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Vol.115 東北関東大震災が私に伝えたこと

医療ガバナンス学会 (2011年4月10日 14:00)


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獨協医科大学神経内科
小鷹昌明
2011年4月10日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


東北・関東大震災では、余波の覚めやらぬ状況が続いている。
多くの被災されている現地の人たちには慎んでお悔やみを、復興を支援している人たちには最大限の敬意を評します。

もう既に多くのメディアを通じて伝えられていることだが、震災の被害においては、病院の混乱も例外ではない。
石巻赤十字病院のように被災のど真ん中で孤軍奮闘する病院や、倒壊によりライフ・ラインが断たれ、患者搬送もままならない病院や、一定の患者を放出した ために機能が縮小され、マン・パワーの面では皮肉にも過剰といえる状態だが、その一方で医薬品や医療器具、油や食料等の生活物資の供給の乏しい病院や、大 量の患者を受け入れたために不眠不休の対応に追われている病院など、それぞれがそれぞれの立場を踏まえて、できるだけの役割を担っている。

わが大学病院は栃木県の南部に位置し、北は福島県に隣接する。外壁の一部に亀裂を生じ、図書館に被害が及んだものの、病室や外来には大きな損害はなく、人的被害もなかった。
周囲の倒壊した病院から透析患者や寝たきり患者、重症患者の受け入れを果たし、それなりに機能したのではないかと思う。南相馬市からも、入院患者を30 余名受け入れた。しかし、現在のところ多くの患者は家族と連絡がつかず、入院先が栃木県に移されていることを知らせる他の術はない。

本稿では、耐震設備や津波の威力、被災に対する行政や自治体、医療機関、警察・消防・自衛隊・米軍の対応について論じようというものではない。いつものことだが、災害医療においても、私はまったくの素人である。専門的なことは何一つとして伝えられない。
だから、医療者として感じた”生きる”という意味と、”何かをしなければ”という目覚めの大切さとについて、少しだけ述べる。

拍子抜けするようだが、震災翌日から私は何をしていたかというと、いつもと変わらず診療をこなしていた。
DMATとして出向いていった同僚医師をよそ目に、私は災害に対する特別な知識や情報を持ち合わせているわけではなかったので、相談窓口に駆り出されも しなかったし、救命の腕を買われて現地に派遣されることもなかったし、義援金を募ったり、物資の調達に東奔西走したりするわけでもなく、いつものように来 院する予約患者を診療し、相変わらず頭痛やめまいやしびれを訴える患者の診察に明け暮れていた。

もちろん、私のようなものでも医師の”はしくれ”として、愛用している山岳ギアを携えて被災地に赴き、テントを設営して診療に従事したり、義援金募金の 先導に立ったり、それでなくともボランティアとして復興の手伝いをしたいという気持ちはあった。しかし、大学病院を休診にしたうえで、そのようなことはし なかったし、神経内科医のようなものにはそうした要請もなかった。支援する人を、本当に遠くから支援するということしかできなかった。

現地の比ではないが、それでも私はガソリン供給が間に合わないために電車での移動を余儀なくされ、暖房の効かない列車に乗って2時間以上をかけて外勤先 の病院に赴いたり、人工呼吸器を装着して在宅療養をしているALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者宅に、充電式吸引器を届けに行ったり、停電の中でパソコン の灯りだけを頼りにデスクワークをこなしたり、いわき市から避難してきた患者を診察したりするような非日常を経験した。
その一方で、学内外を問わず、すべての会議や打ち合わせ、研究会や予定していたイベントがキャンセルされ、また、交通手段のない外来患者の受診が抑えられたために、診療時間を終了すれば比較的余裕のある日々を過ごしていた。
だから私は、週末には放射能漏れなど気にせず、いつもと変わらずトレッキングのために山に行き、自炊のための買い出しをして、自宅でDVDなどを観て、相変わらず夜な夜な読書をして、このような原稿を書いていた。

「当事者意識が足りない」、「何て呑気な奴だ」と言われれば返す言葉はないが、そんな中でも私は、被災地に関するテレビ中継やラジオ放送をできるだけ見聞きしながら、目の前の現実について考えていた。
震災後に私がまず思ったことは、栃木県南部における被災状況であれば、「これくらいの被害であれば生活にはまったく支障はないし、我慢できるな」という ことであった。シンプルな生き方をしている私のような人間にとっては、「多少の電力不足や断水、油の供給不足などは災害に含まれない」とさえ感じていた。
さらに漠然と、「この状況に、いったいどのくらいの人が耐えられるのか」とか、「他者とつながることに、どの程度の人が価値を見出せるであろうか」とか、「文明というものを、人はどの程度までそぎ落とせるのか」というようなことを考えていた。

そして、「人間はどのようにしたら苦難を受容できるであろうか」ということを考察していた。
戦後生まれの私たちは(”私たち”という言い方に反発を示す方がおられるようでしたら、”私”と一人称に換えてもいい)、自分たちの生活圏内における劇 的な価値の変動というものを経験してこなかった。飢えた経験もない、極限的な貧困も知らない、領土が侵されたこともない、近親者が虐殺されたこともない、 戦争に行って人を殺したこともない、一夜にして紙幣が紙くず同然になったこともない。私たちは平穏で無為な世の中に育ってきた。
物質で満たされたこの国では、欲しい物は何でも手に入るが、「”希望と目標”だけが手に入らない」などと揶揄されてきた。

これまで私は、自分のエッセイを通じて、「医療をやっていると、人の力ではどうにもならないことを経験する。運命的なことを考えていないと、いざ理不尽 な結果が降りかかってきたときに冷静に対応できなくなるのではないか。目標などというものを無理に掲げるから、少しの挫折で前に進めなくなるのだ」という ようなことを、不遜にも述べてきた。
体の不調を訴える患者を日々診療していくなかで、日本がゆっくりと衰退の一途をたどり、陰鬱とした状況が色濃くなってきているような気がして、「無関心 という関心を装い、不条理という条理を理解し、無責任という責任を引き受け、無気力という気力を振り絞って生きるしかない」などと語ってきた。
そして、景気や経済の好転、興味や関心の発展を望めないという現代の世の中を観察することで、「すでに多くの人に共有されている社会の目標はなくなっ た」ということを感じ取っていたし、もっと言うなら、「経済成長や上昇志向などよりも、もっと別の価値観を作ることが大切であるが、そうしたものが見つか らないから人は苦しんでいるのだ」などという、思い上がったことを表現してきた。

震災と津波は、私の高慢な考えをすべてひっくり返した。
確信したことは、「世の中には想定外のことが起こり得る」ということであり、現実として、「多くの人がそれによって一瞬のうちに命を落とした」という生の姿であった。
先進国において、便利で豊かな生活を送る私たちが、一体どういう基盤の上に存在し、生活をしているのかが今回の震災によって剝き出しにされた。「日本で生きるということは、こういうことなのだ」ということを、否が応でも思い知らされた。
地球という惑星は、人間の思惑など知ったことではなかった。私たちにできることは、ただ逃げ回ることだけであった。当たり前かもしれないが、科学にできることは、せいぜい地震や津波を多少早めに予知するくらいのことでしかなかった。

それから私は、被災地で肩を寄せ合い、協力して物資を分け合い、懸命に生きている人たちの報道番組を見ていた。
震災の範囲が広く避難所が点在していることから、ライフ・ラインの供給や安否確認、感染対策などの情報に大きなばらつきが生じていた。拠点の役場などが被災した自治体では、現状把握が困難であったからである。
そういうものを見るにつけ、「今日ある医療の現状は被災地とまったく同じである」ということにも気が付いた。情報に恵まれたり、たまたま専門医と出会っ たりして良質な医療を受けられる患者がいる一方で、治療の機会さえ与えられない患者もいる。入院できるかできないかが、そのときのベットの空き状況によっ て決まる。医療格差は歴然と存在し、増加する高齢者に対する医療や福祉対策などもまったく追いついていない。診療しきれない医療難民が増え続けている。

私が言うのも大変厚かましいが、今こそ”命の尊さ”と同時に”命の脆弱さ”をも伝えなければならない。でもそれは、私のような平和な人間が、訳知り顔で言うことではない。
震災直後の避難誘導を終えた後に、私は、仙台市名取川に沿って津波が押し寄せている凄まじいヘリコプターからのテレビ映像を見ていた。その私の横で、患者が一言つぶやいた。
「一発来れば何もかもお終いだね、オレの命もそんなもんかね」と。
どのような疾患で入院しているかは尋ねなかったが、私は黙って頷いたように記憶している。

一発来れば直ちに終了してしまうような”命”と、それでも逞しく生きようとしている”命”とをどのように扱ったらよいのか、人間たちの忘れかけた”死生観”というものをもう一度考え直す時期にきている。
今回の震災は、日本の災害史において多くの爪痕を残すであろう。絶望することもあるかもしれない。しかし、その一方で、被災地の人たちは、”生きる”と いう目標を明確に持つことができるのではないか。経済発展や近代化など、国家としての共通の目標がなくなったからといって、被災者たちは個人における目標 の設定に悩んでいる場合ではない。
震災から得る教訓というのは、せめてそういうことなのかもしれない。

福島原子力発電所の事故についても一言述べる。
消防や自衛隊の「命令が下されれば行くだけです」という決死の覚悟には、日本中の人たちが、その勇気と行動に胸を打たれた。
私の中での原子力発電所の臨海事故に関する認識は、チェルノブイリ原発事故があったが、その記憶は遠い彼方に埋もれていた。ウクライナ共和国もベラルー シも私にとっては地の果ての国であったし、そこで起こった原発事故をニュース等で知ってはいたが、とても実感などできなかった。
そもそも、そんなことでいちいち感傷に浸っていたら、「この現代社会を生き抜いてはいけない」とさえ思っていた。常に戦争があり、災害があり、犯罪があ り、どこかで誰かが死んでいるのが世界である。地球の反対側で起こっていることに責任を感じていたら、人生に絶望し、生活や仕事などできないと思ってい た。
「チェルノブイリほどの被害を出すことはない」と予想されてはいるが、いま隣の県で現実のものとして起こりつつある。

福島県の原子力発電所は、ほとんど関東の電力供給のためにある。資源のない狭い国土の中で爆発的な人口密度を有するこの国において、原発なしに先進国レベルの生活を維持することなど到底不可能である。
福島県近隣の農家や漁民、畜産は大打撃を受ける。「放射性セシウムの半減期は30年であるが、排尿や代謝によって体外に放出されるため、人体に影響をお よぼす実効的な半減期は100日程度である」ということなどの情報をしっかり提供し続け、原発立国としての覚悟を説かなければならない。

今回の震災では、一人ひとりが反射的に「何かをしなければ」と切望した。その後もじっくり「自分に何ができるか」ということを考えた。
そして、被災地では自ら移動でき、衣食住を確保できる人しか機能しないということを知ることで、多くの個人は「義援金」や「節電」、「まとめ買いや無駄なメールや電話を控える」という些細な支援しかできないことも同時に悟った。
他人のために何かをするということは、想像するほど簡単なことではない。いくら支援といえども、被災者と非被災者とが同時に生活することで、その間に軋轢が生じないとも限らない。
しかし、「衝動的に、ボランタリーに”利益のないことをしたい”、あるいは”する、できる”という、そういうことが人間の本能としてしっかり備わっていたということに改めて目覚めた」ということが、これからの日本にとっては、ものすごく大切なことなのではないか。

東北の各大学病院の医局スタッフが、薬品を持って被災地の病院や救護所をまわっていると聞く。一般市民と同様に医療職員の中にも、家族や我が家をなくし たり、家族の所在がわからなくなったりした人もいる。震災で活動する医療者も、多くの場合被災者である。両親と連絡の取れない状態でも、病棟で勤務してい るナースたちがいる。それでも懸命に働いている。

いま私は、こうして滞ることなくいつもの診療行為を継続できている。それは、私たちの病院が震災を免れたからではない。不測の事態に備えて多くの職員や 業者の人たちが、いつも未然に対策を講じ、修復してくれているからである。それが、想定の範囲をたまたま超えなかっただけである。
「被災地のために何かしたい」と思案した結果が、この拙い文章であった。情報としてはまったく役に立たないような個人の思想的なことばかりを語ってしまった。
慎んでお詫びするとともに、多くの被災された方々に対しては、少しでも早い立ち直りが実現できますよう、お祈り申し上げております。

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