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Vol.25209 ごった煮の系譜 駒場に息づく旧制一高の精神

医療ガバナンス学会 (2025年11月1日 08:00)


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東京大学教養学部
前期課程理科三類2年
清水 敬太

2025年11月1日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

いま東京大学の医学部で2年生をしている。最近、駒場キャンパスから本郷キャンパスへと、通うキャンパスが移った。赤門や安田講堂をはじめとする有名な建造物があり、門をくぐってずっと伸びる道と銀杏並木には思わず背筋が伸びるようだ。

ふつう東大と言ってイメージするのは後者の本郷キャンパスだろう。しかし、駒場キャンパスに1年半通った後に本郷キャンパスに通い始めると、あまりの雰囲気の違いに驚き困惑することがある。

たとえば、駒場には通称「タテカン」とよばれる「立て看板」がある。「資本論を読もう」と言う民青から、「日本を守る」と言う右翼系サークルまで、幅広い宣伝や主張が立ち並んでいる。教養学部の学生がつくる自治会と、大学本部とが協議して決められた規則があり、それに従いさえすれば誰でもタテカンを立てることができる。その規則というのも、もっぱら物理面の安全に関するもので、内容は自由だ。

駒場の至る所にタテカンは立っており、誰もが学内でそれを目にしている。ところが本郷に来て驚いた。タテカンが一つもないのだ。それは学生たちがタテカンを立てる気がないのではなく、大学本部からタテカンが禁止されているのだ。最近だと、昨年の夏頃に、学費値上げをめぐる大学本部の対応を批判するタテカンが立ったが、すぐに大学本部の手によって撤去された。

本郷で、大学らしいいかにも権威的な雰囲気を味わってから駒場を振り返ると、駒場には独特の「ごった煮」の雰囲気があった。それをカチッとした言葉で言えば「多様性」となるだろうが、駒場のそれはなかなか生易しいものではない。

駒場はエピソードに事欠かない。たとえば、1968年、東大紛争の時代だ。本郷の安田講堂をめぐる攻防のイメージが強いかもしれないが、紛争の波は駒場にも押し寄せていた。その年に開かれた第19回の駒場祭では、のちに作家として大成する橋本治が「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」という有名なポスターを制作していた。大学本部と対立することを恐れず厭わずに、かつ自らの追求する芸術性を昇華している様子が見て取れる。

別の事例としては、1987年頃の、中沢新一の任官をめぐる問題がある。一部教員が中沢新一の任官に強硬に反対したことに反発して、西部邁・舛添要一などの当時の有名教員が退職した。中沢新一というある種のトリックスターを受け入れようとし(結果的には受け入れきれなかったわけだが……)、さらに一部の教員は自らの信念を、職を辞してまで貫いたという、芯の通ったエピソードだ。

タテカンの存在や、これらのエピソードが示す通り、駒場には「ごった煮」の気風がある。基本的に懐が深く、多様性を許容するような、なんでもありの雰囲気がある。

駒場のこの特徴は、なぜ、どのようにして形成されたのだろうか。それは、駒場の前身である旧制一高が文化を形成した時期と大きく関係していると私は考える。

今は駒場と本郷のどちらもが東京大学だが、戦前は二つは違う組織であった。今の本郷のほうが東京帝国大学、今の駒場のほうは旧制第一高等学校の流れをひいている。旧制一高はもともと、明治10年に東京大学ができるのにあわせて、東大の予備門として設立され、明治19年に第一高等中学校となり、これがいわゆる「一高」と呼ばれるようになる。その後も東大進学への前準備をする学校という側面はつねに持ち合わせたものの、その風土・文化は東大と距離が存在してきた。

組織の源流は、草創期の人事を見ればわかる。ここでは草創期の一高の校長を、適宜東大と対比させながら紐解いてみよう。帝大総長は天皇が任命する勅任官である一方、旧制一高の校長は文部大臣が決める。つまり旧制一高の校長人事は文部大臣から直接に強い影響を受けるため、当時の文部省の考え方をよく伝えうるのである。

明治19年に一高となって以来、初代と第2代の校長は官僚であった。はじめは、強く力のある国家という枠組みを作ることに注力していたと言える。今の駒場とはやや違う雰囲気で、国家に従順なエリートを作ることを目指していた。初代校長である野村彦四郎(明治19~20)は、戊辰戦争にも参加した元薩摩藩士であった。体育教育を推進するなど、自らが受けた薩摩藩流の郷中教育を受け継いでいることがうかがえる。

次の第2代は古荘嘉門(明治20~22)である。熊本出身の政治家で内務省官僚。教育者としての経歴はない。彼は、当時盛り上がりを見せていた自由民権運動を嫌い、それに対抗して国家による統制を強めることを望んでいた。それだけではなく、この時期には珍しく天皇を万世一系のものとして崇めるようなナショナリスト的な側面を持っていた。

このように初代と第2代の校長が官僚であったことには、当時の時代背景が影響しているだろう。明治のはじめごろ、明治政府の統治はおおむね安定しておらず、藩や不平士族が反乱を起こしていた。それが明治10年の西南戦争を機におさまったが、今度は農民のボトムアップ的な反乱が起こるのである。代表的なものが、明治17年の秩父事件だ。麻布高校の創立者として知られる江原素六や、武蔵高校の創立者として知られる根津嘉一郎も、このような自由民権運動にシンパシーを感じていたくちである。

明治政府も自由民権運動の雰囲気を無視しきれはしない。明治23年に帝国議会が開設されたのは、そのような時代のひとつの象徴的な事件だと言えるだろう。それに符合するようにして、第3代の校長から急にリベラルな雰囲気が感じられ始める。

第3代校長である木下廣次(明治22~26)は、その後の一高の歴史を運命づけた大きな転換点の人であった。彼は1851年に熊本に生まれ、親は藩に仕える儒学者だったという。彼がこれまでの二人の校長と大きく異なるところは、政治家・官僚ではなく法学者であって、学者肌であるところであり、なによりフランスに長く滞在した経験があることである。これまでの二人の校長は洋行の経験がなかった。対照的に木下は、フランスで法学を学び博士号を取得した。1875(明治8)~82(明治15)の7年間、パリ・コミューン後のざわついた雰囲気のパリで自由の空気を学んできたのだ。

一高校長としての彼の最も大きな功績は、自治寮を創設したことである。このことは、当時の日本にとってきわめて新しいことであった。その新しさは次の2点に集約される。まず一点目に、そもそも寮が存在するということである。それまでの日本の学校といえば藩校であり、その藩の人しか通わないわけだから寮は基本的に不要だろう。しかし一高には日本全国から人が集まってきており、そのため寮を持つようになった。ヨーロッパでは、寮は、キリスト教修道院やパリ大学・ボローニャ大学など中世の大学の、学問のために国境を越えて移動する世界市民的な学究文化に裏打ちされたものだ。それを輸入したのである。

もう一つの新しさは、「自治」寮であることである。自治はもともと木下が予定したものではなく、学生側の強い要求で付け加えられたようである。ここでの自治はつねに難しさがつきまとう。彼らのサイフを握っているのは結局学校側だからだ。経済的に自立していていない状況で、自治や精神的自立を語ることは本来的に困難である。
以前、駒場には駒場寮とよばれる自治寮があり、この一高の自治寮の雰囲気を残していた。もっともその駒場寮は2001年に解体されてしまった。早期の解体を求める大学に対し、寮に入居していた学生たちは反発していたが、結局は大学側の意向通りに駒場寮は解体されてしまった。このような解体の経緯はまさに象徴的で、結局のところこのような自治寮がどこか不安定であることを如実に示している。

そのように百点満点の滑り出しではなかった自治寮だが、その後の一高の雰囲気の形成にきわめて大きな影響を与えたことは間違いない。他の旧制高校は自治寮を作れず、旧制五高では一高の自治寮をまねてとりあえず自炊だけしていたというありさまである。このようにして自治寮は一高に特権的なものとなり、他からの憧れを一身に受けることになった。このようにして、一高の学生たちには、自分たちは単なる国家的エリート以上のものである、という意識が形成されるようになったのだ。

その後の校長も、国家的エリートというより、国際人や教養人らしい人々が続く。第4代の嘉納治五郎(明治26)は、灘高校の創設者で、柔道を世界に広めオリンピックを日本に誘致しようとした。まさに国際人の典型例だろう。また第7代の狩野亨吉(明治31~39)は倫理学や哲学が専門だが、本を読みまくるも自分では本を書かないタイプの、自由で飄々とした教養人だったという。第9代の新渡戸稲造(明治39~大正2)も、のちに国際連盟の事務局次長を務めるような国際人で、一高にアメリカ式のリベラルアーツ教育を持ち込んだ。

一高を象徴するような有名な寮歌は、明治35年、第7代の狩野亨吉が校長を務めていた時代に歌われたものだという。一高の外での立身出世を「低く見」ながら、一高の内側の論理にのめり込むようすが、誇らしげに描かれている。

嗚呼玉杯に花うけて 綠酒に月の影やどし
治安の夢に耽りたる 榮華の巷低く見て……

ところが、そのようにばかりしてもいられない。戦争は一高にもやってくる。

東大(帝大)は、まさに戦争遂行に与したような組織であった。たとえば、医科研(医科学研究所)伝染病研究を通じて軍と接点を持っていた。。あるいは、海軍軍人が東大の総長を務めていた。これは平賀譲のことで、軍人といっても船の設計屋さんといった雰囲気だったようだが、いずれにしても歯止めが効かなかった様子が見て取れる。

一方、対照的に一高は、戦時体制への熱心な同調を避け、相対的に冷静で距離を置いた態度をとった。一高は「思想的に危険な学校」として文部省や特高警察からしばしば注視されることもあったという。しかし一高の校長・教員は、他校に比べて相対的に政府への迎合的発言を控える姿勢を取り、結果的に難を逃れたのである。

このように、いろいろと世間からは煙たがれる思想が駒場では育ってきた。これがまさに駒場の「ごった煮」的気風であり、それをここまで保ってきたのが(一高と)駒場の魅力である。ときには沈黙するという消極的手段しか取れないこともあった。それは必ずしも評価できないが、少なくともただ体制に迎合するということはなかった、と言えるだろう。

 

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