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Vol.25060 北方領土について

医療ガバナンス学会 (2025年4月3日 09:00)


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元順天堂大学医学部血液内科
押味和夫

北方領土とは、北海道の北東洋上に位置する歯舞(ハボマイ)群島、色丹(シコタン)島、国後(クナシリ)島、択捉(エトロフ)島の四島のことです。
先日、北海道根室市の突端にある納沙布(ノサップ)岬から、歯舞群島の貝殻島の灯台を見ました。この貝殻島の灯台は納沙布岬から 3.7 km しか離れていません。この灯台は日本が88年前に立てたのですが、今はロシアが不法占拠してますので、我々日本人は立ち入ることができません。日本本土のすぐ目の前にある日本人が立てた灯台ですので、残念で複雑な思いでした。
このMRICでは、納沙布岬や根室市などにある4つの資料館でもらった北方領土関係の資料、とくに 「北方領土問題対策協会」 の 「北方領土・・・四島想い、心に点す、返還の火」 を中心に、北方領土の話をさせていただきます。俄か勉強ですので間違っている箇所も多いと思いますが、そのときはご指摘ください。

●北方領土とは
次の2つ地図をご覧ください。北方領土は、北海道の北東洋上に位置する歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の四島をいいます。この四島がどれだけ広いかといいますと、全部合わせて福岡県に匹敵する広さになります。択捉島や国後島は、沖縄本島や佐渡島、淡路島よりも広いです。

http://expres.umin.jp/mric/mric_25060-1.pdf

http://expres.umin.jp/mric/mric_25060-2.pdf

北方領土は四島から成ると述べましたが、歯舞群島には5つの島がありますので、実際は四島よりも多いです。でも歯舞群島の5つの島に貝殻島は含まれません。なぜなら、海洋法に関する国際連合条約によりますと、島の定義の1つが高潮時(満潮時)でも水面上に出ている必要がありますので。ところが貝殻島は満潮時には灯台の下の岩礁は見えなくなりますので、島とは言えないのです。貝殻島は肉眼でもはっきり見えましたが、双眼鏡で見ますと灯台だけで、下の岩礁は見えませんでした。ちょうど満潮時だったのでしょう。次の2枚の写真をご覧ください。灯台の背後には、歯舞群島の1つの水晶島がうっすらと見えます。デジカメの撮影では限界がありますが。

http://expres.umin.jp/mric/mric_25060-3.pdf

http://expres.umin.jp/mric/mric_25060-4.pdf

●北方領土問題とは
今年は、太平洋戦争終結後80年です。北方領土に住んでいた日本人が突然ロシア軍兵士に追われて80年になります。北方領土がロシアに不法に占拠されてから80年です。
この貝殻島の灯台は、88年前の1937年(昭和12年) 4月に日本人によって立てられました。灯台は老朽化してるためか少し傾いていて、コンクリートは至る所で剥げ落ちています。しかしロシアが占拠していますので、日本側は手が出せません。ときにはロシア側がロシア国旗を掲げながら修理しているそうです。
同じ北方領土の国後島は、対岸の北海道本島の標津(シベツ)の海岸から見ますとすぐ目の前に見えますが(次の写真をご覧ください)、16 km も離れています。貝殻島の方がはるかに日本本土に近いのです。
全国の高校生諸君は、修学旅行でぜひ納沙布岬を訪れて北方領土を見て欲しいものです。

http://expres.umin.jp/mric/mric_25060-5.pdf

●北方領土問題の歴史的背景
北方領土問題についてご理解いただくには、その歴史を述べるのがいいでしょう。
北方領土は、日本がロシアより早くその存在を知り、多くの日本人がこの地に渡り生活し、父祖伝来の地として受け継いできました。1855年(安政元年)2月7日、日本とロシアは日魯通行条約を結び、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま国境にしました。次の地図が、日魯通行条約のときの国境です。

http://expres.umin.jp/mric/mric_25060-6.pdf

1875年(明治8年)の樺太千島交換条約では、日本は次の地図に示しますように、ロシアから千島列島を譲り受けた代わりに、樺太全島を放棄しました。この条約には、日本に譲渡された千島列島の18の島の名前が全て記載されてあるそうですが、この島名のなかに北方四島は含まれていないとのことです。

http://expres.umin.jp/mric/mric_25060-7.pdf

1904~05年(明治38~39年)の日露戦争で、日本軍はおびただしい数の戦死者を出しながらも、辛うじて旅順港と満州を占領し、最後は圧倒的な勝利でバルチック艦隊を撃破しました。アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に仲介を依頼した1905年の日露講和会議(ポーツマス条約)では、ロシアの頑なな抵抗に遭いながらも辛うじて北緯50度以南の南樺太を日本の領土にしましたが、倍賞金は得られませんでした。この条約に不満を持った国民は、日比谷焼討ち事件などの大規模な暴動を起こしました。
次の地図に、ポーツマス条約時の日本とロシアの国境を示します。

http://expres.umin.jp/mric/mric_25060-8.pdf

その後の北方領土問題ですが、第二次世界大戦・太平洋戦争(大東亜戦争)の末期に大きな動きがありました。次の樺太・千島列島・北方領土の地図をご覧ください。樺太を除く地域でのソ連軍の動きが描いてあります。

http://expres.umin.jp/mric/mric_25060-9.pdf

アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、太平洋戦争で日本を降伏させるにはソ連の対日参戦が有効と考えていました。1943年10月、ルーズベルトはポーツマス条約でロシアが失った南樺太及び1875年(明治8年)の樺太千島交換条約で平和裏に領域全体の日本領有が確定した千島列島をソ連領として容認することを条件に、ソ連に参戦を要請しました。
1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談で、ソ連は対日参戦を約束。同年4月にソ連のモロトフ外相は、1941年(昭和16年)に締結され5年間の有効期間を持つ日ソ中立条約の延長を求めないことを日本政府に通告。同外相は、同年8月8日、クレムリンに佐藤駐ソ大使を呼び、8月9日から日本と戦争状態に入ることを通告し、宣戦布告しました。佐藤駐ソ大使は、宣戦布告を直ちに東京に打電しましたが、この公電は日本に届かず、日本政府はソ連の宣戦布告を知ることができずに、8月9日未明、ソ連極東軍はソ連と満州の国境などで総攻撃を開始しました。これは日ソ中立条約の有効期限内(1946年4月25日失効)のことでした。
樺太では、ソ連軍が8月11日に北緯50度の国境を越えて侵入したため日本軍と戦闘になり、8月25日に大泊(コルサコフ)占領をもって終わりました。
ソ連軍は、8月18日未明に、千島列島最北端の占守(シュムシュ)島への上陸作戦を開始。日本軍の守備隊の本部が置かれている島北部の四嶺山(シレイサン、標高171 m)付近で日本軍と激戦になり日本軍優勢に推移するものの、軍命により21日に日本軍が降伏し停戦が成立し、23日に日本軍は武装解除されました。
その後ソ連軍は、25日に松輪(マツワ)島、31日に得撫(ウルップ)島の順で、日本軍の降伏を受け入れながら占領。南千島占領も別部隊により進められ、8月29日には択捉島、9月1日〜4日には国後島・色丹島の占領を完了しました。歯舞群島の占領は、降伏文書調印後の9月3日から5日のことです。
話は戻りますが、ポツダム宣言についてです。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月26日にイギリス、 アメリカ合衆国、中華民国の政府首脳は連名で、日本に対して全13か条で構成されるポツダム宣言を発しました。日本への降伏要求の最終宣言です。ソビエト連邦は後で加わり、これを追認しました。
日本政府は1945年8月14日にポツダム宣言を受諾し、翌8月15日に終戦詔書が発布されましたが、8月16日、大本営は大陸令第1382号により、陸軍全部隊に対し 「即時戦闘行動を停止すべし」 と命じましたが、「止むを得ざる自衛の為の戦闘行動は之を妨げず」 と自衛戦闘については除外しました。その後、大本営は停戦命令を段階的に強化し、25日に自衛戦闘を含む一切の戦闘行為を禁止しました。
樺太では23日、千島列島では8月末までに戦闘を停止。満洲では命令伝達の困難から、8月末まで戦闘が継続しました。日本政府は9月2日に連合国への降伏文書に調印し即時発行に至り、太平洋戦争は終結しました。ソ連軍は日本と連合国が降伏文書へ調印した9月2日の後も北方領土での戦闘を継続し、9月5日にようやく一方的な戦闘攻撃を停止しました。

●第二次世界大戦・太平洋戦争のあとの歴史
1951年(昭和26年)、連合国48か国と日本との間にサンフランシスコ平和条約が締結されました。この条約を批准した連合国側は、日本国の主権を承認し、日本と連合国との戦争状態を終了させました。しかしソ連などの一部の国は、会議に出席はしましたが、アメリカ軍の駐留継続に反対する立場から、サンフランシスコ平和条約には署名しませんでした。
日本はこの条約で、千島列島と南樺太の権利、権原及び請求権を放棄しました(次の地図をご覧ください)。しかし、日本が放棄した千島列島の範囲について、択捉島・国後島を含むか否かについて、解釈上の相違があります。
サンフランシスコ平和条約への署名を拒否したソ連との国交正常化交渉は、1955年3月に開始されました。交渉は北方領土問題で難航し、翌年3月に交渉は決裂。ソ連は北海道北方の海域に漁業制限区域を設け、日本の漁船を締め出し、拿捕や漁民の連行を繰り返し、日本の水産業に大打撃を与えました。
しかしソ連との国交回復と国際連合加盟を自らの政権の中心課題とする鳩山一郎首相の熱意は強く、モスクワへ渡った河野一郎農林大臣とニコライ・ブルガーニン首相とのタフネゴシエーションの結果、日ソ漁業条約が結ばれ、これが国交正常化への地ならしになりました。
焦点の北方領土問題は、まず国交回復を先行させ、平和条約締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を日本に譲渡するという前提で改めて平和条約の交渉を実施するという合意がなされました。
同年10月にモスクワで、鳩山・ブルガーニン両首相が日本国とソ連との共同宣言に署名し、これによって両国の国交が回復し外交関係も正常化し、法的にも両国間の戦争状態は終結しましたが、国境確定 (北方領土問題) は先送りされました。共同宣言では 「引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡す」 と明記されましたが、択捉島および国後島の返還をも求める日本との間で平和条約交渉は停滞してしまいました。
その後も、日本国総理とロシア大統領との間で、四島の帰属問題を解決して平和条約を締結するとの共通の認識は繰り返し確認されました。しかしその後、ご存じのように、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった2022年に、情勢は一変してしまいました。

http://expres.umin.jp/mric/mric_25060-10.pdf

●北方領土からの引揚げ
北方領土では太平洋戦争中も島民は戦争による被害はなく、平穏で安定した生活を送っていました。しかし終戦直後のソ連軍の進駐は、島民にとっては夢にも思わない出来事となりました。ソ連軍兵士は自動小銃を肩にしながら民家に土足のまま立ち入り、時計や万年筆、衣類などのめぼしい物を略奪し、船舶は押収し、電話やラジオは破壊し、学校や無線局などの公共施設は占領しました。
島民のなかには、脅えた不安定な生活のなかで生きた心地もなくなり、ソ連軍の監視を逃れて北方領土に最も近い根室、別海、羅臼へ小舟で脱出する者も多数出ました。途中、荒波による遭難を避けるため、僅かな荷物も海に捨てて命からがら脱出した人、遭難し家族を失った人もいました。北方領土に残った島民は、ソ連の支配下で強制労働を強いられたのち、強制的に日本に引揚げさせられました。引揚者は5班に分けられ、ソ連貨物船により樺太の真岡に連行され、そこで日本からの引揚船を待ちました。その間に劣悪な環境での生活を強いられ、病弱な人のなかには病が悪化して亡くなった人もいました。
8月22日、北海道留萌沖の海上で、樺太からの疎開者を主体とする日本の緊急疎開船3隻がソ連軍の潜水艦の攻撃を受け、2隻が沈没し1,708名以上が犠牲になりました。
決して忘れてはいけないのが、シベリア等への抑留です。スターリンの命令により、戦争で荒廃したソ連復興に必要な労働力として60万とも70万ともいわれる軍人や一般の日本人が、強制的にソ連に連行され、零下40度を超える酷寒のシベリアをはじめとし、モンゴルや中央アジアなどソ連全域の収容所に送られました。これは、「武装解除した日本兵の家庭への復帰」を保証したポツダム宣言第9項や、捕虜の扱いを定めた国際法に明確に違反するものでした。

●北方領土問題についての政府の基本的立場と北方領土返還運動
北海道の北東洋上に連なる歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の北方領土は、日本人によって開拓され、日本人が住み続けた島々です。これら北方四島は、1945年(昭和20年) 8月の太平洋戦争終了直後ソ連軍により不法に占拠され、日本人の住めない島々になってしまいました。
北方四島は、歴史的にみても、一度も外国の領土になったことがない我が国固有の領土で、国際的諸取決めからみても、我が国に帰属すべき領土であることは疑う余地がありません。
北方領土問題とは、先の大戦後80年が経過した今もなおロシアの不法占拠の下に置かれている我が国固有の領土である北方四島の返還を一日も早く実現するという、まさに国家の主権にかかわる重大な課題です。
内閣府は、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島の早期返還の実現を目指して、外交交渉を支える国民世論の結集と高揚のための広報・啓発の充実、政府と民間が一体となった返還運動の全国的な発展・強化を図るとともに、北方四島との交流の推進など、北方領土問題解決のための諸施策を推進しています。
北方領土問題の解決のためには、ロシアとの外交交渉を粘り強く継続していく必要がありますが、この交渉を後押しする最大の力は、北方領土の返還を求める一致した国民世論です。このような国民世論の啓発に、長年にわたって重要な役割を担っているのが、官民の様々な主体による北方領土返還運動です。民間団体や地元の北海道の自治体が中心となって、署名活動や講演会など様々な取組が精力的に行われており、国民運動として全国的に展開されています。
政府においても北方領土の返還を求める国民世論をさらに結集するため、北方領土問題を政府広報の重要テーマとして取り上げ、テレビ・ラジオ・新聞・インターネットなどの各種媒体を通じて全国民を対象に広報活動を行っているほか、関係団体と連携して様々な取組を行っています。

●北方四島交流事業
1991年(平成3年)にソ連側から、元島民などの日本国民と北方四島在住ロシア人との相互交流を行うことが提案され、翌年から旅券(パスポート)・査証(ビザ)なしで、北方四島交流事業が開始されました。しかし令和2年度以降は、新型コロナウイルス感染症やウクライナ情勢の影響により、事業は実施されていません。

 

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