に遮られた視界が許す限りのものを描いていたのです。

●当初は「手術?いや、遠慮しておく」と言ったモネ
困難を抱えながらも、モネは最初、手術を受けることに頑固なまでに抵抗しました。正直なところ、100年前だったら皆さんも同じ気持ちになるのではないでしょうか?20世紀初頭の手術は、現代の白内障外来手術のような気軽なものではありませんでした。

当時の白内障手術は、目のレンズである水晶体を完全に取り除くもので、その後は極厚の「瓶底眼鏡」に頼らなければならなかったのです。また、術後感染症に対する衛生・合併症管理も不十分なものでした。モネにとってこれは魅力的な選択肢ではなく、長年にわたって手術を避け続けました。

82歳になるころには、モネの右目はほとんど失明状態、左目もほとんど機能していない状態となりました。それでも彼は筆を持ち続けました。ベートーヴェンが聴力を失っても作曲を続けたように、モネが見えないまま絵を描き続けた覚悟が晩年の作品群に表れています。この決意は賞賛に値しますが、どこか悲壮感も漂います。キャンバスをじっと見つめながら、「これ、青かな?違う?まあ、似たような色だろう」とつぶやくモネを想像するのは難しくありません。実際、私も方々の展覧会でモネの晩年の作品を目にする機会がありましたが、その抽象絵画のような色彩や筆致に痛々しい感じを受けたものです。

モネは1918年に自身のノートにこう書き記しています。「かつてのように色を鮮やかに見ることができなくなった。」「赤は鈍く、ピンクは色褪せ、そして見分けがつかなくなった色もたくさんあった。」

●政治家クレマンソーとクーテラ医師の助けを借りて
ついに1922年、フランス首相でもあったジョルジュ・クレマンソー(1841-1929)という親しい友人が、モネを説得して手術を受けさせることに成功しました。そして登場したのが、当時の名眼科医シャルル・クーテラ医師(1876-1969)です(この医師については、別の連載でまた取り上げたいと思います)。

1923年、モネの右目の数回にわたる手術は成功しましたが、即座に視力が回復したわけではありませんでした。モネは、まるで異世界に足を踏み入れたかのような新しい色彩を経験しました。「白内障のある目ではすべてが黄色く見え、手術を受けた目ではすべてが青みがかって見える」ようになったという逸話が残されています。現在のような人工レンズによる置換技術が当時はなく、術後の視力補正にはカール・ツァイスの眼鏡も使用されたそうです。
https://www.zeiss.com/corporate/en/c/stories/insights/zeiss-glasses-for-claude-monet.html

この新しい「二重の視界」は、彼の作品にインスピレーションを与えました。たとえば、「バラの庭から見た家」(1923年頃)は、現在パリのマルモッタン・モネ美術館に収蔵されています。この作品をじっくり見ると、モネが二つの現実──片方の目が見る黄色い過去と、もう片方の目が見る青い未来──に向き合う様子を感じ取ることができるでしょう。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Artist%27s_House_Seen_from_the_Rose_Garden_by_Claude_Monet_5087.JPG

●飛躍的に進歩した現代の白内障手術
モネの時代においては、白内障手術はまだ発展途上にあり、非常に高いリスクを伴うものでした。しかし現代においては、その手術は驚くほど進化を遂げています。医学の進歩によって、現在の白内障手術は迅速で安全、そして非常に効果的な治療法となっています。中心的な技術である「超音波乳化吸引術」は、専用の器具を用いて濁った水晶体を超音波で細かく砕きながら吸引し、視界を曇らせる原因そのものを取り除きます。そしてその後に挿入されるのが、人工の眼内レンズ(IOL)です。

このIOLは単なる代替品ではなく、患者の生活スタイルや希望に応じて選択できる多様なタイプが存在します。遠くが見やすいもの、近くが見やすいもの、あるいは遠近両用の多焦点レンズなどがあり、白内障手術は視力矯正も同時に叶えることができる、まさに一石二鳥の医療行為となっています。こうした背景から、白内障手術は世界中で最も多く行われている外科手術のひとつに数えられるのも納得です。

日本では、印象派の巨匠クロード・モネの芸術が深く親しまれていると同時に、白内障手術も広く普及し、日常的に行われています。国内の医療機関では、患者自身が自分に合ったIOLを選択できる体制が整っており、その選択肢の豊富さには目を見張るものがあります。手術に対する安全性も確立されており、術後の視力回復率や満足度も非常に高い水準にあります。

私は内科を専門としているため、眼科手術の専門家ではありませんが、実際に手術を受けた患者さんたちからお話を聞く機会があります。「見える世界が一変した」と、その感想を述べられ、まるで新しい人生が始まったかのような印象を持たれることが少なくありません。モネが晩年に直面した視覚の不自由さや、それに伴う芸術的苦悩を思うと、現代の医療がどれほど人々の生活の質を高めているか、あらためてその凄さに気づかされます。今や、私たちは晩年のモネが夢見たであろう「鮮明な世界」を、手術によって簡単に取り戻すことができる時代に生きているのです。

●なぜモネの物語が今も重要なのか
モネの物語は、単なる白内障と戦った芸術家の話ではありません。それは、逆境に耐え、適応し、身体的な制約を超えて芸術を追求した物語です。視力が衰えても、モネは絵筆を置きませんでした。むしろ、自らの状況に適応し、周囲の世界だけでなく、自身の内面的な葛藤をも映し出す作品を生み出しました。何があってもあきらめずに進むことの尊さを教えてくれているのです。

モネは最晩年まで創作を続け、1926年に肺疾患のため86歳で永眠しました。最後まで制作に挑んだ「睡蓮」の大装飾画は、テュイルリー公園内のオランジュリー美術館に収められています。
https://www.musee-orangerie.fr/fr/collection/les-nympheas-de-claude-monet

そして2025年の今でも、その物語は多くの人々にインスピレーションを与え続けています。上野の伝統的な展覧会でも、所沢の没入型プロジェクションマッピングでも、モネの遺産は「芸術に国境はない」ということを証明しています──たとえ視界がぼやけていたとしても。次に彼の絵を目にしたとき、忘れないでください。その一筆一筆の背後には、白内障が彼の世界を曇らせても、決して屈しなかった一人の男の物語があるのです。

クロード・モネは、単なる印象派の画家ではありませんでした。あらゆる意味で「ビジョナリー」でした。白内障との闘い、手術、そして鮮やかな色彩への復帰は、創造性がいかに逆境の中で花開くかを思い出させてくれます。私たちは彼の作品を、その美しさだけでなく、語られる素晴らしい物語と共に鑑賞することができます。

モネはかつてこう言いました。「私は自然に従っているが、彼女を把握することはできない……画家になったのは花のおかげかもしれない。」視力が衰えても彼の情熱が揺るがなかったのは、彼らしい結末と言えるでしょう。

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