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Vol.25094 1863年のダイエットルール:葬儀屋ウィリアム・バンティング ~知られざる医学者列伝⑧~

医療ガバナンス学会 (2025年5月23日 08:00)


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谷本哲也

2025年5月23日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

●肥満体型への認識に対する歴史的変遷
かつて、肥満は繁栄の象徴だった。豊富な食事を享受できるのは裕福な者に限られ、主に近代以前では、多くの文化において過剰な体重が富と成功の証とされていた。

例えば、中国の唐代(618–907)では、ふくよかな体型が美の基準とされていた。当時の絵画や陶磁器には、裕福な生活と健康の象徴として、ふくよかで優雅な女性が多く描かれた。実際、楊貴妃(719–756)のふくよかさは美しさと権力の象徴として讃えられた。楊貴妃の身長は164 cm、体重は約70 kgであったという推定もあり、ボディマス指数(BMI)は26 kg/m2。現代なら過体重(世界保健機関の診断基準)か軽度の肥満(日本肥満学会の診断基準)に分類されることになる。

ヨーロッパでも、肥満は富と結びつけられていた。ルネサンス期の宮廷画や肖像画には、豊満な貴族や商人が描かれ、その体型は経済的成功と社会的地位の証と見なされていた。フランスの印象派画家、ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841–1919)も丸みを帯びた女性像を多く描き、その柔らかく健康的な体型は豊かさや女性らしさのアイコンとなった。

南太平洋のポリネシア文化では、大きな体は力と権威の象徴であった。トンガやサモアの伝統社会では、指導者や王族は大柄であることが尊敬の対象となり、豊かな体型は食糧を十分に得られる立場にあることを示していた。ディズニー映画『モアナと伝説の海』シリーズに登場するマウイのイメージそのままだろう。

英語の「肥満症(obesity)」の語源は、ラテン語の形容詞obēsusと名詞obesistasが関係する。「~に向かって」、「完全に」などの意味を持つ接頭辞「ob-」と、「食べる」の意味を持つ動詞 edere の過去分詞形(ēsus)が合成された語obēsus は、「食べ過ぎてふくらんだ」「過剰に食べた結果、太った」という意味となった。このように、語源からも「肥満した(obese)」 という単語には「過剰な食事によって肥満した」というニュアンスが含まれる。この語はフランス語を経由し英語に取り入れられ、1611年出版の仏英辞典にobesityの掲載が確認されている。次第に医学の文献や一般の書物でこの単語が使われるようになり、18世紀から19世紀にかけて医学的な概念として確立して行く。

●肥満から肥満症へ
すでに古代ギリシアのヒポクラテス(紀元前460-370頃)は、『箴言(Aphorisms)』の第2巻第44節で、「体質的に肥満の人は痩せている人よりも急死しやすい」と述べている。古代から、肥満と突然死リスクとの関連性はすでに認識されていたのだろう。しかし、飽食より、飢餓や栄養失調、感染症が死因として問題だった時代には、肥満の弊害はそれほど注目されていなかった。産業化と都市化の進展、寿命の劇的な伸びに伴い、肥満は糖尿病、心血管疾患、代謝関連症候群などの健康リスクと密接に結びつくようになった。

「肥満」は単に体脂肪が多い状態を指すが、肥満自体は必ずしも病気ではない。しかし、肥満によって健康に悪影響が出ている状態として、「肥満症」という概念が登場した。肥満から肥満症へと進行し、高血圧や糖尿病、心血管疾患、脂肪肝による肝障害、睡眠時無呼吸症候群などを引き起こすリスクが高まると認識され、肥満症の概念が確立し治療対象となったのだ。

こうした文化的・歴史的変遷は、肥満が単なる健康の問題ではなく、時代や社会によって異なる意味を持っていたことを示している。しかし、現代においては栄養過多と健康リスクが問題視され、肥満の意味合いも変化した。単なる生活習慣の問題ではなく、慢性疾患としての肥満症に対する理解が進む中で、医学的アプローチも大きく進化してきた。

2020年代、セマグルチドやリラグルチドなどのようなグルカゴン様ペプチド-1(GLP-1)受容体作動薬の薬理学的進歩が、体重管理に革命をもたらしている。これらの薬剤は、GLP-1ホルモンの作用を模倣し、インスリン分泌を促進し、胃排出を遅延させ、満腹感を高める。これにより、患者は比較的少ない副作用で大幅な体重減少を実現でき、従来の食事療法や運動療法に依存したアプローチとは異なる画期的な選択肢が提供され始めた。また、個人の問題ではなく、肥満をもたらす社会環境(obesogenic environment)がますます問題視されてきたのが昨今の潮流だ。

●肥満に対する食事療法の先駆者
しかし、つい最近までは、食事療法が肥満症に苦しむ人々の主な対策だった。肥満に対する食事療法の重要性をいち早く認識し、ヴィクトリア朝(1837–1901)の中盤から後期にベストセラー本を通じて世に知らしめた先駆者の一人がウィリアム・バンティング(William Banting: 1796–1878)である。彼は医師ではなく、イギリスの葬儀業者でありながら、自身の肥満との闘いを通じて、史上初の低炭水化物ダイエットの概念を普及させた。この方法論は、現代の多くの減量戦略の礎を築き、肥満管理の歴史における画期的な業績として位置付けられている。

バンティングは、ロンドン中心部のウェストミンスター地区セント・ジェームズ・ストリートで格式高い葬儀業を営む家系に生まれ、葬儀屋として成功を収めた裕福な事業家だった。一族が英国王室にも仕えるほど、その家業は社会的評価が高く、上流階級の一員だった。しかし、中年期に差し掛かるにつれ、健康上の問題が彼の私生活に深刻な影響を及ぼすようになった。

50代に入る頃には肥満のため階段を昇ることも難しく、社会的活動にも支障を来すほどの体型になってしまった。肥満に関連した合併症に悩まされ、歩行困難、慢性的な関節痛、重度の息切れといった症状が日常生活を大きく制約するようになった。かつて活動的であった生活は大きく制限され、バンティングは切実に解決策を求めるようになった。彼は60歳になる前にはすでに痛みのため靴ひもを結ぶこともできず、階段を降りる際には関節への負荷を軽減するために 後ろ向きに降りなければならなかった。

当時、肥満に対する治療法はほとんど知られておらず、彼自身もさまざまな医師の助言や治療法を試したが効果は得られなかった。当時の一般的な方法で、運動や入浴、マッサージなど様々な療法を試したが効果がなく、ほとんど効果を実感することができなかった。彼は医師から運動量を増やすように勧められたため、長距離を歩いたり、何時間もボートを漕いだりした。しかし、これによって食欲が増進し、かえって体重が増えてしまった。彼は50回のトルコ風呂 に入り、大量の薬を服用した。

それでも体重は減らず、身長 5フィート5インチ(約165 cm)で202ポンド(約91.6kg)、BMIは34 kg/m2のままだった。医師の指示に忠実に従っているにもかかわらず、状態が悪化していく現実に直面し、彼の不満は募るばかりであった。バンティングはこの現状を打破するため、より効果的な治療法を求めて新たな医療的助言を探し求めることとなった。

●ダイエット成功体験と『レター・オン・コープレンス』の出版
彼の人生を変えたのは、耳鼻咽喉科医のウィリアム・ハーベイ(1806–1876)との出会いだった(血液循環の発見で有名なイギリスの医師・生理学者ウィリアム・ハーベイ(1578–1657)とは別人)。彼が66歳のとき、難聴の相談でハーベイを訪ねたのがきっかけだった。1862年、ハーベイはバンティングの難聴と肥満には関連があると考え、炭水化物を制限し、脂肪やタンパク質を中心にした食事を摂取する食事療法を提案した。この療法は、当時の伝統的な栄養学の常識に反するものだったが、バンティングはこれを忠実に実践した。

ハーベイは、フランスの生理学者クロード・ベルナール(1813-1878)による炭水化物制限の代謝への影響に関する研究を学び、その知見を基に体重管理に対する見解を深めていた。ベルナールの研究は、糖尿病と炭水化物の代謝における役割を明らかにし、ハーベイに肥満管理の新たな視点をもたらした。これを踏まえ、ハーベイはバンティングに対し、デンプンや糖質を排除し、タンパク質と脂質を中心とした食事を取るよう助言したのだ。当時の主流医学が肥満の原因を栄養摂取と代謝のバランスではなく、体質や加齢、内臓の問題に求めていたが、「食事の内容こそが決定的である」としたのが画期的だったのだ。

ハーベイの指導のもと、バンティングが食生活に取り入れたのは以下のようなものだった。食事回数は1日4回に小分けにし過食を慎み、制限した食品は、パン、バター、牛乳、ビール、砂糖、ジャガイモなどの炭水化物。その一方、推奨された食品は、肉類(特に脂肪を含むもの)、魚、緑色野菜、赤ワインなどだった。この食事法により、バンティングは驚異的なスピードで体重を減らすことに成功。彼は食事療法を始めて1年足らずで約20kgの減量に成功し、健康を取り戻したのだった。体重の減少に伴い、活力の向上、呼吸の改善、関節痛の軽減が見られ、食事が代謝に与える影響の大きさを実感することとなった。この体験をきっかけに、彼は肥満治療の可能性に確信を持ち、同じ悩みを抱える人々のために、その知見を一般人向けの執筆によって広めることを決意した。

自身の成功に勇気づけられたバンティングは、1863年に『市民に向けての、肥満に関する書簡(Letter on Corpulence, Addressed to the Public)』を1000部自費出版し、彼の食事法をわかりやすく記した。このバンティング・ダイエットとして知られる方法の主な特徴は、パン、砂糖、ジャガイモ、ビールの摂取を避け、肉類、魚、非デンプン質の野菜、乳製品を摂る、そして適切な分量を守る、というものだ。この冊子は、彼が実践した食事法を詳細に説明し、多くの肥満者がそれを参考にできるように書かれていた。

当時の医学界の主流派からは民間療法として批判的に見られていたものの、この小冊子は瞬く間にイギリス中で話題となり、再版を重ね数年のうちに10万部以上のベストセラーとなった。当初は21ページほどで無料配布され、その後、増補改訂版が有料販売されたが、収益は慈善団体に寄付された。バンティングの名前は、「ダイエットをする」という意味で一時的に使われるほどの社会的影響を与えることになった。スウェーデン語では「banta」という単語が今でも日常会話に使用されているほどだ。

●20世紀以降の肥満治療の進化
バンティングの影響は20世紀から21世紀にかけても持続し、さまざまなダイエット法の発展に寄与した。1970年代にはロバート・アトキンス(1930-2003)医師の低炭水化物ダイエットが登場し、その急速な減量効果によって広く普及した。また、てんかん治療のためにもともと開発されたケトジェニック・ダイエットも、炭水化物を制限することで代謝を変化させる点で、バンティングの方法と共通している。さらに、近年注目を集めるパレオ(原始)ダイエットも、自然な未加工食品を重視し精製された炭水化物の摂取を制限する点で、バンティングの食事法と思想的な共通点を持っている。

そして、代謝に関する科学的理解が進展するにつれ、炭水化物制限のみでは肥満の本質を完全には説明できないことが指摘されるようになった。20世紀後半には「カロリー収支理論」が登場し、体重の増減は摂取エネルギーと消費エネルギーのバランスに依存するという考え方が主流となった。さらに、ホルモン調節に関する研究が進み、肥満が単なる意志の問題や食事内容の選択だけではなく、遺伝、インスリン抵抗性、神経ホルモンのシグナル、腸内細菌叢、代謝適応、慢性炎症といった多くの要因に関わる複雑な病態であることが明らかになった。バンティングの方法は現代の肥満研究と臨床栄養学に多大な影響を与えたものの、科学の進歩とともに、現代ではより精緻な理解と多角的なアプローチが求められるようになっている。

●GLP-1受容体作動薬の時代におけるダイエット
現在、GLP-1受容体作動薬は肥満治療における最前線を担い、単なる食事療法から薬理学的なホルモン調節によるアプローチへとパラダイムを大きく転換させている。セマグルチド(オゼンピック、ウゴービ)やチルゼパチド(マンジャロ、ゼップバウンド)といった薬剤は、食欲調節、インスリン分泌、胃排出の制御に重要な役割を果たす。従来の食事療法とは異なり、これらの薬剤は空腹感と満腹感を直接調節する生理的経路に作用し、大幅な体重減少をもたらすことが示されている。臨床試験では、これらの薬剤を使用することで体重の15%以上の減量も不可能でなく、食事と運動のみの介入を大きく上回る効果を示している。

しかし、このような薬理学的進歩があっても、バンティングの提唱した原則は依然として肥満管理において重要な役割を果たしている。GLP-1受容体作動薬を使用する患者の多くは、代謝を最適化し栄養不足を防ぐために、バランスの取れた低炭水化物・高タンパク質の食事が推奨される。GLP-1受容体作動薬は食欲やカロリー摂取を大幅に調整するものの、食事戦略は持続可能な減量と健康維持のために依然として不可欠である。

また、バンティングが推奨した規則的かつ意図的な食事パターンは、現代の時間栄養学に関する研究とも共鳴する。たとえば、インスリン感受性や体重管理に有益とされる「間欠的断食(インターミッテント・ファスティング)」の概念は、バンティングが空腹を否定的にとらえず健康改善を目指した考え方と一定の共通点を持っている。食事の選択が代謝機能に深く影響を及ぼすという認識は、たとえ彼の理論が現代の視点から見れば単純であったとしても、その根本的な考え方は今日でも重要である。

●バンティングの晩年と遺産
バンティングのアプローチは炭水化物の摂取を抑えることに重点を置いたものであり、史上最も早い段階で体系化された低炭水化物ダイエットの一つとなった。この方法は、特にヨーロッパの上流階級の間で広まり、従来の減量理論からの画期的な転換として注目された。当初は賛否両論を呼んだが、彼の提唱した原則は後の多くの食事法に影響を与え、現代のケトジェニックダイエットや低炭水化物ダイエットの先駆けとなった。

なお、バンティングは世界的に有名になったが、減量指導をしたハーヴェイの名前を明記したのは第三版からだった。ハーヴェイ自身も1872年に『病気との関係における肥満について、食事に関する若干の考察とともに(On Corpulence in Relation to Disease, with some Remarks on Diet)』 を出版したが、残念ながらバンティングほどの影響力を大衆には残さなかったようだ。成果を巧みに発信し得た者が歴史に残るというわけで、ハーヴェイには複雑な思いがあったに違いない。

ウィリアム・バンティングは晩年を健康的な体型で過ごし、1878年に82歳で亡くなった。彼の名は医師以外が肥満治療法を普及させた稀有な例として歴史に刻まれている。肥満治療史に残る業績を成し遂げた背景には、科学的好奇心と実践的な精神があった。彼の生涯と功績は、健康への挑戦が人生をどのように変え得るかを示す象徴的な物語だ。

 

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