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Vol.25188 大峯山山上参り・前鬼修行で気を整える(後編)

医療ガバナンス学会 (2025年10月10日 08:00)


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鉄医会附属研究所
高橋謙造

2025年10月10日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

8月30日、修行二日目の目覚めは朝5時。爽やかな目覚めだった。宿坊から出て、大峰山寺にお参りし、本尊である蔵王権現を拝観する。その場で一同般若心経。肌寒い山上の空気の中、気持ちは引き締まる。
宿坊での朝食。お漬物、海苔、味噌汁に白飯。ご飯がありがたい。今日の行程を考えて、ご飯は3杯いただく。普段登山などの趣味がない自分は、「しゃりばて」という言葉を初めて知る。炭水化物が不足してエネルギー切れ(低血糖)を起こし、体が動かなくなる状態のことをいい、ハンガーノックとも呼ばれるようだ。「しゃりばて」の予防には、米の飯が一番いい、という先達方の言葉を身を以て知る。米の飯は強い。

金剛杖をもち、下山していく。「よう、お参り。」と声をかけてくれる方々とすれ違いながら下山する。20人以上の大所帯である。人とすれ違うにも、「あと20名ほど通ります。」とお伝えすると、「ありがたいことや。」と声をかけてくれる。修験者たちが受ける敬意に土地の文化を実感する。下山道とはいっても、道は険しいし、通るべき難所も同じである。しかし、3時間ほどで、スタート地点近くの五番関トンネルにたどり着く。

ここから車移動し、次なる修行場、前鬼集落跡に到着する。ここは、日本遺産でもあるが、現在は一家族のみが居を守っている。修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)に弟子となった夫婦、前鬼と後鬼の間には5人の子供が生まれた。鬼熊(きぐま)、鬼童(きどう)、鬼上(きがみ)、鬼継(きつぐ)、鬼助(きすけ)の五人で、役行者から後々の行者を支えるようにと1300年前(白鳳三年)に仰せつかった役目を果たすためにこの地に行者坊、不動坊、中之坊、森本坊、小仲坊を創建し、以降現代に至るまで行者の世話をしてきたそうだ。
なお、名前の先に「五」をつけて五鬼助(ごきじょ)のように名乗るようになったのは、明治3年の平民苗字許可令、明治8年の平民苗字必称義務令以後、国民がすべて名字を持つようになってからのようだ。現在は五つの坊のうち小仲坊のみが残り、鬼助の末裔である五鬼助義之さんが山伏のお世話をして下さっている。

ここで更に男女メンバーが合流し、昨日、体調不良で途中下山したメンバーも加わり、総勢30名以上の大所帯で本日の水修行の場に向かう。先達の後ろには、昨日の体調不良メンバー、その次に私が続く。彼の歩みを気にしつつ、やはり「かけ念仏」を唱え、「さーんげ、さーんげ、六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と一同唱和しつつ水場に向かう。人が踏み固めてできた道ということだが、本当に狭い道であり、金剛杖の突き方次第で簡単に滑落してしまいそうな道であった。

ここで、トラブルに直面する。ただ、歩いていた時に、「ぶぅーん!」という音がしたと思ったら、後頭部に激痛が走った。手で払うが、羽をバタバタする感覚と更に強い痛みを感じた。それでもなんとか払いのけると、2−3秒で敵は離れていった。メンバーが次々とやってきて、早速腫れ始めた私の後頭部を確認してくれた。「謙造さん、多分、アブに刺されたんだよ。ハチだったら、いきなり刺して来るはずはないから。」と言いつつ、毒の吸い出しキットや抗生剤軟膏で手当をしてくれる。
これで修行中断か?と思ったが、痛みはするものの、まだまだ動ける。一瞬で自問自答。「大丈夫か(OKだ)?周囲に迷惑をかけないか(みんな協力してくれる)?水行に行きたいか(勿論!)?」
一同が動き始める。「かけ念仏」を唱和しながら歩いていくと、気持ちも落ち着いてくる。

やがて、垢離取場(水場)にたどり着くが、崖の上から見下ろした垢離取場は遥か下方だった。まだ、遠い。以前の私ならうんざりとしていただろうが、「ひとぉーつ、ひとぉーつ、だな。」と淡々とした気持ちで崖を下っていく。
垢離取場にたどり着く。眼の前に美しい滝が流れる淵があった。先達が酒を水場に捧げ、般若心経を唱える。男性は褌一丁、女性は綿の装束をまとい、水場にはいり、六根を洗い流す。唱える文言は、「さんげっ、さんげっ、六根清浄」と連続して唱える。水は冷たいが、流れる水に「心のおり」が流されて行くような実感があった。
この水場にいればいるほど心が洗われるような実感があり離れがたかったが、やがて宿坊に戻る。帰りに、昨日脱落した彼の歩みが随分と安定していることに気づいた。時々、こちらを振り返り、ニコッと笑って見せる。歩を進めることで余裕が出てきたようだ。

前鬼集落跡の宿坊に戻り、まずは般若心経を唱和し、豊富な水で汗を落とす。今日の夕食は豪華で、香の物の他に豆腐、焼き鮭まで出てきた。明日のことを考え、米の飯を詰め込む。というより、飯が食いたくて仕方がない。こんなに米を美味しくいただいたのは何年ぶりだろう。
やがて、酒盛りが始まり、皆が、この2日間の感想を伝え合う。それぞれに深い感慨を持っているようだった。
宴も進んだ頃、81歳になる五鬼助さんが前鬼村の歴史を教えてくれる。五鬼助さんは、当家の61代とのことで、家系図も示しながら、役行者がいた頃からの歴史を語ってくれた。素晴らしい語り部であった。
最後に、修行に居合わせた僧侶が、五鬼助さんとの昔のかかわりを話してくれる。過去に生に絶望して、冬の雪山に修行に入ったこと。吹雪の中で、木々が嘲笑うかのように揺れ動くなか、般若心経を唱えたことなど。「これからは、人のために生きようと思っとるんですわ。」という言葉は重く感じた。

最終日は、金峯山修験本宗の総本山、金峯山寺に詣でた。秘仏である蔵王権現 3躯は開帳されていなかったが、祈りを捧げることができた。この寺の気脈に触れた時に、自分の中でのこれまでとこれからについて思いを巡らせた。なぜ医師になったのか、なぜ大学の教員になったのか、自分は何者でいたいのか。徐々に答えが浮かんで来ていた。

最後は、東大寺にて、二月堂副院主の清水公仁師から二月堂の由来や、大仏様のお話などを伺った。ここでクライマックスがあった。大仏様の足元に一段登らせて頂き、台座に並んだ我々が、般若心経を朗々と唱和したのである。いつもの般若心経の何倍もの時間唱和しているような不思議な感覚があった。長く感じたのは、唱えつつも、自分の生き方の考えの整理が付いたからである。
唱え終わると、台座の下の方からたくさんの旅行者のカメラが向けられていた。

こうして、3日間の修行が修了した。すべての時間に意味があったように思う。その意味では、私を刺したアブとの関わりにも意味があった。アブは、単に自分の生命維持の目的で、私という標的めがけて襲って来たのだろう。自分は払い除けたが、アブはなおもしがみつこうとした。しかし、払われて逃げていった。最初に私は、アブを「敵」と書いたが、実は敵ではなかった。何も悪いことをしていない状況でも、災厄は襲いかかる。そのメッセージを運んで来たのがアブだったのだ。
かつての私であれば、敵意を剥き出しにして、殺虫剤を使用したいと身構えただろう。しかし、今回の学びを通して、「払えば逃げる程度の存在に、真剣に身構える必要はない。」と学んだ。人間でも同様である。払えば逃げる程度の小人に真剣に相手しようとするのは時間の無駄だ。

また、中田医師が伝えてくれた「すべてひとりでなんとかしてしまおうとする」姿勢についても学びを得た。「ひとりでなんとかしてしまおうとする」の反対は、群れたり徒党を組むことではないと悟った。今回、大所帯のグループで移動している中で励みになったのは、「同じ方向を向いている安心感」であった。左がかった人間たちはその考えが危険だ、と騒ぐだろうが、危険なのは新聞、雑誌などのオールドメディアや政治家、官僚である。これらは、ただただ危機感を煽り立てて、強引に問題意識、危機意識をもたせようとする。
私が同じ方向を向くといったのは、今回でいえば「修行の成就」である。それぞれが抱える問題意識は異なっているが、皆が「成就」の方向を向いていた。その際の、皆の信頼感、互助感は、強いものだった。

今、日本を牛耳っているサヨクメディアやサヨク政治家たちは、「成就」が「平和」という言葉に置き換わったとしても、「その考えが危険だ」とレッテル貼りをするだろう。強引に同じ方向を向かせることには意味はない。

以上のような様々の学びを通して、今回の修行は終わった。筋肉痛は数日で消退したが、心はそんなに簡単には元に戻らないのである。泰然としている。そして、仕事に向かう時に、イヤホンをしなくなった。「さーんげ、さーんげ、六根清浄」と今でも唱和しながら歩いているのである。

 

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